第23話 凪(4)
周りを見回す。
名主様のお屋敷のあたりから、
相瀬が小さかったころには、ここは草や低い木ばかりが茂る原っぱで、ところどころに畑が散らばっているだけだった。
それが、相瀬が娘組の海女になるころまでに畑が次々に開かれた。いまではところどころに木が残るだけで、原っぱだった跡は残っていない。
チャボ川と反対のほうは緩やかな谷になっていて、その向こうが、まえに
こちら側も開かれて畑になることはあるんだろうか?
チャボ川のほうがぜんぶ畑になってしまったのは、サンシューが村に押しつける年貢が高くて、それをいくらかでも補うためだ。年貢にあてるためには、あの「鬼
つまりここが一面の畑になったのはサンシューのせいだ。
では、原っぱのままがよかったかというと、相瀬は畑になってよかったと思う。なぜときかれてもよくわからないけれど。
クワエには、真結にまとわりつかないでほしいと文句を言うつもりだった。でも、会って話してみると、とてもそんなことは言えなかった。
前に見かけたとき、真結とクワエは冗談を言い交わして笑っているように見えた。それは真結がクワエに心
べつに心惹かれたってかまわないといえばかまわない。でも、それで村や海女の娘組の内証がクワエに漏れては困ると相瀬は思い、真結が屋敷町を離れるように次の頭に決めたのだ。
でも、話してみて、クワエと話すと、だれでもあんなふうになるのだと思った。
構えたところがない。低い身分から武士の身分に移り、いまの身分が高い――武士としてはいちばん下でも――ことから来る余裕と、低い身分だったころの気安さの両方があるからだろう。
クワエと話していると、相瀬でさえ隠しておかねばならないことを思わず口走ってしまいそうだ。
ふと、気配がして、相瀬は顔を上げた。
真結だった。
相瀬と同じように、肌着の上に普段着を重ね着している。それで真結はあたりまえの村の娘に見えた。
海女でいるときには白い
相瀬はどうだろう? 自分ではよくわからないが、いまの姿でも海女に見えるだろうと思う。
真結も足を止めていた。相瀬と真結は、十歩ほど離れて向かい合っている。
真結は相瀬の顔をじっと見ていた。
昼に
相瀬もふっと息をついて、真結に近づく。
「どうしたの?」
「いや」
とまどって目を迷わせる。でも真結はふだんから声をかけられたらこんなふうにする。
「家でご飯食べようと思って」
ああ、そうか、と思う。
真結の家はこの先、名主様のお屋敷の近くだ。
量とかなかみとかいろいろ言いたいことはあるけれど、相瀬は神様のお相手をして食事をしていることになっているから、何もなくてもお膳が出てくる。
けれど真結はそうはいかない。相瀬のように漁師の男どもの飯場に行って飯を握って持ってくるような行儀の悪いこともしないだろう。
「相瀬さんは?」
真結がきく。相瀬は正直に言うことにした。
「
真結はゆっくりと顔を伏せる。その顔が夕日にきれいな色に染まる。
相瀬は、ひとつ息をついて、息を吸ってから言う。
「真結さ、昨日、桑江様に漁をして見せたんだって?」
「うん」
真結は聞き取れないような小さい声で答えた。相瀬はかまわず続ける。
「いや、それでいいと思うんだ。前に言ったみたいに、へたに隠し立てすると、村が何か隠してるって思われる。ほんとうに隠さないといけないことのほかは、隠さずに見せたほうがいい」
前にそう言ったときは、真結は何が「隠さないといけないこと」か知らなかった。
いまは知っている。
それもかなり深いところまで。
「
真結はさっきよりもっと顔を伏せた。
「ごめんね」
細い声で言う。それで顔を少しだけ上げた。まだ
「さっき、相瀬さんに会ったときにその話をするつもりだったけど、あの鮑のをやってるうちに忘れて、言い出せなかった」
「わかってる」
言って、笑いかけると、真結も顔を上げてくれた。
弱く笑って、相瀬を見ている。
「それに、さっきはごめん。あの鮑に傷をつけて、玉を……」
相瀬はすばやく口を押さえる振りをして見せる。真結は
「あっ」
と短い声を立てた。
相瀬がまわりを見るまでもなく、あたりにはだれもいない。前からも後ろから来る人もいないし、いちばん近くで畑の片づけをしている人たちでも半町は離れたところにいる。声が届く近さではない。
でも、外で平気であのことを話していいのだと真結が思ってしまっては困る。
念押ししたほうがいいだろうか?
いや、念押ししなくても真結はよくわかっているはずだ。
それに、次にもし真結がその話をするとしたら真結の家でだろうけれど、真結の親ならばたしなめてくれる分別はありそうだ。
「いいよ。わたしのほうが気を使わなさすぎた」
相瀬が言う。
「真結は優しいんだ。それはいいことだよ」
「うん……」
その先を言おうかどうか、相瀬は迷う。でも、海女の仕事なんて、つまりは
言わないことにした。
「うん。でも、もうだいじょうぶ」
真結は小さい声で言って、また笑って見せる。
真結の笑顔が、最初はつらそうな作り笑顔だったのに、そのつらさが少しずつ取れてきていると相瀬は思う。
「それからさ」
相瀬はいつもの相瀬らしいぞんざいな言いかたで言った。
「もちろんご飯を食べにお家に帰るのはいいんだけどさ、うちにある
と言ってから、ろくなものは入ってなかったなと思い出す。
米櫃とは言うけれど、米なんか一粒も入ってない。姫様が不審がったあの麩だらけの黒い小麦に、粟と、家の回りに勝手に生えていた
相瀬は首をすくめて笑った。
「いや、あれ炊いて食べるくらいだったら、真結なら家に帰って食べたほうがいいか」
真結は温かく笑った。かわいらしい声で言う。
「いろいろ世話になってるから、相瀬さんもいちどうちに食べに来て。父も母も、相瀬さんの話をききたいと思ってると思うから」
そんなことはいままで考えたことがなかった。
「うん、それじゃ、また」
相瀬が言うと、真結も
「ええ。おやすみなさい」
と言った。相瀬から歩き出して、すれ違う。
すれ違うときに笑顔で顔を見合わせた。
浜へ下りていく坂にかかる前に、もう一度、真結のほうを振り向こうかと思った。
でも、やめた。一つには、わらじを履いた足を動かすのが煩わしかった。それに日が暮れて、暗くなり始めている。まっ暗に暮れてしまう前に、早く参籠所に帰ったほうがいい。
それと、いま真結を振り返らないほうがいいという気もちが、なぜかしたからだった。
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