第31話 望み(1)

 日が経つにつれて月の出は遅くなる。

 白い光を見たように感じたあの十七日の夜以来、夕焼けの残りの薄明かりにも月の光にも身をさらすことなく姫様のところに行くことにした。そうすると、十八日、十九日は気が急いた。

 しかし、二十日にもなると、月が昇るまでずいぶん時間がある。それだけ気もちが楽になる。

 この前のようにさわらが水揚げされることはなかったが、沖に出た漁師衆はいわしは獲ってきたし、という小がつおを釣ってくる者もあった。相瀬あいせは、浜に出て、その鰯やと、あの黒い麦飯と、漬け物を少しだけ手に入れておくようにした。それで姫様にひもじい思いをさせずにすむと思う。

 姫様にはそろそろ連れ出しの算段を話さなければいけない。

 しかしなかなか話し出せなかった。

 月が昇る前に早く帰らなければいけないと気がいていて、姫様とじっくりと話す気になれなかった。それに、先に姫様と話しておきたいことがあった。

 二十日の夜には、姫様と話す時間がとれそうだったので、クワエのことを聞いてみることにした。

 次の夜には二十三夜様の支度したくが始まる。そうなるとまた姫様のところにどれだけいられるかわからない。

 姫様をつかまえに来たクワエについて当の姫様にきいていいかどうかは迷った。でもこれは姫様の身にもかかわることだからしかたがないと相瀬は思う。

 「ところで、前に話したクワエシンノジョーってお役人のことなんですけど」

 「ああ。わたしを探索するためにお城から村に遣わされていた人ですね」

 よく覚えている。

 「少し前だけど、そのクワエと話をしてきました」

 「はい」

 姫様はやっぱり不安そうだ。だからききたいことを先に言うことにした。

 「クワエはもう姫様を探し出すことにあんまり熱心じゃない感じがするんです。でも、それがほんとうに熱心じゃなくなってしまったのか、それともわたしを油断させてだますためなのか、それがわたしにはわからないんです。もし騙すためだとしたら、わたしはもっと用心しなければいけないから」

 「それはわたしにはわからないわ」

 姫様の返事はそっけない。

 でも、じかにクワエと会って話をしている相瀬にわからないものが、会ってもいない姫様にわかるはずがない。

 それでも、やっぱり無理だったか、とあてがはずれた思いになりかけていると

「もう少し詳しい話が聞けるものなら聴いてみたいわ。それならば何かお答えできるかも知れません」

と姫様が言った。

 けなげな姫様だと思う。

 思って、話し出そうとして、やっぱり気がとがめる。でも、そう言われて話さないのも気が咎めるので、相瀬は切り出した。

 「クワエは、姫様はもうこの世にいないって言ってました」

 「……」

 死んだことにされた姫様は黙っている。

 「お城の外とお寺の外に出たことのない姫様のことだから、こんなに長いあいだ逃げ回っていられるわけがない。きっと早くに自害して、だれかが亡骸なきがらを隠したに違いない、って……いや、縁起でもない話ですけど」

 「あまり見当のはずれた話ではありませんね」

 姫様は、落ち着いた、でもどこか冷たい声で言った。

 「わたしは早くに自害しようとしました。かなえは先に行ってしまいました。その桑江くわえ様のいまのお話、叶については当たっています」

 ひと息おいてつけ加える。

 「それに、わたしももう少しでそうなるところでした」

 もう、あの冷たい、どこか角のある調子は消えている。

 「わたしがこうして生きていられるのは相瀬さんのおかげです。しかも、毎日、おいしいものを持って来てくださるし。こんな嬉しいことはありません」

 「いや、べつにおいしいものは持って来てないと思いますけど……」

 相瀬が照れて言う。姫様がふしぎそうに首を傾げた。

 「おいしいではありませんか。お城でもめったにいただく機会のない、ていねいにつくったおさいもありますし」

 それは神様に差し上げるものだから、だろう。

 「それに、ときどきふしぎなものがありますけど、それはそれで味はよいですし、世には、いえ、この領内にも、いろいろな食べ物があるのだということがわかります。初めはお城、次に寺という、このような育ちの身では知ることができなかったものです」

 「はは……」

 相瀬はふすまだらけの黒い麦飯の味がよいとはとても思わなかったけれど、姫様がそう言うのだからそういうことにしておこう。たしかにそういうものはお城でもお寺でも食べられないだろう。

 「それに、食べ物そのものの味が伝わってくると思います」

 まあ、それはそうだろうな。せいぜい塩がまぶしてあるくらいだから。

 でも食べ物の話をしているのではない。相瀬は話を戻した。

 「それで、そのクワエというお役人はそんなことを言っているのですが、これはわたしを騙すためでしょうか?」

 「相瀬さんを騙すのは、相瀬さんがわたしの居場所を口走らないかと思って、ということですか?」

 姫様は逆にきいてくる。

 「ええ」

 「相瀬さんがわたしの居場所を知っているとその桑江様が見当をつけたとして、それはどういう事情でですか? 前に話をきかれたりしたのですか?」

 「いえ……」

 そういうことは思い当たらない。

 「クワエとじかに会ったのは初めてです」

 「では、どうしてそんなふうに思うんです?」

 「いやぁ、クワエという人はまじめなようだし、それにあの疑り深いサンシューの手下です」

 「ああ、そういうことですか」

 姫様は短く笑った。

 「相良様のお手下だから陰険に違いないと、そういうことですね?」

 「ええ」

 「それはないと思います」

 姫様はあっさりとそう答えた。

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