第20話 凪(1)

 浜からおかのほうの屋敷町に来るあいだに風はいでしまった。

 いま相瀬あいせは肌着の上に普段着を重ね着している。家に帰れば着替えられるのだが、相瀬の家にはいま真結まゆいがいる。真結のことでクワエに会いに行くのに、その前に真結と顔を合わすのは避けたかった。

 歩く正面の低い空から西日がきつく照らしている。

 そんな道で、そういう重ね着をして、風がないと、いまさらながらに暑さが身にみる。

 屋敷町の人たちは、相瀬と行き違っても、軽く会釈えしゃくをするくらいで、まったく気にも留めないで行ってしまう。相瀬が祭で参籠さんろうしていることは知っているはずだが、参籠所からわざわざここまで出てきたということまで気にしない。いや、参籠しているのが相瀬だということも覚えていないのだろうか。

 いまはそのほうが都合がいい。

 髪の毛の下で汗がしずくになり、滴ろうとしているのを感じながら、相瀬はどうクワエシンノジョーに会おうかと考えた。

 人目のあるところで言い合いをしたくはない。また、ヨシイとかキタムラとかいう別の役人のいるところでも話したくない。もともと口が達者ではないのだから、相手が三人がかりだと言い負かされてしまう。いや、おとなしく言い負かされるだけならいいが、自分が怒ってしまって何か言ってはならないことを言ったとしたら取り返しがつかない。

 だからといって、二人だけで密かに会う、というのもよろしくない。仮にも女と男だ。へんな疑いを持たれても困る。

 あの三人の役人は名主様のお屋敷に逗留とうりゅうしているという。でも、海女の身分でいきなり名主様のお屋敷を訪ねるのもできれば避けたい。

 名主の幸右衛門こうえもん様は気のいい人で、身分の違いをいちいちやかましく言ったりはしない人だ。でも相瀬のような海女は畑作りをしている人たちよりも身分が下ということになっている。その畑作りをする人たちでさえ名主様のお屋敷に出入りするのには気を使っている。

 だから相瀬はもっと気をつけたほうがいいだろう。

 では、どうすればいい?

 前にきいた話だでは、一日じゅう名主屋敷で酒を飲んだりおしゃべりしたりしているヨシイやキタムラとは違って、クワエは村を回り、いろんな人に話をきいているという。

 だったら、今日もそうしているのではないか。

 もう日暮れも近い。それでクワエが名主屋敷に引き上げていなければいいがと思う。

 そう思いながら、畑仕事の片づけをしていた男の人に声をかけてみると、今日はクワエは乾葉ひいばのほうに行く道のほうで見たという。もしクワエがそちらから戻って来ていたらその畑の横を通るはずで、だったらその人は「乾葉のほうに行っていたらしいが、もう戻って来た」と言っただろう。そう言わなかったということは、まだ乾葉のほうにいるのだ。

 それで、名主様のお屋敷を通り過ぎ、乾葉のほうへの登り道にかかり、だれかきく相手はいないかと探していると、左手の森の深い茂みのなかから背の高い男がいきなり姿を現した。

 驚いた、といえば、驚いた。

 「あ、あんたは……」

 相手が落ち着いた声を立てる。相瀬も見覚えがあった。

 あの炭占いの神事のときに、後ろのほうで立っていて武士の一人だ。

 ということは、この男がいま探しているクワエシンノジョーに違いない。

 相手が言い直す。

 「あんたは、あの神事で巫女みこ役をやっていた人だったな」

 いや、巫女ではないと思うのだけれど。

 でも、そんなことはどうでもいい。

 「桑江くわえ様、ですね」

 ふだんはこんなクワエはもちろん、サガラサンシューだって呼び捨てにしているのだが、面と向かって「クワエ!」なんて呼ぶわけにはいかない。

 自分にできるいちばんおとなしい話しかたで相対あいたいしなければいけないのだ。

 まったく、姫様にさえこんなに気を使わなくてすむのに、と思って、慌てて、いま姫様のことなんか考えてはいけないと自分をいましめる。

 相瀬はことばを選んだ。

 「たしかに炭焼きのときにお目にかかりました、海女の娘組の頭を務めている者です」

 「海女の娘組?」

 しらばっくれるつもりだろうか? 相瀬が続ける。

 「はい。真結という海女とお話になったと思いますが、その真結が娘組の海女です」

 「ああ」

 クワエは頬を緩めた。

 それにしても疲れる。気を使わなければならないからだけではない。クワエは背が高いのだ。どんな顔をしているか見るのに、顔を上げていなければならない。

 「真結さんはここの名主様の縁者ということで、前に話をきいたことがある」

 相瀬はすかさず「そのことなんですけど」と言おうとして、その言いかたでいいかどうか迷う。そして、その前にクワエが言った。

 「おかしら

 「はい?」

 ああ、お頭と言えばお頭か。「頭」に「お」がついているだけだ。

 そんなふうに呼ばれることはめったにないけれど。

 でも「おさ」よりはずっと自分のことと感じられる。

 「あんたは小百姓こびゃくしょうということになるんだろうし、わたしもは小百姓だ。堅苦しい話しかたはお互い疲れる。普通に話しながら、名主様のお屋敷のほうに戻ることにしないか?」

 「あ、ああ」

 張りつめていたものが一つ解けた。

 「あ、いや、でも、百姓の娘とそんなふうに軽く話していて、いいんですか? そんなのがお城に知れたりしたら。それにわたしがお役人様に無礼な口をきいたってあとから首をはねられるなんて、いやですから」

 「そんなことはない」

 クワエは強く言った。

 「ご城下や城内ではともかく、ここでそんなことをとがめ立てする者はいないさ。元助げんすけ誠吾せいごにしたって、そんなことは気にはしない」

 ヨシイゲンスケとキタムラセーゴのことだろう。

 「ああ。いや、それならよかったですけど」

 無愛想に言ってから、

「話しやすくて助かります」

とつけ加えて、笑う。

 もちろん、どんなに気安く話せても、用心しなくてはいけない相手であることは忘れてはいない。

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