第8話 満月(7)

 相瀬あいせにつづいて、真結まゆいも勢いよく上がってきた。

 激しく息をしている。自分もそうなんだろうなと思う。

 「相瀬さん」

 真結が息を整えながら言う。

 「ここの水って、潜ってると疲れるね。力を抜くとすぐに浮きそうになって」

 「そうだね」

 「それに、いつもより目が痛い」

 「……そうだね」

 そう言われてみればそうだ。でもいままでそんなことは考えなかった。

 「たぶんね、ここ、水が違うんだよ」

 それは体の感じでわかる。外の海の水よりも水がねっとりしているように感じる。

 もっとも、何とはなく感じるだけで、水は透き通っているし、滑っているわけでもない。

 だから、どう違うのかわからない。

 どちらにしても、相瀬は感じてはいたとしても、ことばで言うことはできなかった。真結は最初に来てそれでその水の違いを言い当てた。

 自分のことのように誇りたいと思う。

 けれどもそのことは言わず、かわりに

「いまのであれがどう育つのかわかったでしょ」

と言う。

 「うん。でも」

 真結はすなおに首を傾げた。

 「底のほうにいたのは、上のほうにいたのが育って大きくなったもの?」

 「うん」

 「でも、形が違うじゃない?」

 「うん。それでもあの二本の角みたいなのはあったでしょ? いちばん底のは別にして」

 「じゃあ、あれ、育つとどんどん底のほうに下りていくの?」

 「そう」

 「それと、上にいたのはずっともぞもぞ動いてたのに、下のは少しも動かなかったよ?」

 「うん。だからさ」

 短く答えてから、相瀬は説明する。

 「あの貝、大きくなると、あんまり動かなくなるんだよ。自分の体の届くところの藻を食べてさ、あとはずっとじっとしてるんだ」

 「いちばん底のは、あの角もなかった」

 「そのわけはあとでわかる」

 相瀬は真結の問いを封じるように言ってから、続けた。

 「わたしたちがここでやらないといけないことは二つ。あと、ご祭礼のあいだにもう一回ここに来て、もう一回やらないといけないことがある。それはそのときになったら説明する」

 「うん」

 「じゃあ、まず、一つめ」

 相瀬は底から抱えてきた炭の束を真結の前に突き出した。

 「いまからこれの縄を切るから、受け止めて」

 「ああ」

 どうしてそんなことをするのか、真結はわからないだろうと思う。

 相瀬にもわからない。そうすることに決まっている、という以外は。

 竹べらで縄を引っかけて、ごしごしと擦る。水を吸ってふやけた縄はぽつんぽつんと切れていった。

 せっかく神主様が結んでくださったありがたい縄なのに。

 途中でがさっと音がして炭の束が崩れた。相瀬が慌てて自分に近いほうの炭を抱き取る。

 真結は、すっと音もさせずに水に沈むと、こぼれた炭を抱き取り、水のなかに沈みかけた炭まで集めて戻って来た。

 よくやった、というように頷いてみせる。

 「じゃ、この炭をさ、向こうの端とこちらの端から二人で一本ずついて沈めて行く」

 相瀬は指を差して示す。

 「それで、二人がこの樽のところまで来て、そのとき炭が余っていたら、こんどは横向きに撒いていく」

 「はい」

 真結がけなげにうなずく。なぜそんなことをするのかはきかない。

 相瀬は美絹みきぬに最初にこれをやらされたとき、きいた。昔からやることになっているという答えでは相瀬は納得せず、しつこく聞き返して、最後にはあの穏やかな美絹に

「いいから言われたとおりにしなさい」

と怒られたのを覚えている。

 だから自分も貞吉のことを何とも言えない。自分だって「昔からそう決まってる」という言いかたでは納得しなかったのだ。

 でも今年はそんな騒々しさとは無縁だ。

 相瀬が合図をし、相瀬と真結は、この洞穴の両方に分かれた。

 筒島はもともと細長い島だ。この洞穴もその筒島の形にそって、細長くできている。その細長い両端に行って、そこから一本ずつ炭を落としていく。真結はずっと相瀬の動きを見ていて、相瀬が炭を落とすと自分も炭を落とした。

 樽のところまで戻ったとき、相瀬の腕の中には五本の炭が残っていた。そこから相瀬は左に、真結は相瀬から見て右に分かれて、また炭を撒く。

 それが終わって、二人ともまた戻って来た。

 ゆったり泳いだので、さっきの潜りの疲れをとるにはちょうどよかったかも知れない。

 向かい側でほっとした笑みを浮かべた真結に、相瀬は言う。

 「さ、これからがたいへんだよ」

 「え?」

 さすがに真結も疲れてきている。でもまだ休めない。いまでなければいけない仕事なのだ。

 それに、ここまでの動きを見れば、真結はまだ仕事ができそうだ。

 相瀬は説明した。

 「さっき底のほうでみたあの大きい鮑で、角のあるやつ。短い藻のところにいて、動かなかったの、いるでしょ?」

 「うん」

 「あれを一人あたり六匹拾ってくる」

 「六匹?」

 なぜ一人で六匹、二人で十二匹かというとこれも説明ができない。そう決まっているから、としか言えない。

 あの貝を「匹」で数えていいのかどうかも相瀬は知らない。鮑なら「十二杯」というのだけど、大きくて巻いている貝を「杯」で数えるものとも違うと思う。ともかく美絹は「匹」で数えていた。

 「うん。それをこの大きい樽に入れる。二人で合わせて十二匹入れるとちょうどいっぱいになる仕掛けになってる。あれは竹べらではがせる。たぶん鮑より軽くはがせると思う。それに鮑と違って逃げないから、最初に場所の見当をつけておいたらそれでどんどん連れて来られる」

 「うん」

 真結は元気にうなずいた。

 だいじょうぶだ。真結はまだひと仕事ぐらいは十分にできる。

 「じゃ」

 「うん!」

 艶のある美しい声だ。

 仄明るい明かりに浮かび上がった真結の顔も美しく、それに凛とした強さがあった。

 相手は二本の角を持つ「鬼」だ。

 でも、真結ならば、その「鬼」の邪気に勝つことができる。

 いま思い出してみると、去年、この洞穴でこの貝を一人で十二匹拾ったときには疲れ果てていたと思う。それは、潜るのが疲れるというだけではなくて、やはりこの貝の持つ邪気にでもあてられたからだろう。

 「鬼」の放つ邪気に。

 今年は去年の半分も疲れない。

 真結の強さと美しさが邪気から自分を守ってくれるから。

 たぶん神様から分けてもらった強さと美しさが。

 「行くよ」

 そう言うと、相瀬は、真結ほど美しくない潜りかたで、勢いよく水面を離れた。

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