第25話 十七夜(2)

 よく考えを練っていたようなふりをして、相瀬あいせはゆっくりと姫様に話し始めた。

 「うぅん、近くはないけれど、海女ならばその遠さを泳ぐのはあたりまえ、っていうくらいの遠さです」

 「はい……」

 「でも、それが今日の夕方、日が暮れてからだというのが大事なんですよ」

 「どう大事なのですか?」

 「途中に難所があるんです。今日はその難所を越えるのがとくに難しい日で。しかも、新しい海女はその難所のことを教えられていません。今日、日が暮れて、月が昇るまでにたどり着かなければいけないって決まりで、それはそんなに楽ではありません」

 どう難しいかまでは説明しなかった。姫様もきかない。

 「すると相瀬さんも海女になるときにはそのお参りをしたのですね?」

 「ええ」

 相瀬は笑う。

 「その難所っていうのにみごとに引っかかって、慌ててごぼごぼやってたら、よくわからないうちに島に着いてて。付添つきそいとして来てくれた歳上の海女さんに、こんなにみっともないたどり着きかたをしたのはあなたが初めてだって怒られました」

 付添に来てくれたのは美絹みきぬだ。相瀬は、そんな溺れかけてもがいているような姿を見せて、自分を見こんで付き添ってくれた美絹にも、海女だった自分の母にも恥をかかせたかも知れない。

 それでも相瀬はその夜じゅうはしゃいでいた。空が明るくなるまで寝ないで過ごしたのは初めてだった。

 「それは、きっと、才がけているから、泳ぎの型を崩しても目当ての島にたどり着けたということでしょうね」

 姫様はそんなことを言う。相瀬にはただ慰めでそう言ってもらえたとも思えなかった。

 「いやぁ。そんな立派なもんではないです……」

 相瀬は心の底から照れた。

 姫様が続けてきく。

 「では、真結まゆいさんのときは、相瀬さんが付き添ったのですね?」

 「はい。そのとおりです」

 姫様はよくわかっている。

 相瀬が海女になった次の年、名主様の遠縁の娘が海女になりたいと言って浜にやってきた。

 それが真結だった。

 あのころ、相瀬はものごとの加減がわかっていなかった。

 海に下りるのが初めてというその子の手を強引に引っぱって、いきなり足の届かない沖に連れて行った。尖った岩だらけの磯にも上がらせた。そのとき海鼠なまこをつかんで真結の目のまえに突き出したら、真結はびっくりして岩の上で転びそうになり、そのまましゃがみこんでしまった。

 いまでも真結が海鼠を怖がるのはこのできごとを忘れられないせいかも知れない。

 浜に戻ったとき、真結の足は傷だらけで、相瀬は慌てて自分の母のところに真結を連れて行き、手当をしてもらった。母にはいっぱい小言こごとを言われたけれど、相瀬には自分の何が悪かったか、まったくわからなかった。

 その日、相瀬が真結を連れて回ったのは、みんな歳上の海女たちのなかで真結は歳が近かったからだ。遊びと同じようなつもりだった。ふさかやは相瀬が海女になる前から遊び仲間だったけれど、そのころはまだ海女になっていなかったから、仕事で海に入っている相瀬がその遊びに加わるわけにはいかない。そのかわりに「海女の仕事を教える」と言って真結を連れて回ったのだ。

 相瀬に連れ回されてひどい目にったのに、真結はその次の日も浜に来た。相瀬はまた真結を連れて泳いだり潜ったり磯に上がったりした。それを見た美絹が、相瀬に、真結に海女の仕事を教えるようにと言った。

 そのころの相瀬は真結の才にまったく気づいていなかった。子どものころから浜で遊び、泳ぐのも潜るのも知らずしらずのうちに身につけ、磯にいる異様な生きものたちにも少しずつ慣れていった相瀬と、海の近くに住みながら海に下りるのが初めてという真結とでは、真結のほうが下手であたりまえだ。でもそのころの相瀬はそういうことが考えられなかった。

 ――相瀬は姫様にそういう話をつまんで話した。姫様は、ときどきくすくすと笑いながら、何も言わずにきいていた。

 「だから、真結が海に下りてすぐに筒島参りに行くことになったときには付き添うことになったんですけど、そのとき、歳上の海女さんから、もし真結がしくじったらあなたが悪いんですよ、なんて言われてどうしていいかわからなくなってしまったりして」

 そう言ったのは徳三郎とくさぶろうという村の商人の妻になったこうだ。その香が、このまえ、徳三郎が奥州おうしゅうに行って留守のあいだに子どもを身ごもって、うわさになっていた。

 「でも、巧く行ったんでしょう? 真結さんは」

 姫様がたずねる。

 「ええ。その難所のことなんか知らないのに、そこにさしかかったときにすぐに気づいて、落ち着いて、いちばん疲れないで泳ぎ切るやり方で乗り切ってしまいましたから。いや、その難所まで行くのの半分も、真結は続けて泳いだことがなかったはずなんです。それなのに、わたしは、その真結の才にほんの近ごろまで気づかなかったんです」

 「でも、相瀬さんがそうやって教えたから、真結さんはすぐにそこまで上達したのですね」

 「ああ、はい……」

 相瀬の答えがあいまいなのは「ジョータツ」の意味がわからなかったからだ。

 姫様はおかしそうに笑った。

 「わたしも、岡下おかしたに移ることになって、永遠ようおんに入った最初の日、お師匠様からそれまで見たこともない唐文字からもじばかりの文を見せられて、読みかたを聞かされて、それで、ではいまのを覚えなさいと言われて。私は姫だったのできつく叱られたりはしませんでしたが、何度もお小言を言われて、どうしてここまで来てこんな苦しみを、と思ったものです」

 「あ……」

 相瀬はことばに詰まる。

 それが、もり大小母おおおば様が勧めてくださる「学問」というものなのか?

 おそるおそる、きいてみる。

 「その文というのは、おれのご高札こうさつに書いてあるのより、長い?」

 「ええ」

 姫様はあたりまえのように答える。笑ってはいないから、相瀬をからかっているのではなさそうだ。

 「御触書おふれがきは十行か、長くても二十行ほどでしょう? それもかな交じりで。そうではなく、唐文字ばかりで百行ほどあるのです」

 「は、はあ……」

 また、おそるおそる、きく。

 「唐文字って、黒くて、ごちゃごちゃしていて、読みにくい字でしょう?」

 「ええ、読みにくいですね」

 返事がすぐに返ってくる。

 「一文字で読みようがいくつもあって、それがことば一つひとつで決まっていたり、下から上に戻って読まなければいけなかったりします」

 「はあ……。それを、ご高札の御触書の長いのの倍も――いや、倍以上も?」

 だとしたら、その「学問」というものは、やっぱり人食い海蛇なんかどうでもいいほど恐ろしいのだ。

 「ええ」

 姫様は口もとに笑みを浮かべて、軽く首を傾げた。

 「でも、最初からそういう教えかたをしていただいたおかげで、読めるようになりました。一字一字ていねいに教えていただいていたら、上達はしたかも知れないけれど、早く先に進むことはできなかったでしょう。真結さんも、最初から相瀬さんと同じことをするように教えられて、それで早く上達したのではありませんか?」

 「ああ、いえ。お姫様も真結も、最初からよくできる人だったからですよ!」

 「声、抑えて!」

 相瀬の声は思わず高く大きくなっていた。姫様が小声で強く言う。

 相瀬は首をすくめて、小さく頭を下げた。

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