第30話 悲しい空(3)

 大小母はひとつ息をついてから、どうでもいいことのように相瀬あいせに問うた。

 「ところで、おまえは、あの真結まゆいがどうして海女になろうなどという気もちになったか、知っているか?」

 「あ? あ、いいえ」

 そんなことは考えたこともなかった。

 「美絹みきぬの話では、真結が最初に浜に来たとき、おまえがまず強引に海に引っぱりこんだということではないか。それでも知らぬのか?」

 大小母は咎めるように言う。

 「はい」

 相瀬は悪びれずに答えた。

 「あのときは、同じ年頃の女の子が来た、っていうだけではしゃいでいただけですから」

 大小母は大きくため息をつき、しばらく何も言わない。

 しかたがないと思う。

 いまの相瀬ならばもう少しくらいならば心配りする。少なくとも、一度も浜に来たことのない女の子が海女になりたいなどと言ってきたら、どうしてそんなことを考えたの、というぐらいは聞くだろう。

 でもあのときはそんなことは思いもしなかったのだ。

 「親類一同で集まったとき、名主様が、海女あまのなり手が少ないことを嘆かれた。それをきいて、それならば自分が、と言い出したそうだ」

 ああ、そうなのか。

 真結らしい考えだ。

 「ご両親はすぐにじ気づいて帰って来るのではないかと思って許されたそうだ。それに筒島つつしま参りのこともご存じだった。海で泳いだこともない真結はとても筒島までは泳げまいと思っておられたようだ。ところが何日かおまえが真結を連れ回したものだから、真結はすっかり海に慣れてしまい、筒島参りもおまえの見たとおりの出来だった」

 「はい。たぶんいまの娘組のなかではいちばんきれいな仕上がりだったと思います。それに引き替え、わたしなんか」

 「自分で言わなくてよろしい」

 大小母がさえぎる。

 「まあ、おまえならばあの難所でたとえ流されたとしても、どこかから泳いで戻って来て、刻限までに島に上がったろうけどな。そうなればそれはそれで凄いことだ」

 められているのかけなされているのかわからない。いや、少なくとも褒められてはいない。

 「それに、そんなむちゃな泳ぎを身上しんじょうとするおまえに習ったにしては、真結の泳ぎはきれいだそうだからな。それはあの子のふだんの身のこなしを見ていてもわかる」

 ということは、相瀬の身のこなしを見ていれば、相瀬の力任せのむちゃな泳ぎもわかるということだろう。

 「その海女になりたいという発心ほっしんからしても、その泳ぎの才からしても、真結はその技倆ぎりょうを神様から与えてもらったのかも知れぬな」

 「はい!」――と力強く答えたい気もちを相瀬は抑える。

 同じことを相瀬は姫様と話した。ここでその話をすると、姫様にまつわることがことばの端々はしばしに出てしまうかも知れない。

 姫様のことは大小母様にさえ知られてはならないことなのだ。

 相瀬が答えないので、大小母はことばを継ぐ。

 「海女はみな村の宝、なかでも先の長い娘組の海女はとくにそうだ。その娘組のなかでもおまえは宝だが、真結も同じように宝だ。よろしく頼む」

 大小母は相瀬に頭を下げる。軽く、だったけれど。

 相瀬は慌てる。

 「いえ、そんな。大小母様に頭を下げてもらうなんて、そんな!」

 大小母は頭を上げ、いたずらっぽく笑った。

 あの姫様を思わせるような子どもっぽい笑い……。

 「そう思うのなら、真結を心から大事にすることだ。さっき伝えたことを忘れず、真結を守ってやってほしい」

 「あ、はい。もちろん」

 そう言って相瀬は深く頭を下げた。

 遠くから潮の音が響いてくる。今日はいつもより強く磯に波が打ちつけているようだ。

 大小母は何も言わない。そろそろ帰らなければならない頃合ころあいなのだろう。

 立ちかけて、相瀬はふと大小母に声をかけた。

 「ところで……」

 「何か?」

 大小母は怪訝けげんそうなふりでききかえす。相瀬は笑った。

 「いや、今日は、わたしに学問をしろって話は出ないのかな、って。そろそろあきらめられたのかな、って思いまして」

 「あきらめたわけがあるまい、愚か者!」

 ――いや、「愚か者」に「学問」はできないだろう。

 「唐文字だけで百行、それをぜんぶ覚える」という、「学問」というものの正体を知ってしまった以上、そのくらいのことはわかる。

 「しかし、いまはもっと大事なことがある。そのときにおまえの心を乱すようなことを言ってはいけないと思ったまでだ」

 「あ、はい」

 相瀬は首をすくめた。

 「お心配り、ありがとうございます」

 「まあ、学問したいという心が起こったら、真夜中でも夜が明ける前の朝方でも、ここに飛んでくるがよい。ぐずぐずしていると発心が逃げてしまうからな」

 「あ、え……」

 真夜中や夜明け前はさすがに遠慮します、と言おうとしたが、だいたい学問に「発心」するなんてことがあるはずがない。だから、

「あ、ありがとうございます」

と言って、ぎこちなくお辞儀をし、早々に相瀬は大小母の住みかの外に出た。

 出がけに大小母が大きくため息をついたのは、そのお辞儀が取ってつけたようで、とても礼儀にかなっていなかったからだろう。

 まあしかたがないと思って相瀬は大きく息をついた。

 風がひとしきり相瀬の襟をくぐって袖に吹き抜けた。

 たしかに「意地の悪い風」だ。でも、この強い日射しの暑さが少しでも紛れるならば、いいと思う。

 相瀬は空を見上げた。

 空は青く澄んでいた。しばらく見なかったほど明るく澄んでいると相瀬は思う。

 その空を糸くずのような雲がすばやく飛んでいく。

 「あ」

 声が漏れた。

 それは懐かしい空だ。

 もの悲しくなった。

 父親と母親がいて、自分がまだ海女になっていなかったころの夏のあの家の様子が心を過ぎる。

 相瀬は大きく息をつく。

 思い出してもせんないことだ。

 あのころのままの暮らしがいまも続いていれば、と思う。

 そうだったらどんなに幸せだったろう。

 でも、だったら相瀬は昔どおりのわがままな甘えん坊のままだったろう。いまのように娘組の海女たちを率いる頭にはなっていなかった。

 姫様を助けることもなかっただろう。たとえ大岬から身投げする二人の女の姿を見たとしても、そこまで泳いで助けに行こうなどとは思わなかったと思う。

 それに、いまあの家には真結がいる。

 それはそれで得難い幸せではないだろうか。

 そう思うと、相瀬はまぶたを閉じて岩の道を浜へと下りていった。

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