第16話 うすあかり(3)

 どれぐらいかかっただろう。

 相瀬あいせには長い時間に感じた。

 でも、あの「鬼あわび」十二匹に、一匹ごと五つの「玉小石たまこいし」を入れ、それを薬の入った桶に入れるという仕事が終わって、外に出ると、まだ空は真っ青な夏の昼間の空だった。

 相瀬は体中に力が入らないほどに疲れ切っていた。背に重い石を背負っているように体が重くて、だるい。

 背に「玉小石」を入れられた「鬼鮑」は同じような気分でいるのだろうか。いや、それどころではないだろう。

 そんなことは真結まゆいに言われるまで気にしたこともなかった。

 真結は押し黙ったまま相瀬に言われたとおりのことをした。相瀬が「玉小石入れ」をやった「鬼鮑」が七匹に真結が五匹だった。最初だからそんなものだろう。

 それに、いやがっていたにしては、真結の仕事はていねいだった。もともと細やかな上に、貝にひどいことをしているから、せめてていねいにやってあげなければ、とでも思ったのだろうか。

 最後に、あの桶の水は毎日換えること、水を入れるときに残った炭を一本入れ、それも取り替えること、水はあの洞穴の井戸の水を使うこと、あの薬は枡で量ってきっちりした量を入れ、これから四日めまでは増やし、あとは減らすこと、明日からは徐々に塩の量を増やしていくことを伝えた。

 真結はきいていたが、何も言わなかった。

 あのあと、真結が口をきいたのは一度きりだった。「鬼鮑」のあの角を糸鋸で落とすときだ。

 筒島つつしまの底の洞穴で、底のほうにいた「鬼鮑」にはあの角がなかった。真結はそれを見ている。その理由が、人に角を落とされたからだと知った真結は、やっぱりわが身を切られるように痛がったのだろうと思う。

 「やめて」

と短く相瀬に訴えた。でも、相瀬はただ首を振った。

 美絹みきぬには、この角を折ってやるのはこの貝のためだときいた。鮑はこの貝殻の背に開いた穴で水を出し入れして息をする。角が長いと水の出し入れに力がいる。いつも長い竹を通して息をしているようなものだと美絹は言った。だから、「玉小石」を埋めこまれて体が弱った鮑のためには、この角は短いほうがいいのだと。

 でも、美絹がそれを伝えられたのは、「玉小石」を貝の体に埋めるときいても目を輝かせて笑っていた相瀬だったからだ。美絹の仕事の速さに追いつこうとして貝の身を平気でざくざく切り、美絹にたしなめられたような相瀬だったからだ。

 貝の身の痛みを自分の身の痛みのように感じる真結には、そんなことを言ってもしかたがない。自分で相手の身にきずをつけておいて、その相手のために角を折ってやるのだと言っても、真結は信じないか、信じたとしてもいやな思いをするだけだろう。

 相瀬が前、それから五歩ほど遅れて真結が続き、また人に見られていないかを相瀬が確かめて、参籠さんろう所に戻る。

 真結は参籠所には上がらなかった。

 参籠所の前で、行儀よく立って相瀬のほうを向いたので、相瀬は念を押して言った。

 「いいよね? 一昨日の夜にやったこと、いまやったことはだれにも話してはいけないことだからね。村の外の人はもちろん、村の人にもだよ。神主様や名主様にもだよ。神主様も名主様も、この仕組みについては何も知らないんだから」

 真結は、黙って頷いた。

 相瀬はそれで十分だと思った。でも、ここにいるのは相瀬と真結だけではない。

 「じゃ、声に出して言って。いまの」

 もし真結が言わないようなら、「ここには神様もいるんだから、神様に聞こえるように」と言おうと思った。

 でも、真結は、顔を上げて、言った。

 「わたしは、一昨日の夜にやったことも、いまやったこともだれにも話さない。村の外の人はもちろん、村の人にも、だれにも、けっして話さない。神主様にも名主様にも話さない」

 細い声だったが、ことばははっきりしていた。

 相瀬は深く頷いて見せた。

 それで、安心させるようににっこり笑って見せた。でも真結はわらわなかった。

 「神様に申し上げるのはそれだけ。でも、そんなのだれにも話さないで抱えてるのってつらいよね」

 真結は眉一つ動かさない。ただ目を伏せた。相瀬が続けて言う。

 「もしだれかに話したくなったら、美絹さんにだけは話していい。もちろん、ほかにだれもいないところでだよ、さだのやつも、貞のお父さんも。いいね」

 「……」

 真結はうつむいたまま、何も言わない。

 その細やかで長い黒髪が、相瀬にはなぜか不憫ふびんに思えた。

 でも、けっきょく真結は顔を上げ、相瀬の目をまっすぐに見て、言った。

 「はい」

とだけ――あとは何も言わなかった。

 真結は押し黙ったまま村に戻って行った。

 一度も後ろを振り向かなかった。

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