第36話 あらし(3)

 「あの日」とは、相瀬あいせの父が遭難した日だ。

 あの日も波が高いという話は聞こえていた。相瀬はまだ娘組でも歳が下で、次の頭にもなっていなかったので、大小母おおおばがその天気をどう言ったかは知らない。たぶん、今度と同じように、海が荒れる、嵐が来ると言ったことだろうと思う。

 でも、これぐらいならばだいじょうぶだろうと、漁師組は船を出した。それほど遠くまで行くことにはなっていなかったことも油断のもとになった。

 ところが、空には少しずつ雲が多くなり、昼過ぎには一面の曇りになった。障子を取りはずしている家のなかでも母の顔がよくわからないほどに暗くなった。村の岬と北の岬と筒島様に守られているこの村の浜も騒がしく波立ち始めた。

 日暮れが近づくと、風は家が吹き飛んでしまうか心配するほどの強さになり、日暮れまでまだ間があるはずなのにまっ暗になった。風ですぐに吹き消されてしまうから明かりもつけられない。家が陸の上にあるのか水の底にあるのかわからないほどのたくさんの雨が、おけで力いっぱい叩きつけるような勢いで降った。

 船は帰って来なかった。

 あのときの母親の様子をよく覚えている。

 風が吹き抜け、海の面のように床にたまった雨が波を作って流れ、反対側へと流れ落ちていくなかで、ずっと相瀬に向かって笑顔を見せ続けていた。

 もう子どもとはいえないくらいに大きくなっている相瀬を軽く抱き、自分の知っている歌を次から次へと歌い続けてくれた。

 やさしい、やわらかい声で。

 風は生暖かかったが、雨に濡れた着物が風に吹かれると身震いするほど冷たい。暑いのと寒いのとが同時に襲ってきていた。

 そんななかで、母の胸や腕は、温かかった。

 ここにこうやっていれば、嵐がどんなに吹きすさんでも安心だと思っていた。

 母の心配は、それどころではなかったはずなのだ。

 そして、相瀬がそうやっているあいだに、船は筒島に乗り上げ、壊れ、乗っていた者たちは一人を除いて助からなかった。その一人もひと月も経たないうちに気が触れてしまった。

 そして――。

 相瀬が母が歌を歌っているのを聴いたのは、そのときが最後になった。

 悲しみにくれ、気が弱くなり、そして怒りっぽくなった母は、そのあと歌を歌ってくれることもなくなり、それどころか優しい笑顔もめったに見せなくなり、父のあとを追うようにこの世からいなくなった。

 ――相瀬は、一人、この世に残されたのだ。

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