第13話 いざよい(4)

 相瀬あいせは慌てて言う。

 「あ、いえ、お姫様の前でそんなことを言ったら失礼ですよね」

 姫様は首をかしげた。

 「それは、また、どうしてですか?」

 「だって、神様に近いって言えば、姫様のほうが近いじゃないですか。姫様って、つまり瀚文公かんぶんこう様のご子孫なんでしょう?」

 瀚文公というのはここの領主家のいちばんのご先祖様だ。詳しいことはわからないけれど、この姫様だって領主家の一族なのだから、その瀚文公のご子孫には違いがない。

 「ええ、それで?」

 でも、姫様は首を傾げたままだ。

 「瀚文公って、小織こおり様にお祀りされている神様でしょう?」

 小織様というのは、小織社といって、ご城下にあるお社だ。その瀚文公様を神様としておまつりしているという。相瀬は行ったことはないけれど、毎年、春には、名主様が何人か村役人の当番の大人たちを引き連れてお参りに行っている。

 「だから、その瀚文公のご子孫の姫様のほうが、わたしたちなんかよりずっと神様に近いはずですから」

 姫様は短くあいまいな笑い声を立てた。

 「人は死ねばみんな神様にもなるし仏様にもなりますよ。だから、そんな言いかたをするなら、だれだって神様の子孫です」

 「え、でも……」

 領主家の祖という神様と、名も知られないような浜の村の家の神様とでは、やっぱり違うと思う。

 相瀬が言い返す前に姫様は続けた。

 「それより、神様からさまざまなものを授かったという、その真結まゆいさんのほうが、ずっと神様にはでられているんじゃないですか? それに」

 また子どものように笑う。

 その笑顔で、さっき「人が死ねばだれでも神様になる」と言ったときの笑いが、姫様がいままで見せてきた笑いとまったく違うことに気づく。

 いまのほうがずっといい笑いだ。でも、どう違うのだろう?

 そのことを考える前に、姫様は言った。

 「その真結さんの才にあんなに仔細しさいに気づいている相瀬さんも、やっぱり神様に愛でられているんだと思いますよ」

 「えっ……? あ、えっ? わたしが?」

 話が自分のことに及ぶとは相瀬は思っていなかった。慌てる。

 「ええ」

 姫様は得意そうに言って、笑った。

 そんなはずがない。参籠さんろう所から抜け出して姫様を助け、入ってはいけないこの禁制の浜に入りこみ、参籠中の身で大海蛇と戦って殺し、上がってはいけないことになっている筒島には上がり――。

 およそばちの当たりそうなことばかりしている。

 でも、打ち消そうとしても、目を細くして楽しそうに笑っている姫様の顔を見れば、言い出す気にはなれない。

 こんな場所に、こんなふうに潜んでいるのでなければ、姫様はもっと高い声を立てて笑っただろう。

 姫様は、長く息をついてその笑いを収めると、落ち着いた声で相瀬に言った。

 「ところで、相瀬さんや真結さんは、どうして海女の仕事をしているのですか?」

 「ああ」

 姫様はいきなり大きいことをきくと思う。

 「ああ、だって、それしか生きられないから」

 相瀬は笑った。

 「毎日、海に潜って、海鼠なまことかあわびとかさざえとかを取ったりするほかに、生きかたを知らないからです」

 言いながら、真結は違うのかも知れない、と思う。

 名主様の遠縁に生まれ、手習いもして、どんな生きようだって選べた。畑を作っている家に嫁いで、畑を手伝いながら日々を過ごすという生きかたもあったはずだ。

 あの大海蛇と戦った日まで、相瀬もふさかやも、真結は片手間で海女をやっているのではないかと感じていた。ほかの生きようはいくらでもできる子が、軽い気もちで海女をやりに来たのだと。

 そのころはそんなことには気づかなかったけれど、いま思えばたぶんそうだ。だから、真結が、漁のあいだ、みんなと離れたところに一人でいても、だれも気にしなかったのだ。

 でも、姫様にそんな話をしてもしかたがないだろう。それに、いまの真結は、もう海女として生きる道を選んだ子だ。

 姫様がきく。

 「そういう獲物を舟から釣ったりすくったりというのはできないのですか?」

 「魚はできますけど、海鼠や鮑やさざえはできません。舟からもりで突いたりすることはできますが、そうすると傷がついてしまうし、死んでしまうのでいたむのが早くなります。やっぱりその場所まで泳いで行って潜って獲るのがいちばんなんです」

 それは盛の大小母や美絹さんに相瀬がずっと言われて来たことだった。

 相瀬は銛が使える。だから、海の上から銛で海鼠を突けないか、鮑を海の上から見つけて銛で岩から引きはがして引っぱり上げられないか、何日も試していたこともある。

 そういうことをするたびに、そうさとされたのだ。

 でも、いまは、それを自分のことばとして言えるようになった。

 もっとも、海の上から銛の先につけたはさみか何かで鮑をもぎ取ったり海鼠をつまみ上げたりできないかは、また試してみようと思っているけれど。

 姫様は穏やかに笑った。お姫様らしい気品のある笑いだった。

 「相瀬さん。わたしは、このまえかなえといっしょに身を投げたときのほかは、海に入ったことはありません」

 ああ、姫様はあの乳母様のことを覚えている。

 いや、姫様は海に身を投げ、それでいまここにいるのだ。忘れるはずがない。

 でもそのことすら相瀬は忘れそうになっている。

 「わたしは海辺を領する領主の家に育ちながら、海にはまったく縁なく育ちました」

 「ああ、はい」

 それはそんなに珍しいことではないと思う。

 村で、屋敷町――名主様のお屋敷のあたり――に住んでいる村人でも、海に入ったことのない人はたくさんいる。岡平おかだいらの城下も岡下おかしたも海からはもっと遠い。

 「でも、古い文を読めば、この国の天下では、神功じんぐう皇后様の御世みよにはもう海に潜って漁をしていたとわかります」

 「はあ」

 神功皇后と言われてもよくわからないが、八幡はちまん様に詣でたときにその御名みなを聞いたように思う。この皇后様がいらっしゃったのはそれぐらい昔なのだろう。

 「それに、いま、公方くぼう様がとう国との商いで何より珍重していらっしゃるのは、干し鮑とり海鼠なのです」

 「ああ」

 思わずそう答えた相瀬に、姫様は親しそうに笑いかける。

 「知っているのですね」

 「いえ。そんな話をきいたことがあって」

 美絹さんが、最近は長崎で干し鮑とか干し海鼠とかの売れ行きがいいと言っていた。佃屋つくだやさんがそう言って貞吉さだきちをさそい、城下に連れて行こうとしたのだ。

 姫様は満足そうに小さく頷く。

 「その鮑や海鼠は、この領内だけではない、この国の天下じゅうの海辺で、相瀬さんや真結さんのような海女さんたちが獲ったものなのです。それが天下の支えとなっているのです。いまのわたしの身では、そんな相瀬さんや真結さんやお仲間の海女のみなさんに何かむくいるなどとてもできませんが、みなさんがこの国に、この領内にもたらしてくれる恵みを、ほんとうにありがたく思っています」

 領主家の姫らしい、貴い笑顔だった。

 その笑顔を急に崩して、最初の、子どものような笑顔に戻る。

 そして、姫様はつけ加えた。

 「それに、相瀬さんがそんなにたいせつに思っている、その真結さんという方にも、できれば一度お会いしてみたいと思いますよ」

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