第27話 十七夜(4)

 月はもう昇っていた。

 もし新しく海女になる娘がいたなら、いまごろは筒島つつしまから帰ってきて、その娘を囲んで浜はお祭り騒ぎになっているころだろう。

 でも、今年はそんな娘はいないので、浜はもう眠りについてしずまりかえっているはずだ。

 昇ったばかりのさえた月の光が木々を通り、昼間の木漏れ日のような入り組んだ影をつくる。そのなかを、相瀬あいせは背をかがめて「遺跡いせき」の街を早足で通り抜ける。

 姫様は真結まゆいをどうすればいいという考えを授けてくれたわけではなかった。

 でも、その考えは、実際のところは相瀬の考えと同じになるのだろう。

 一年、待ってみる。

 一年はかからないかも知れない。真結は次の頭なのだから、いままでのように、ほかの海女がいるところから離れて潜っていて、獲物もほかの海女より少ないというわけにはいかない。もし浜の生きものの命を惜しんであまり獲物を獲らないなら、そのときには次の頭を退くしかないだろう。

 でも、姫様は、そのことを言うのに、人はみんな悪から逃れられないとか、人はみんな仏性を持っているとかいう話をした。

 人はみんな悪をおかさなければ生きて行けず、自分がじかに悪をおかさなくても、だれかの悪のおかげで生きているのだから、その報いを逃れられないという話をきいたときには、世のなかぜんぶが黒いとばりで覆われているような感じにとらわれた。

 そして、だからこそ人はみんな仏性を持っていると言われたときには、すべてがひっくり返るひっくり返りかたにあきれた。あきれたけれども、人はみんな死ねば神様や仏様になるのはそういうことか、と、その鮮やかさにも感じ入った。

 殺生せっしょうばかりしてきた自分でも仏様になれるかも知れない。そう思って心が軽く温かくなるよりも、その鮮やかさのほうが心に残った。

 殺生が自分の仕事なんだから――と相瀬は割り切ってきた。和尚おしょうさんに「殺生は十悪の第一」ときかされても、ああ、では自分は悪人だ、善人などというものにはなれない、と思っただけだ。

 姫様の言うことは、言っていることは同じでも、「すごみ」が違う。「重み」が違うと言うのかも知れない。

 それが「学問」というものなのか?

 だったら、「学問」とは、「一日に唐文字からもじばかりで百行書いた文章を覚えなければいけない」というだけではない。また違う凄さがあるのだ。

 その「学問」というものが相瀬にできるかというと、それはできないと思う。

 でも、次に「学問をしてみる気はないか」と言われたら、少しの間も置かずに「ありません」と答えるのはためらうかも知れないと相瀬は思った。

 「遺跡」の街を抜けて岩に穿うがたれた道にさしかかる。

 海のほうからも崖の上からも道があるとはわからない。入り口を知っているのでなければ、岬の上から「禁制の浜」に来るのも「禁制の浜」からこの道に入るのも難しいだろう。

 だれかがった道だとはなんとなくわかっていた。いまではそれが「鬼党きとう」が彫ったのだということもわかる。

 岩の上にいた船虫ふなむしがめんどうくさそうに相瀬に場所を譲る。おかげで相瀬は船虫を踏まずにすむ。

 そういえば真結はこの船虫さえ苦手だ。べつに何か害をなす虫ではないのに。

 それも真結の仏性なのだろうか――と思うと、相瀬は何かおかしくなった。

 おかしくなって、笑い出しそうになり、「相瀬さんは、真結さんのことになると声が大きくなりますね」という姫様のことばを思い出して笑いをおさえる。その動きに弾かれるように道の先を見た。

 ふと、何か先のほうから小さい白い光が射したように感じて、相瀬はすばやく身をかがめた。

 頭から冷たい水を浴びせられたようだ。

 この道がだれかに突き止められたのだろうか?

 ――たとえばクワエシンノジョーに。

 だが、相瀬がこの道に気づいたのは、磯の岩場にも歩く道を見つけ出すのに慣れていたからだ。それができない者に、たとえ「ここが道です」と言われても、それはがけの少しくぼんだところにしか見えない。そこが歩けるなんて普通は思わないと思う。

 クワエは山の村育ちのようだ。そのクワエにこの道が見分けられるとはとても思えない。

 この道の続きが、あの村の岬の下の洞穴につながっている。その道から来れば、こちらの道も見つけられなくはない。けれども、その洞穴からの道を道を知っているのも、海女の娘組の頭と次の頭と、これまでそれを務めた者だけだ。

 それに、クワエのような者がここに道を探しに入ろうとしても、いまは参籠さんろう所の入り口で止められる。

 身を潜めたところから、体を岩にくっつけたまま、そっと顔を出して見る。

 だれかがいる気配はない。

 少し上がってみても、上のほうで何か動きがあるようではなかった。

 相瀬は足音を立てないように用心しながら早足で坂の上まで上がって、様子をうかがった。

 だれもいない。

 参籠所もしずまりかえっている。参籠所の障子を開けてみてもだれもいなかった。

 相瀬は引き返した。もう一度、自分の来た道の側に踏みこんで確かめたあと、今度は、その反対側の洞穴に通じる道を下りてみた。

 いまここに踏みこまれるととても困ったことになる。洞穴ではあの「鬼あわび」が養生しているところだ。

 でも、洞穴まで来てみても、やはり人の気配はなかった。

 こうやってあまりあちこちを探し回っていると、その動きでかえって目立ってしまうかも知れない。急いで参籠所に戻る。

 さっきは、たぶん、月の明かりが岩の角で照り返って、まぶしい小さい光が見えたのだ。

 相瀬だってこの道を通り慣れていたわけではない。ほとんど毎晩ここを通るようになったのは姫様を助けてからだ。

 姫様を別院に連れて来たときには、夜の早いうちに月があった。その月が沈むのが日々遅くなっていく。姫様をあまり待たせるわけにはいかないので、月明かりの下を別院に通うようになった。

 それで、明るいところでここを行き来するのに慣れてしまった。

 でも、それはやっぱり危ないことなのだ。

 それだけではない。姫様に村や海女の娘組のいろいろなことを話すようになって、ふだんから、姫様はこう言ったと思い出したり、姫様ならばどう考えるだろうと考えてみたりするようになった。

 それも危ない癖だと思う。ふと姫様のことを口に出してしまうかも知れない。

 気をつけなければならない。

 あと何日かだけ姫様を守り抜けば、姫様を逃がすことはできるのだ。

 相瀬はどこに姫様を逃がすかという考えを固めていた。

 それで姫様が助かるのかどうかは知らない。でも、きっと悪い結末にはならない、少なくとも姫様をサガラサンシューの手に渡すよりはましなはずだと思う。

 そのあいだ行いを慎まなければいけない。あの小さな白い光はそのことを相瀬に思い起こさせてくれた。

 そういう天のお心配りだ、ということにしておこうと思う。

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