第18話 うすあかり(5)

 「あのね」

 美絹みきぬが左右をうかがうようなしぐさをした。ここではだれかが立ち聞きしていることなどないはずなのに。

 「はい?」

 相瀬あいせは声をひそめる。美絹は小さい声で言った。

 美絹の声は、その名に違わず、絹のように美しい声だ。

 「わたしは見てないんだけど、ふさちゃんとかやちゃんが来てね、話をして行ったんだけど」

 「はあ。房と萱が……」

 房も萱も、相瀬がこの参籠さんろう所に入ってしまえば、じかに相瀬のところに来ることができない。だから美絹のところに行ったのだと察しはついた。

 何だろう?

 「見てない、って、何をですか?」

 「それがね」

 美絹は迷っているようだった。でも、両方のまぶたを閉じて息をつくと、きちんと座り直した。

 この「居ずまいの正しさ」を見ると、やっぱり美絹さんも一家の奥様なのだな、と相瀬は感じる。

 でも、いまはそれはどうでもいい。美絹は続けた。

 「昨日は物忌ものいみで、大人組も娘組も海に入らない日だったでしょう?」

 言いかたはこれまでとおなじようにふんわりしていたけれど、美絹にはもうさっきまでのような迷いはないと相瀬は感じた。

 「はい」

 しかし、そのことと真結まゆいと、どう結びつくのだろう?

 「それでね」

 美絹は美絹らしい一言をはさんでから続けた。

 「あの桑江くわえ慎之進しんのじょう様っていうお役人が浜に見えられたらしいのよ」

 相瀬はまぶたが大きく開き、息が胸のなかにすうっと入って行くのを感じた。

 声が出ない。今度は自分の顔が土気つちけ色になりそうだ。

 あのクワエシンノジョーが!

 何をしたというのだろう?

 「それで、浜の漁というのを見たいっておっしゃったらしくて。で、浜にいた人、漁師とか海女とか、何人かに話しかけられたらしいんだけど。まあ、そのうちの一人が房ちゃんだったんだけど。で、みんな今日は物忌みだから海には入らない、って断って。それで、桑江様、ご機嫌を損ねられたらしいのよ」

 「ご機嫌を損ねるって言ったって、そんな勝手な!」

 相瀬がいきどおる。

 「だから、村でずっと守ってきたことのたいせつさとかは、街の人にはわからないから」

 美絹は軽く受け流してしまった。

 「ま、そんなこともあってね。房ちゃんが真結ちゃんを呼んで来たんだけど、そしたら、真結ちゃんがね、物忌みだから漁はできないけど、って言って、海に潜って見せて、鮑を採ったり、海胆うにを採ったりして見せたんだって、その桑江様に。これが鮑で、どこに住んでて、これが海胆で、踏んだらとんでもないことになる、とかね。あと海鼠なまこもかな。桑江様は鮑は手にとって見られたそうだけど、海鼠はつかめずに眺め回しただけだって」

 おもしろそうに言う。

 そうか。武士でも海鼠は怖いのか!

 いや。

 そんなことはいまはどちらでもいい。

 美絹は続ける。

 「で、真結は、そうやって桑江様に見せたあと、ぜんぶ海に戻したらしいよ」

 「ああ……」

 相瀬は息をついた。

 やることが真結らしいと思う。

 しかも真結も海鼠は苦手だ。その海鼠までつかんで見せたのだ。

 「へんに隠し立てすると、村は何か隠してるって思われる」と言った相瀬のことばを真結は覚えていたのかも知れない。

 きっとそうに違いない。

 さっき、岬の下の洞穴に入ったとき、真結は何か迷っているようにしていたし、相瀬の顔を見てとまどった顔を見せた。昨日と今日、何があったときかれたときには、驚いたような顔をしていた。

 あのとき、真結は、そのクワエとのことを言うかどうか迷っていたのだ。

 そのあとのできごとで、相瀬はすっかり忘れていたけれども。

 「それで、房と萱は?」

 「うん。事情はわかるけど、でも、次の頭が物忌みを破っていいものかどうかわからなくて、で、わたしのところにはなししに来たわけ」

 ああ、そういうことか、と思う。

 物忌みはすべて破っていいとは思わないけれど、昨日の物忌みはべつに破ってもいいのだ。

 満月の夜の夜通しの仕事で頭も次の頭も疲れ切っている。それを、漁師たちや海女の大人組も含めてほかの者に覚られないようにするために、みんなで漁を休む。それが昨日の物忌みだ。

 浅葱あさぎなんか、ふだんから、採ってはいけないはずの小さいあわびを平気で採るし、はいじめるし、海鼠は踏みつぶすし、素足で海胆を踏んで大騒ぎするし……。

 どれも、海女としてはやってはいけないことだ。

 それを相瀬は見逃している。

 それと較べればたいしたことではない。

 でも口には出さない。

 あからさまにそう言ったら、美絹はたしなめるに決まっている。

 そのかわり、きいてみる。

 「で、美絹さんの考えはどうなんです?」

 大人っぽいききかたができたと思う。美絹は答えた。

 「わたしはいいんじゃないかと思うけど。獲物にはしなかったわけだしね」

 「わたしもおんなじです」

 相瀬は言った。せめてこれぐらいのことでは真結に味方しないと、真結に悪いと思う。

 「それに、真結は海鼠つかむのも苦手なはずなのに」

 美絹が何も言わないので、相瀬は言った。

 「その真結が鮑や海鼠をつかんで見せたんだから、わたしはよくやったと思います。もし大小母様がきつくお叱りになるということならば別だけれど、それでも、真結をとがめるのはなしだと私は思いますけど」

 美絹はそう言うと口もとに笑いを浮かべて頷いた。

 「大小母様のお考えは相瀬ちゃんといっしょだった」

 美絹はここに来る前に大小母様にこのことを話しに行ったのだろう。

 「でも、大小母様は、相瀬ちゃんが決めるべきことだから、相瀬ちゃんに言いに行きなさいって」

 「はあ」

 大小母様は「相瀬ちゃん」とは言わなかったと思うけれど。

 「それに、大小母様は、新しい海女のなり手が今年もいないってなげいていらしたけどね」

 それはいないだろう。

 この国の天下を支えているというのに、仕事はきつくて危ない、嫁には行きにくい、そのうえこの村では頭か次の頭になってしまったら一生村の外に出られない。

 そんなのでは、少しくらい海が好きな女の子でも、とても自分から海女になりたいと思うはずがないし、当人が思っても親が許すわけがない。

 でも、そんなことを美絹に言ってもしかたがない。

 そのかわりに言う。

 「だから、真結みたいな子をだいじにしないといけないんですよ。親が海女でもないのに、海女になりたいなんて言い出してくれたんだから」

 美絹はくしゅっと小さく声を立てて笑った。

 去年、頭になったばかりの子が生意気なことを言う、とでも思ったのだろうか。

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