第7話 満月(6)

 相瀬あいせは、黙って自分の左手から貝をはがし、真結まゆいの両手にのせてやる。

 真結が手を引っこめたらやめるつもりだった。でも、真結は、手をふるわせながらも貝を受け取った。

 貝がそのやわらかい手のひらに載ったときにはぎゅっと両目を閉じた。でも、すぐに目を開き、目をそむけないで、その貝をじっと見た。

 貝は真結の左手のほうについているらしい。真結はゆっくりと右手を放した。

 貝はその手の上を這い回っている。どこか硬い場所を見つけたいのだろう。

 這われるたびに、真結は悶えるように顔をしかめた。

 でも、慣れたのか、それとも観念したのか。

 真結は手の甲のほうに回って動かなくなった貝をじっと見つめた。

 こうなると真結はもうさっきの怖がっていたときの顔ではない。目を寄せて、少しずつ向きを変えて、その貝を見ている。

 目を離さない。

 手習いで墨で何かを書いているときも真結はこんなふうなのだろうか。

 この貝に吸いつかれて落ち着いていられるのだから、鮑はもちろん、海鼠なまこを握ってももうだいじょうぶだろう。

 相瀬が声をかける。

 「どうしてこれが鮑に似てるか、わかる?」

 真結が顔を上げて答える。

 「吸いついてしまうと動かないから?」

 「うん」

 相瀬はうなずいた。

 「速く動くくせに、岩に吸いついたら意地でも離れない。ほかにも鮑に似たところがあるんだけど、それは明後日、十七夜様の日にわかる」

 「……うん」

 真結は、いまの一言で、このあともこの貝につき合わなければならないことを知っただろう。

 どう思っただろう?

 真結は、小さくほほえんで貝をつけた手を顔の前まで上げた。

 貝は、水から出されても、少し身を伏せただけで、そのままの場所におとなしくしている。

 こうやると、貝殻から細く鋭く突き出た二本の角が目立つ。

 真結が温かい声で言った。

 「鬼みたいだね」

 相瀬はあっと声を上げそうになる。

 思いもかけなかった。

 いまの真結の一言で、いろんなことがひとつながりになった。

 まったく関わりがないと思っていたものごとが、ぴんと張ったひと筋の糸の上に並んだように感じた。

 だが相瀬はその思いを抑えこむ。いまはそんなことを考えているときではない。

 相瀬は、そっと手を出して、真結からその貝を受け取った。こんどは手には吸いつけず、殻のほうを持つ。貝がもぞもぞと身を動かす。吸いつくところを探しているのだろう。でも、すぐ疲れたのか、あきらめたのか、動かなくなった。

 「でも、こんな貝、ほかでは見たことないけど……」

 いままで貝の乗っていた手を水に浸して、真結が言う。

 「うん。たぶんこれはここにしかいない」

 相瀬はそう答えると、口を結んで、しばらく黙ってまっすぐに真結の顔を見ていた。

 真結も何も言わない。

 「来て」

 声を落ち着かせて言うと、貝を持ったまま、水に潜る。

 真結がついてくる。樽の向こうで息を継いでからなので、相瀬より少し遅れる、

 下から見ていると、真結は立ち姿のまま手を縮めて水のなかにすっと落ちこむように水の下に入り、そこから頭を下にして潜ってくる。頭を先に水に突っこむ相瀬の潜りかたよりずっときれいだ。

 きれいというのは、つまり水を乱さないということで、それは海女としてだいじなことだ。水の流れが乱れただけで逃げてしまう獲物もたくさんいる。

 浜で真結がふさかやに勝てないのは、房や萱は勢いに任せてずんずん潜るのに、真結はきれいに潜ろうとするからだ。潜り始めるのが房や萱より遅かった浅葱あさぎ麻実あさみはもっと力任せに潜る。

 これまで相瀬が真結の才に気づかなかったのは、相瀬自身の潜りかたもどちらかというと力任せだからなのかも知れない。

 そんなことを考えていると、真結が相瀬の横に並んできた。

 相瀬は、あの「鬼みたいな」貝が群れているところの一つに、そっといまの貝を戻してやる。

 真結が口に手を持っていった。

 一つの貝には慣れても、それが群れてうごめいているとやはり気もちわるいらしい。

 それはそうだ。岩にしわしわの模様ができて、その岩そのものが動いているように見えるのだから。

 相瀬は真結に合図をして、勢いをつけ、さらに深いところに潜った。

 このあたりはさすがに暗い。そのかわり、さっきの若布わかめのような長い藻が生えていないので見通しはきいた。

 長い藻が生えていないかわりに、岩には毛氈のように緑の藻がやっぱり隙間なく生えている。

 相瀬は、一つ、また一つと指さした。

 指ささなければわからなかっただろう。

 その毛氈もうせんのような緑の藻の合間からあの二本の角が突き出ている。それでようやくそこにあの貝がいることが見分けられる。

 いや、貝が見分けられても、同じ貝なのかどうかはわからないだろう。

 さっきのが手の甲にちょうど載るくらいだった。それが、ここでは、女の片手の手のひらをいっぱいに広げてもつかめないぐらいの大きさになっている。

 よほどの大男でないかぎり、男だって片手の中には収められないだろう。

 真結がどんな顔をしているかは、光が弱くてよくわからない。

 相瀬はまた合図をして、さらに深くに潜る。

 底に着いた。

 底に近いところの岩にもさっきの短い藻が生えている。

 相瀬が同じように指さしてみせる。

 そこには、その短い藻に埋もれかけて、やっぱり同じ大きい貝がいた。

 さっきよりもっと目立たない。

 それは、こちらの貝には、あの目立つ大きい角がないからだ。そうなると、大きくなったこの貝は、巻いている部分よりも入り口の開いた部分のほうがずっと大きくなって、鮑と言われれば鮑に似ていなくもない。

 そろそろ潜りつづけているのもつらくなってきた。相瀬は底を目で探す。

 さっき底に落とした炭の束を見つけた。

 紐を手に持ち、真結に合図して、水の上へと浮かび上がる。

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