第35話 あらし(2)
浜辺に出たところで
「あ、
と声をかけられた。
「相瀬さんが来た!」
と言いながら袖をつかんで引っぱって行く。
「何があったの?」
相瀬がきくと、房が
「漁師組が船を出した。沖で
と言う。相瀬はなぜか急に胸がつかえるように感じた。
わざとのんびりときいてみる。
「今日明日は、明日の夜が月待ちだから遠出はしないって言ってなかった?」
「それがさ」
浅葱が横から口をはさむ。早口で言う。
「今朝がた
房と萱も相瀬の顔をのぞきこんだ。
「もう!」
また
「それも、
「そうそう。
浅葱がまた横から言う。
「あー」
林助というのは漁師の若者組の頭だ。体が大きく、いつもぼうっとしているし、仕事がなければ昼でも平気で寝ているというつかみどころのない男だ。なぜそれが頭なのか、よくわからないが、たぶん声が大きいからだろう。頭のくせにがさつなのは相瀬も同じだから人のことは言えない。ただ意地になると人の意見を聞かないのが困ったところだ。
「それなら若者組だけで出たんだ」
「うん」
房が言って、眉をひそめて相瀬の顔を見る。どうすればいいかを相瀬にききたいのだ。
とは言っても、海女の娘組としてできることは何もない。船が出る前ならば林助や貞に食い下がってつきまとい、
しかも、それは相瀬に何ができたかということで、娘組として何ができるかというと――。
そこまで考えて相瀬は気づいた。
だれにともなくきいてみる。
「真結は?」
四人の娘組の海女たちは顔を見合わせた。
房と譲り合って、萱が言う。
「それがさ。林助が船を出すっていうのに、しつこくくっついて回って、大小母様やお頭の言うことをきくようにって何度も何度も言ったんだけど」
萱がそこでことばを切る。浅葱が、浅葱らしくもなく少しためらったあと
「若者組の連中がさ、女のくせに口なんか出すな、おまえたちみたいに遊びみたいな漁をやってるんじゃないんだ、とか言って」
「そうそう。真結さん、それで泣きそうになってしまって」
麻実がことばを添える。
怒りと後悔が湧いてきた。
――いったいこの国の天下を支えているのはだれだと思ってるんだ!
鰯なんか、この近郷で、油を絞って、
いや、それは姫様に教えてもらったことだ。口に出さないほうがいい。
相瀬がいてやらなければいけなかった。
相瀬ならば
真結にはそれはできない。若者組が海に出て、海が荒れて困るのはべつにかまわないけれど、真結によけいなつらい思いをさせてしまった。
「それで、真結は?」
「いま名主様のお屋敷に行ってる」
房が答える。萱が
「たぶん、その佃屋さんの注文っていうのを確かめに行ったんだよ」
と言った。
そんなことをしても何にもならないのに、と相瀬は思う。
でも責める気はない。真結は真結で何ができるか考えているのだ。懸命に。
相瀬は一つ大きく息をついた。
「まあ、わたしたちでできることは何もないから」
娘の海女たちに
「それより大小母様が海が荒れるって言ったのなら、今日は海に下りちゃだめだよ」
と言い渡す。娘の海女たちは、うん、とか、はい、とか返事した。
相瀬が浜のまん中のほうに目をやると、
娘の海女たちを残して、そちらに向かう。
「相瀬ちゃん」
美絹が声をかけてきた。
どう答えていいかわからない。
「もう。また貞のやつがみんなに迷惑かけて」
こんなことを言うと美絹が気を悪くするかなと思ったけれど、いずれ言わなければいけないことだし、言う相手は美絹以外にいないのだから、しかたがない。
ところが、美絹は間延びした声で
「えぇーっ?」
と言う。相瀬がきょとっとすると、美絹は
「貞がどうしたって? あのひと、家に帰っちゃったけど?」
と続けた。
「はい?」
相瀬はますますわけがわからない。
「でも、佃屋さんが……」
佃屋の養子にならないかとさそわれている貞吉のことだ。今日も船を出そうと言い張ったに違いない。林助とはずいぶん感じが違うが、言い出したらきかないのは貞吉も同じだ。
それが、どうして家にいる?
「貞のお父さんのぐあいが悪いんですか?」
「いや、そういうことじゃなくてね」
美絹が言う。相瀬はとりあえずほっとする。美絹は続けて言う。
「あのひと、今日と明日は二十三夜様を控えて遠出しないって決まりになってるんだ、いくら佃屋さんに言われたからって、決まり事を変えていいわけがないじゃないかって意地張ってね」
「はあ?」
それは……いったいどういうことなのだろう?
「だって、あいつ、村の決まり事を、ただ昔から決まってるからって守るなんて、いまの世のなかじゃもう通じない、ってあんなに言い張ってたのに」
「うん……」
美絹が目を伏せ、目を細めてから相瀬のほうを見る。
「こないだ、相瀬ちゃんが言ってくれたのが効いたんじゃないかな?」
それで、ふふっと笑う。
ふだんは美絹が笑ってくれるとそれで心が落ち着く。いまも心が落ち着きはした。でも考えなければいけないことがいっぱいあるように思う。
そのうちの一つをさっそく思いつく。
「いや、貞が
美絹は、隣で二人の話を黙ってきいていた香のほうをちらっと見た。
「
美人の香は、そう言った美絹を迷惑そうに見たけれど、何も言わなかった。
香は目下の者にははっきりとものを言う海女だった。でも海女になった順番でも歳でも美絹のほうが上だ。
それに香はやっぱり心配なのだ。美絹にも相瀬にも知っておいてほしいのだろう。
夫の
恒七にしても隆左にしても、また林助にしても、櫓
くやしいけれど貞吉は巧い。貞吉が大きい船を
その貞吉が櫓を執っているならば、沖に出て、波が荒くても何の心配もないのだけれど。
さて、どうしようと思う。
せっかく海が荒れるから漁に出るなと言ったのに、それを
だが――と思う。
たしかに、漁師の若者組が大小母の言うことを信じなかったのも、漁師の大人組がそれをしいて止めなかったのも、わかるのだ。
ときどき強い風が吹き抜ける。けれども、空はきれいに晴れている。夏にときどきあるぐずぐずした晴れ空よりもずっとよく晴れている。
大小母は先の天気をよく見通す。相瀬の知るかぎり――といっても相瀬もそれほどよくは知らないのだけれど――、はずれたことがない。
でも、この天気で海が荒れると言われても、このぐらいの海の荒れならばなんとかなる、この晴れ空でこれ以上は荒れまいと考えたのではないか。
その空をちぎった綿や糸くずのような白い雲が流れて行く。速い。雲は海のほうからやって来て、見ているうちに頭の上を飛び越し、山の向こうに消えて行く。
心の洗われるような天気だと思う。けれども、その空を見ていて、相瀬はとつぜん
「あっ」
と短い声を立てて息をのんだ。
ふと胸のまん中を突かれたような思いがした。
あの日がこうだった!
どうしていままで思い出せなかったのだろう?
あの日がこうだったじゃない!
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