第22話 凪(3)
うつむいて、クワエの顔は見ないまま、
「でも、
「お姫様はここにはいないよ」
クワエはあっさりと言った。相瀬は驚いてその顔を見上げそうになり、勢いよく息を吸ったところでやめる。
相瀬のしぐさしだいで、クワエはじつは姫様はこの近くにいると勘づいてしまうかも知れない。そんなことを言って、相瀬に探りを入れているのかも知れないのだ。
いまの相瀬の様子からでも、クワエは何か勘づいただろうか。
クワエは続ける。
「もちろんできる限り探しはしたさ。あのときも
「ああ、はい」
覚えていたか。よかったとも思うし、困ったことだとも思う。
「でも、よく考えてみたら、こんなところまでお姫様が逃げてきたはずがないんだ。もともと幼いころはお城育ち、そのあとは
いや、あの姫様ならばそれぐらいの気力は続きそうだ、と相瀬は思い、その思いを打ち消す。
自分は姫様のことなど何も知らないのだと、まず自分を騙す心持ちでなければ、もしクワエが芝居上手の悪人だったときに取り返しがつかない。
「きっと、お城を逃れられてすぐにどこかでご自害なさったのだろう。いや、もしかすると城内ですでに御自らお命を絶たれていたのかも知れない。それをだれかが人知れず葬った。そんなところだろう」
死んだことにされてしまった。それもあっさりと。
「だいたいあの話そのものがおかしいんだ。日当たりのいいはずの屋敷の庭なんかに生えて、だれにも気づかれないように育てられて、それで人を殺さずにしびれさせてしまうきのこなんて。それは、なに
相瀬がすかさず言う。
「お詳しいんですね。きのこのことに」
「あ、ああ」
クワエは、思ってもいなかったことを言われたのか、とまどった。
「まあ、山育ちだからな。もっとも、讃州様に仕官するというので、舟を漕ぐのは習ったよ。讃州様は網奉行、つまり海の
「やっぱりご熱心なんですよね」
姫様から話が逸れたのはいいが、クワエが舟を漕げるというのはあまりよくない知らせだ。
覚えておくことにする。
「まあ、士分に上がれる機会などというのはめったにないものだからな。そんなわけで」
クワエは一つ大きく息をついた。
「まもなくわたしたちには引き上げのご沙汰があるだろう。それまでのあいだに、村の人たちの暮らしの実際のところを知っておきたいと思ってるんだ」
クワエの
「いえ」
改めてかしこまった言いかたをしてみたが、おかしかっただろうか。
少なくともクワエはおかしいという顔はしていない。
「そうしていただけるのは、村のためにありがたいことだと思います。ほんとうにありがたいことだと思います。もちろんわたしなんかが言うことじゃないかも知れませんが。でも」
相瀬はことばを切った。クワエも相瀬の顔を見返す。
「ご存じのとおり、村はいまご祭礼の最中です。それに村のいろいろな決まり事やしきたりもあります」
名主様の屋敷の門に着く。相瀬がこのお屋敷の正門を入るのはお正月ぐらいだけれど、身分が武士のクワエはこの門を使うだろう。
相瀬は立ち止まった。
「とくに浜のほうは、祭礼でいろんなことをやる場所になっているので、いろいろと
だから、何と言えばいいのだろう?
ここで「お慎みくださいませ」などと言えれば、相瀬も
だからといって、いきなり「もう浜には来るな!」とは言えない。クワエに会う前にはそう言ってやるつもりだったが、いまそんなことを言うと自分のほうがわがままに見えてしまう。
「わかった」
クワエは短く言った。
「昨日のは悪かった。これからはじゃまになるようなことはしない。あんたたちのなりわいというのを見せてもらおうと思っていたが、少しは遠慮するようにしよう。考えてみれば、あんたたち村の人がお屋敷にやってきて、武士の日々の暮らしがどんなものなのか見せてもらいに来ました、なんて言ったら、やっぱり煩いと思うだろうからな」
相瀬は返事のかわりにクワエに軽くお辞儀をして、浜へ戻る。
クワエのほうは振り向かなかった。
日は落ちたが、風がないので熱さは変わらない。重ね着をした肌着が汗で中途半端に貼りつき、肩の後ろがくすぐったくてしかたがない。
歩きながらあらためて大きく息をついた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます