第6話 満月(5)

 これまでの娘組の頭はこの上がどうなっているかずっと知らずに来た。

 相瀬あいせが、去年、一人で来たとき、いまと同じように筒島つつしまに這い上がってみて、知った。

 真結まゆいならば、そのことを知っていていいと思う。いや、知っていてほしい。

 この小さい天地は昔からずっとこのままだったという。でも、いつまでもこのとおりかどうか、相瀬にはわからない。

 さっき、相瀬は用心して洞の入り口に金網の戸を立てた。

 たこでも海蛇でも黒鯛でも、ここに紛れこんできたら、ここはたぶんいまのままではすまない。小さい天地はそれだけで滅びてしまう。

 それだけではない。

 筒島のまわりの海の底には、筒島と同じ色の岩が散らばっている。

 それは、たぶん、筒島から崩れて、落ちてきたのだ。

 つまり、筒島様の岩も崩れる。

 だったら、この小さい天地を支えている岩だって、いつかは崩れるかも知れない。

 そんなときのために、真結には知っておいてほしい。

 手習いをして、がくというものを身につけようとしている真結には。

 万一、岩が崩れて、ここが何かの異変に襲われたときどうすればいいか、相瀬にはわからない。

 でも真結ならどうすればいいか答えを見つけられるかも知れない。

 それがたとえ見つからなくても、ここがどうなっているかを真結は知って、そして後の代の娘組の頭たちに伝えていってほしい。

 ――月の光は斜めに照らし、月夜の空の明かりも入ってくる。

 外の海の中の明るさとくらべればずっと暗いが、でも、目が慣れてくれば、この小さい洞のなかはすみずみまで見通すことができる。

 入ってくるとき、ここが緑色に見えたのは、岩肌から一面に若布わかめのような長い藻が生えているからだ。

 その若布のような藻が、わずかな水の流れにたゆたい、月の光に揺れている姿はきれいだ。真結は、睫毛の先に月の光を宿したやさしい目でその姿を見ている。

 だが――。

 それが揺れているのは水のたゆたいのせいだけではないことに、真結はすぐに気づくだろう。

 「きゃ……」

 思っていたとおり、真結は小さい声を立てて身をすくめた。

 ここで、水に濡れた磯着を通して、樽のすぐ向こうの真結を見ると、ほんとうに肩と首とを縮めているのがわかる。

 何か問いたそうに相瀬の顔を見上げるように見ている。

 相瀬は、笑顔で安心させると、黙って樽から身を翻した。

 その海藻の葉に手を当て、葉の端についているものをいくつかもぎ取ってくる。

 煎るまえの豆粒ぐらいの大きさで、この大きさでもとげがあって、やわらかく握っていないと痛い。

 しかも、相瀬が藻の端からもぎ取ってから浮いている樽のところに戻るまでのわずかなあいだにも、この小さいものは相瀬の手のなかで活発にうごめきつづけている。

 あの緑色の藻のところどころに黒い縁取りが見える。真結はそれを見ていた。

 そして、その黒い縁取りがうごめいているのに気づいた。それで怖がったのだ。

 「はい」

 手のひらを開いて、相瀬は真結にその黒い豆のような生きものを見せてやる。

 真結は半ば顔をそむけた。でも、そむけるのをやめて、首を伸ばし、のぞきこんできた。

 たぶん次の頭としての気もちが、最初に感じた気もち悪さを抑えたのだろう。

 相瀬の分厚い手のひらの上で、小さい黒い生きものどもが、あっちへ行ったりこっちへ来たりとしきりに動き回っている。

 真結が顔を上げる。

 眉間と鼻のところにほのかな光が白く照り返しているのが「この世ならぬ」と言いたくなるほど美しい。

 「稚貝ちがいだよ」

 言って鼻から笑いを漏らしてみせる。つられるように真結はきいた。

 「何の?」

 「待ってて」

 いま「何の?」ときいたことを、真結は後悔するかも知れない。

 この稚貝さえ真結はまだ怖いだろう。

 自分だって、水のなかを虫のようにうごめき回るこの黒い稚貝を最初に見たときは、悪い夢のなかにいるような不気味な感じを感じて、体じゅうがむずがゆくていたたまれなかった。

 でも、これは知っていてくれないといけない。

 相瀬は、若布のような藻の葉に稚貝を返すと、水に潜り、腰の竹べらを抜いた。その若布の根もとから、もう少し深いあたりの岩を探す。

 岩そのものがうねりを打っているように見えるところがあった。それが水の揺らぎのせいでないのをしばらく見て確かめる。

 握りこぶしぐらいの大きさのものがいくつも群れていて、それがあちこちに動いている。

 こういう群れが、この小さい天地にいくつもあるのだろう。

 これは引きはがそうとされたのに気づくと岩に吸いついてしまう。そうなったら竹篦どころか鉄の篦でもなかなか動いてくれない。

 相瀬は、じっと見ていて、そのうちの一つがふっと上に動いたところに手を伸ばした。たぶん岩のくぼみを越えようと身を伸ばしたところだったのだろう。

 それを拾ってくる。不意をつかれて、その貝は岩に吸いつくひまもなかった。

 かわりに左手の甲に吸いつかせてやる。岩のように硬いものには引きはがそうとしても離れないくらいに強く吸いつくのに、やわらかいところは好きでないらしく、人の肌に吸いついてもあまり強くはひっつかない。だから痛くはないがくすぐったい。

 早めに水から顔を出して、真結のところに泳いで戻る。

 真結の目のまえに左手の甲を突き出してみた。貝は手の甲でいまおとなしくしている。

 真結はまた

「きゃっ」

と小さく悲鳴を上げた。身をのけぞらせる。

 でも、やっぱり、すぐに顔を近づけて来て、その貝をのぞきこんだ。

 右から見たり、左から見たりを繰り返す。

 相瀬は自分の体が真結にのぞきこまれているようで、くすぐったい。

 何度ものぞきこんでから、真結は顔を上げた。

 「さざえ?」

 たしかに殻が高くてきつく巻いているところはさざえに似ている。殻から二本の長い角が出ているのもだ。

 「さざえより鮑だね。蓋がないから」

 蓋がない貝はいっぱいいる。それに鮑の貝殻はほとんど巻いていない。よく見れば隅のほうが巻いているように見えなくもないが、それだけだ。

 だから、さざえでないにしても、どうして鮑なのか。

 でも、真結はそのことは何も言わなかった。

 真結は、唇を結んで、心を決めたように両手を揃えて相瀬の前に差し出した。その手がまた月の光に白く透き通るようだ。

 相瀬はおかしくなった。

 この貝と鮑とが似ていないとしたら、このほっそりと色の白い真結と、日焼けしていて肉付きのよい自分とも似ていない。どちらも人で、どちらも同じ年頃の娘だというのに。

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