第34話 あらし(1)

 空はよく晴れていた。海の色は明るい。底は膝を下ろしたら着いてしまいそうな浅い砂地だ。そんな砂地がどこまでも続いている。

 相瀬あいせはもうずっとその海を泳いでいた。

 水の底や岸辺のところどころにあの角を二本伸ばした大きいあわびっている。人のような大きい陰が岸辺や水のなかにところどころ立っている。こちらを見たり、その者たちどうしでのんびり話をしていたりする。

 ここが鬼たちの国なんだ。

 そう思ったところで、相瀬は目が覚めた。

 息をつき、寝転んだまま参籠さんろう所の天井を見上げた。

 朝の明かりが障子越しに天井を白く明るく照らしている。

 「わたし、夢を見てたんだ」

とぼんやりと思う。

 朝飯はもう終わっていた。神主様のお使いの男の子がおぜんを下げたあと、相瀬は参籠所の寝床にまた横になった。そして眠ってしまったらしい。

 神前で朝寝するのは、べつに禁じられてはいないが、いいことではないと思う。

 でも、海女の娘組は昨日いっぱい働いて、今日はすることがない。

 相瀬は、いちど起き上がりかけたが、また両手を拡げて寝床に仰向けに寝た。

 姫様にここから連れ出す方法について話すのを一日延ばしにしてきた。

 一昨日の夜はクワエシンノジョーの話をし、そのあと姫様を連れ出す算段について話すのがなんとなく億劫おっくうで、そのまま帰ってきてしまった。

 昨日の夜は明日の二十三夜様の支度が夜遅くまでかかった。海女の娘組は、昼は海女の仕事をし、夕方からは大人の海女たちといっしょに雑魚ざこのはらわたを抜き、出汁だしを取っていた。姫様にはできてすぐの煮物を持って行くことができた。でも、もう月の出が近かったので、姫様を逃がすための相談はせずに慌ただしく帰ってきた。

 もう、今日の晩しか話す機会がない。

 それにしても――と思う。

 ――姫様をだれに託してどう逃がすかは前に決めていた。

 姫様が鬼に会ったことがあると言ったときからだ。そのときはまだ思いつきで、考えは固まっていなかったけれど、それでいいかどうかを相談する機会はあった。

 それなのに、どうして、今日まで――。

 もう後がない日まで一日延ばしにして来たのだろう?

 失敗できないことだから?

 「村の大事」にも関わることだから?

 いや――と相瀬は思う。

 それだけの理由ではない。

 相瀬は口に出してみる。

 「わたし、あのお姫様とずっといっしょにいたかったんだ……」

 昼は仕事をしたり、祭礼に出たりし、夜はこの参籠さんろう所に籠もり、人目がないときを見計らって姫様に会いに行く。そして姫様からいろいろな話をきく。「鬼」の話も聞いた。あのサガラサンシューの話もきいた。学問とは一日に唐文字からもじ百行を覚えることだとかいうこともきいた。いまのこの国の天下は、その天下の海女たちが獲る鮑や海鼠なまことう国に売ることで支えられているということも知った。別院の周りに広がる「イセキの街」が何なのかも姫様が教えてくれた。

 人間が悪から逃れられず、したがって、身に覚えがなくても悪の報いからは逃れられないということも話してくれた。そして、そのことと、人間のだれもが「仏性ぶっしょう」を持っていること、つまりだれもが死ねば神様や仏様になれることとがつながっているのだ、ということも教えてくれた。

 それに姫様は真結のことをきいてくれた。真結の才の高さと、その真結が鮑にまで抱いている慈しみの気もちとがかかわり合っているということも姫様は言ってくれた。相瀬はといえば、海女としての才を持ちながら、その慈しみの気もちのために海女としての仕事が十分にできないのでは困る、ということしか考えられなかったのに。

 姫様と話ができたおかけで、自分のまわりがとてつもなく広がった。高いところに立ったときのように、遠くまで見通せるようになったと思った。

 ずっと姫様といっしょにいて、もっと姫様の話をきいていたい。

 ――でも、それは無理な願いだ。

 その一度きりの機会を逃せば、姫様はもう逃がせなくなってしまう。

 しかも、いま姫様に食べ物を持って行くことができるのは、相瀬が参籠中だからだ。参籠所から姫様のいる別院までは歩いて行くことができるし、その道は相瀬しか知らない。それに、参籠中ということで、参籠所のあるほこらまでは、ごく限られた人しか来ることができない。

 参籠が終わればそうはいかなくなる。相瀬は参籠所を離れて家に戻るし、参籠所のある祠まではだれでも出入りできるようになる。参籠所から別院までの道は覚られずにすむとしても、夜中に食べ物を持って家から別院に通っていたら、いつかは村のだれかに見られてしまう。

 姫様とは別れなければいけないんだ。

 だから、姫様にはそのことを話して、連れ出す算段を説明しよう。

 姫様はそれでどう思うだろう?

 喜んでくれるだろうか、不安がるだろうか?

 それより、姫様は相瀬と別れなければいけないことを惜しんでくれるだろうか? 悲しんでくれるだろうか?

 ――風がひとしきりうなりをあげ、参籠所の障子ががたがたと音を立てた。

 大小母の言う「意地の悪い風」が強くなっている。しかもそれがしきりに吹くようになっている。

 相瀬は起き上がった。

 建て付けの悪い障子戸を開ける。

 朝の空はやっぱりきれいに晴れていた。風だけが強い。

 ふと、その風とは違う声をきいたと思ったので、相瀬は村のほうに通じる道を鳥居のところまで行ってみる。

 「なんだろう……?」

 浜に人が集まっていた。男も女もいる。行ったり来たり、集まって話をしたりしている。

 姫様のことがわかってしまったのだろうか?

 そんなことはないと思う。

 でも、もしかすると、姫様がいつまでも見つからないことに苛立いらだったサンシューが、何かまた無理なことを言ってきたのかも知れない。

 相瀬は、参籠所に戻ると、また肌着の上に上着を羽織り、ばたばたと浜へと下りていった。

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