第15話 うすあかり(2)

 相瀬あいせは軽くきいた。

 「昨日と今日と、浜はどうだった?」

 「えっ?」

 真結まゆいはとまどったようだ。

 「でも、だって、昨日も今日も、わたしたちの漁はない日でしょ?」

 どうしてこんなにとまどうのだろう? ほんとうは漁に出なければいけない日なのに自分が忘れていたとでも思ったのだろうか。

 「うん」

 相瀬は真結の心配を打ち消すように笑顔で頷く。

 「でも、わたしは参籠さんろう所から出なかったから、何かあっても気がつかなかっただろうからね。そうだ。今年、新しく海女になろうって子が、いまになって名乗り出た、なんてことはないよね?」

 そんな子がいたら、今日、十七日の夜にやらなければいけないことが増える。

 「ああ、うん」

 真結が沈んだ声で言ったのは、それは今年は新しい海女が出ないということだからだろうか。

 でもそれは相瀬には前からわかっていたことだった。

 村に海女になれる年ごろの娘がいないのではない。

 でも、娘を海女にしようという親は多くはない。

 楽な仕事ではない。海女の仕事には危ないことがたくさんある。それに、海女になってしまうと、嫁ぎ先も限られる。海女を嫁にもらおうとするのは漁師の男ぐらいだ。歳上の海女のこうは商人の徳三郎とくさぶろうに嫁いだけれど、それは香が美人だったからだ。しかも、嫁いでから香は海女をやめている。海女を続けるのならばやっぱり漁師に嫁ぐしかない。

 漁師の暮らしも楽ではない。それに漁師の仕事もやっぱり危ない仕事だ。

 だから、子どものころに浜でいっしょに遊んでいたのに、海女にならずにいつの間にか浜から姿を消してしまった子は何人もいる。

 姫様は海女が天下の支えとなっていると言ってくれた。でも、その海女の暮らしといえば、そんなものなのだ。

 いや、姫様のことを考えているときではない。

 「じゃ、これからやることを説明するね」

 「うん」

 真結の声が軽くなった。よかったと思う。

 「そっち座って。そのほうがやりやすいから」

 台のように盛り上がって、上が平らになっている岩の向こう側を指差す。

 真結は言われたとおりにそちらに移った。

 これからやることに使う道具は真結が来る前に引っぱり出して用意しておいた。あの「鬼あわび」の入った樽、水を張った同じくらいの大きさの桶、「玉小石たまこいし」と呼んでいる、ごく小さい丸い石の入ったざるとそれを収めた曲げ物のような箱、油紙、竹べら鉗子かんし、先にだけ細い刃がある小刀、薬の入った小さい壺が二つ、塩の壺、枡、糸鋸いとのこ、それに何枚もの手ぬぐいというものだ。あと、美絹に倣って用意した籾殻の枕もある。

 「いい? やって見せるから、見ててね」

 相瀬は自分の声が重くなっているのを感じる。それでいいと思う。

 「はい」

 しゃがんでいた真結は、相瀬のその声に引かれるように身を乗り出した。

 相瀬は樽の中から「鬼鮑」を一匹つかんで出した。二本の長い角があるので、親指、人差し指、中指ではさんで取り出すのにちょうど都合がいい。

 つかんだときに拍子抜けするような感じがする。引っぱり上げられてももぞもぞ動かないからだ。それを真結とのあいだの岩の上に裏返して置いた。

 真結はじっとのぞきこんでいる。昼の明かりの下で、しかもこの貝の裏側を見るのは初めてのはずだ。

 「ほんと、鮑とおんなじだね」

 相瀬のほうにちらっと顔を上げて言う。相瀬は何も言わないで、貝の身と殻のあいだに竹篦を差しこんだ。軽く持ち上げる。

 真結は短く悲鳴を上げた。

 やっぱり真結は悲鳴を上げるんだと思う。

 相瀬は、美絹に同じものを見せられても、きょとん、としていた。

 「これ何? 血?」

 わずかに開いた入り口から入ってくる明かりでも、貝殻の裏側が血のような赤く色なのがわかる。もっと明るいところで見ればさらに鮮やかな赤に見えるのだろう。

 「血じゃない。この貝は、裏側はこんな色をしてるんだ」

 竹篦で貝の身を支えながら言う。真結がきく。

 「これの身を剥くの? これ、死んでるの?」

 その声は震えていた。

 「いや、身を貝殻から引きはがさないように気をつけて。死んでない。わたしたちで言うと、気を失ってるだけだから」

 「それって、あの薬のせい?」

 「うん」

 あの満月の夜、真結とここに戻って来て、この「鬼鮑」の入った樽に粉薬を注いでまた樽に蓋をしておいた。そのことを言っているのだ。

 真結の顔を見ると、白い顔で震えている。白い顔はもともとだからわかりにくいけれど、血の気が引いているのかも知れない。

 それでも、次の頭になった以上、これはやらなければいけないことだ。

 「貝の身には触らないように気をつけて。触ったらかぶれるから」

 言って、二股の鉗子で、貝の身をあの赤い貝殻から引っぱり上げたまま、動かないようにする。竹篦を引き抜く。

 「うん」

 真結が心細そうに頷いた。相瀬は先だけに刃がついた小刀を取り上げる。それをその鉗子で支えた貝の身に向けた。

 のぞきこんでいる真結が唾を呑む。相瀬は貝のほうを見たまま言う。

 「いい? きずをつけるのは五、長くても六分。六分より長くするとだめだし、五分より短いともっとだめ。なるべく貝の殻に近いほうだけど、刃の先が殻に当たったりしたらいけない。殻のほうから身の内側のほうに切るといい。いいね」

 言いながら、相瀬は貝の身を小刀の先でつついて短く切り目を入れた。

 真結がまたきゃっと悲鳴を上げる。でもじっと相瀬の手先を見てはいた。

 相瀬はすばやくざるのなかから「玉小石」を一つ摘んだ。それを真結の顔の先にかざして見せる。

 「なに、これ?」

 真結はほっと息をついたようだ。

 少しもゆがんだところのない、きれいな丸い形の玉だ。大きさは三分もない。白色の部分と、わずかに色のついたところと、すきとおったようなところとが混じり合っている。全体が美しく清らかに光っているように見えた。

 「何かわからない。美絹みきぬさんは玉小石って呼んでた。いい? ここからが難しいところだよ」

 相瀬は油紙を取って親指と人差し指の先を覆い、その小さい「玉小石」を油紙ではさんだ。その指を伸ばす。

 「玉小石」を貝の身のいま疵をつけた部分にすばやく押しこむ。

 「きゃっ!」

 「玉小石」のきれいなのを見て息をついていた真結がまた悲鳴を上げた。相瀬はかまわず、人差し指でていねいに「玉小石」を疵の奥まで押しこんで、手を戻し、油紙を捨てる。

 「紙は捨てる。さっきも言ったように、貝の身の汁をさわるとかぶれるからね」

 相瀬は声色をやわらかくしないで言った。

 真結は気もち悪いのかも知れない。でも、なぐさめを言ったところで、これはやらなければならないことだし、だいいち、どうなぐさめていいかわからない。

 「これを一匹について五回やる」

 「そんなに?」

 心細そうだ。相瀬は眉を寄せてまじめな顔を作って頷く。

 真結はわなないていた。掠れる声で言う。

 「これがかしらの仕事?」

 「うん。頭と次の頭の仕事。美絹さんもやった。去年はわたし一人でやった」

 「でも、なんで?」

 上目づかいで相瀬をにらむようにして真結がきく。

 「なんで、こんなのを? だって、この貝、死んでないってことは、まだ生きるんでしょ?」

 「うん」

 「だったら、なんで、その貝の背中に、こんな玉を入れたりするの? だって、わたしや相瀬さんが薬を盛られてるあいだに、背中に石を入れられるようなものだよ? それを背負って生きなければいけないようなもんだよ、この貝にしたら、これからずっと」

 そう考えるのか!

 真結は貝の身になって相瀬に訴えているのだ。そんなことは相瀬は一度も考えもしなかった。

 相瀬は目を閉じた。

 ぎりぎりまで言わないつもりだった。

 ためらう。とっさのうそを考えついたからだ。ひどいことをしているようだけど、こうしてやらないとこの貝は生きられないんだ、といううそだ。

 でも、やめた。すぐにほんとうのことがわかる。真結には伝えなければいけない。

 だから、相瀬は正直に言うことにした。

 「ちょっと待ってて」

 いくら気を失っているとはいっても、貝を水から出したままほうっておくとほんとうに死んでしまうかも知れない。人は水から出て息を継がないと死ぬ。それと逆に、貝は水に入っていないと死ぬのだ。

 相瀬は、貝から鉗子をはずし、樽の隣に置いてある大きな桶に入れた。桶の水には白磁の壺から薬を注ぐ。貝を「気を失った」ようにさせたのとは別の薬だ。

 前の薬が気を失わせる痺れ薬のたぐいだとしたら、こちらの薬は傷を治す薬だと美絹にはきいた。

 薬壺にまたきっちり蓋をして、相瀬は真結のほうを向いた。

 その顔をじっと見て言う。

 「いい? これを買ってくれる人がいるんだ」

 「え?」

 「もちろん、正しい取引じゃない。わたしたちのほか、だれにも知られないでやる取引。わかるよね? 領主様の法だけじゃない、天下の法を犯す大罪」

 真結は、かすかに息を吸って、まぶたを大きく見開いていた。

 「なんでそんなことをやるの?」とききたいのだろう。相瀬は唇をきつく結んで、真結が目を逸らすことができないようにその顔をじっと見た。もっとも真結も目を逸らそうとは思っていないだろうけれど。

 「でも、そのおかげで村は生きて行ける。年貢を上げられても生き延びられる。これはそれだけ高く売れるんだ。そして、これが売れなくなったら、村は滅びる。きいてるでしょ? 年貢を払えずにつぶされた村って」

 あの高い年貢が何年か払えず、つぶれた村が浜辺にいくつかある。名主は処罰され、村人は作人さくにんとして領内のほかの村に移された。

 しかも、あのサガラサンシューは、その跡に相模さがみや伊豆や東駿河するがから人を招いて他国者の村を作っている。その他国者の海辺の村はそれまでの村よりもずっと年貢が安いのだという。

 そうやってつぶされないため、他国者に村を取られないために、ほかの海辺の村は、貧しい暮らしに堪え、夜は内職をして年貢を払い続けている。それでも足りない分は領内の商人に借金するので、その借金を返すのにさらに村は貧しくなる。

 「この村がそうならないでいられるのは、そうやってこれを売ってるから」

 今度こそはっきりと血の気を失って震えている真結に、相瀬は続けて言った。

 「これでわかったでしょ? 海女の娘組の頭と次の頭を務めた女が、一生、村を出られないって決まり事のわけが」

 真結には、ひどいことをしたかな、と思う。

 でも、次の頭になることを決める前の娘に、このことを漏らすわけにはいかないのだ。だからしかたがない。次の頭になってから、伝えるしかない。

 相瀬は、冷たい、厳しい声で真結に言った。

 「さあ、さっさと終わらせよう。いやな仕事だったら、早く終わらせたほうがいい」

 真結にこんな言いかたをしたのは初めてだっただろうと思う。

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