第33話 望み(3)

 ため息をつき、沈んだ声で言う。

 その「父」とは、姫様の実の父親で、ランギョーのすえチッキョさせられたオーイノカミのことだ。

 「下々の情に通じた名君になろうというのがその父の願いでした。そして、相良さがら様が低い身分からお取り立てになった方たちを次から次へとご自分の近臣になさりました。相良様もそうするようにお勧めになったのです。その人たちは来る日も来る日も領内で行われているよこしまなことを父に吹きこみました。身分の高い者は身分の高い者で偽りをなし、身分の低い者は身分の低い者は同じように偽りをなしていると。領内には偽りがあふれかえっている、まことのことなど一つもないと言い続けたのです。それで父はおかしくなってしまわれた」

 なるほど。そういうことか。

 あのオーイノカミも若いころはゆくゆくは名君になると思われていた。

 ――そんな話は、名主様のところでも聞いたし、もり大小母おおおば様からも聞いた。

 それはお世辞ではなく、ほんとうのことだったのだ。

 それをあのサンシューがだめにしてしまったのだ。

 「その人たちはうそをついたわけではないでしょう。低い身分で、才があったとしてもその才を活かす場もなく生きてきて、そこで何かにつけ感じてきたことだったのです。しかし、世が偽りに溢れていたとして、それが何でしょう? 人は真を通すために偽りをなすこともあれば、偽りを通すために真をなすこともあります。世が偽りに溢れていたとしても、それは世に一片の真もないということにはならないと思います。しかし、父にそういうことを言ってたしなめることのできる人がいなかったのです。私は幼かったですし。母は母で、真のための偽りなどという考えも浮かばぬひとでした。父は自分が正しく、自分が峻厳しゅんげんなつもりでいて、偽りを正すためには悪であっても行わなければならないと思うようになりました。偽りをそのままにする善よりは、悪によって偽りを正しすことが正しいと。そして、そのうち、善悪の見境もつかなくなってしまわれたのです」

 そうか、と思う。

 オーイノカミは、真と偽りの見境をあまりにはっきりつけようとして、やっていいこととよくないことの見境がつかなくなってしまったのか。

 けれども、姫様にこれだけは言っておかなければ、と思うことがある。

 「でも、わたしはたしかに身分の低い小百姓ですけど、上の身分の人たちをそんなふうに恨んだりはしません。それは、身分の高い人たちのことを、いやだな、と思うことはときどきありますけど、だから偽りばっかり、なんてとんでもないです!」

 「真結まゆいさんのことでなくても、声が大きくなりますね」

 姫様はいつものいたずらっぽい姫様に戻っていた。いきどおりをあらわにした相瀬を見てかわいく笑っている。

 ――とても愛おしそうに。

 「そのとおりです。つまり、相良様は、初めのころはそういう恨みの心持ちの強い人ばかりをお抱えになった、いや、たぶん、お抱えになってからそういう心持ちを増長させなさったのでしょう」

 「はあ……」

 それはたしかにインケンだ。

 「しかし、父上、つまりいまの父上が主君になられてからは、そういう者たちはうとんじられるようになりました」

 つまりギョーブ様の世になってから、ということだ。

 「それに、相良様もそういう者ばかりでは困ると思うようになられたのだと思います」

 「いや……それはなぜ?」

 「領内を治めるには、そういう人たちでは不足だったからです。やはり学もあり能もある人でなければ領内は治められません。それに、相良様ご自身が利発な方でしたから、ご自身の周りがそういう学も能もない人たちばかりで占められるのもご不快だったのでしょう。実際、そういう相良様の側近で、相良様までないがしろにするような人もいましたしね」

 「はぁ」

 自業自得だ。しかし、だからどうしたというのだろう?

 「そこで、わたしの父の治世が安定したころには、同じように身分の低い人たちでも、学があり、礼譲をわきまえた人たちを抱えるようになりました。その桑江という方もそういう若いお役人だと思います」

 「はあ……。あ、いや」

 相瀬はそうとばかりは言えない例を思い出した。

 「いや、そのクワエというお役人はそうですよ。でも、いっしょに来たヨシイゲンスケとかキタムラセーゴとかいう人たちは、一日じゅうお酒を飲んでおしゃべりしているとか」

 「自分が熱心に取り組めない仕事を命じられ、しかもその仕事をしてもしなくてもたいして変わりがないようなときには、そうなる人たちって普通にいると思いますよ」

 姫様はくすっと短く笑った。

 「永遠ようおんのお坊様にすらそういう方がいらしたくらいですから。いえ、相瀬さんは違うのでしょう。真結さんも、それと、美絹みきぬさんとおっしゃいましたか、前の頭の方も、相瀬さんと同じ組の海女あまさんも」

 「ああ、海女にはそういうのはいないなぁ……」

 のんびりと答えているが、相瀬は驚いている。

 姫様の前では一度しか口にしなかった美絹の名を姫様が覚えていたからだ。

 これならば、唐文字からもじばかり百行を覚えなければならない苦しみも乗り越えられるわけだ。自分にはけっしてまねができないと思う。

 学問とは自分にとってそれぼ遠いものなのだ。

 でも、とうにそれはわかっていたことだ。

 姫様の言ったことに話を戻す。

 「まあ、海女は一人で漁をしますから、一人ひとりの獲物の数とか量とか、はっきりわかりますから。どれだけ才があって、どれだけまじめに働いているか、すぐわかってしまう。男の漁師衆はどうなのかよくわかりませんけど」

 言うことが大人組のお偉方のようだ。

 姫様はきいて小さく笑い、続けて言う。

 「わたしは事情がよくわかりませんから何とも判じかねますが、その吉井よしい様や喜多村きたむら様も、居場所さえ違えばもっとご熱心な方たちかも知れませんよ。吉井様や喜多村様は早くからわたしが死んだと見切りをつけ、桑江様もそう思っておられたにしても、相良様に言われたことをやり遂げようとなさった。それは桑江様のほうがまじめなのかも知れませんが、吉井様や喜多村様が無能と決まったわけではありません。いえ、あの相良様がお取り立てになったのですから、何か見どころはあると思いますよ」

 姫様の話に釣りこまれるように相瀬は言う。

 「ずいぶんサンシューの手下に温かいおことばですね」

 「だって、相良様は、ご自身の役に立たないものにはまったく値打ちをお認めにならない方ですから。そういうことから言えば、わたしなんか相良様にとってはまったく値打ちがないということになりますね」

 「それはひどい!」

 とっさに感じた憤りをそのまま口にした。姫様が目を細めて

「声が大きいですよ」

とたしなめる。

 ああ、気をつけようと思っていたのに――と相瀬は思い返す。

 「まあ、ともかく相良様という方はそういう方なのです」

 姫様は落ち着いて言った。

 「たぶん、その名主様の頭を足蹴あしげにしていたような古い臣下は、私の父上にも嫌われ、相良様にも疎まれ、勢いを失っていくと思います。わたしが永遠寺できいていたところでは、すでにそうなり始めています。かわってその桑江様のように新しく抱えられた有能なお役人がこれから日の当たるところに出てくることでしょう。相瀬さん」

 呼びかけられて相瀬は顔を上げた。

 姫様は笑ってはいなかった。まじめに自分の両目で相瀬の両目を見ている。

 相瀬はその目を逸らさないようにして軽く無言で頷いた。姫様が続ける。

 「わたしは相良様が好きではありませんし、もちろん相良様のなさったことを許しはしません。相瀬さんも同じでしょう。でも、相良様が世に出された若いお役人たちがこのままこの領内を治めるのならば、相瀬さんや真結さんが村の大人たちをまとめるような大人になるころには、この領内はずいぶんよくなっていることと思います」

 姫様は、それから、目を細め、ふうっと息をついて、言った。

 「その日が来ることに望みをつないで、待ちましょう」

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