第5話 満月(4)

 相瀬あいせは何も言わずに、穏やかに水に潜った。潜ってすぐに勢いをつけたつもりだが、真結まゆいはすぐ横についてくる。

 ふさでもかやでもそうやって潜れば引き離せるのに。

 くすぐったい思いだけれど、声を立てて笑うわけにはいかない。

 相瀬はまず炭と樽を置いた岩棚に下りる。

 平らな岩棚の左端あたりで、岩がきれいな円の形にくぼんでいる。その奥に、相瀬の肩幅くらいの岩が、半分、ほかの岩のあいだにはさまって沈んでいる。

 相瀬はその岩を持ち上げた。

 陸の上で持ち上げようとするとこの大きさの岩でもたいへんだろう。

 春の祭りで漁師衆の男どもが持ち上げて力を競う「力石ちからいし」というものがお社の本社にいくつも置いてある。その小さめのものと同じくらいの大きさはある。

 でも水の中なので足を少し踏ん張れば持ち上がる。相瀬はそれを岩の丸いくぼみの上に動かした。

 その岩がくぼみの上にきれいに載り、相瀬が手を放すと、ごろんごろんと、かすかな、でも重い音が水を通して伝わってくる。

 相瀬は、横でその様子を見ていた真結に合図して、岩の稜の向こうのくぼみに行く。

 さっきはなかった洞穴ほらあなが口を開けていた。

 真結が目を見開き、慌てて瞬きしたのがわかった。

 そしてやっぱり真結は自分とは違うと思う。

 相瀬自身は、美絹に同じことをして見せてもらっても、何も驚かなかった。

 さっきはそんなところに洞穴は見えなかったということにすら気がつかなかったのだ。

 いま開いた洞穴は人が屈めば通れるくらいだ。海の中だから、もちろん、屈んだりしなくても泳いで通り抜けることはできる。

 相瀬はまず自分でその洞穴に胸のあたりまで入った。まさかとは思うが、あの人食い海蛇や大蛸おおだこや鮫なんかが中に入っていて、襲いかかってこないとは限らない。

 だが、そんなことはなかった。

 洞穴の中の水と外の海の水が混じり合って、海の水が花模様のようなかすかな影を作る。

 洞穴の遠くに緑の明かりがかすかに見えている。

 だいじょうぶだ。

 相瀬は後ろに戻り、さっき言ったとおりに、まず真結をくぐって入らせた。

 真結はさっき言われたとおりに入ってすぐにすうっと上に上がって行った。息を継いでいるのだろう。相瀬は息を詰めて待つ。

 白く美しく輝くものが相瀬の前に下ってくる。それが真結の脚だとしばらくわからなかった。

 陸で見る真結もきれいだけれど、肌が白くて、顔も白くて、体が細くて弱々しげではかないところを感じさせる。

 でも、水のなかでは堂々として美しい。その肌の白い明かりでまわりを圧するようなおごそかささえ感じる。

 そんな厳かさと美しさを神様から授かった生きものがいるんだ。しかも相瀬の身近に。

 相瀬は炭の束と樽とを取りに戻る。

 真結は息を詰めて、洞穴の入り口に屈んで待っていた。真結の手にまず炭を、つづいて樽を送る。うなずいて合図をすると、真結はそれを両脇に抱えるようにして、洞穴の中の暗がりへと消えて行った。その美しい白い脚を交互に上下させながら。

 美しいだけではなくて、きもがあると思う。

 自分は同じことをやらされたとき、怖かった。

 いつも大胆な相瀬ちゃんが、こわごわ、たどたどしく泳いで行ったとあとで美絹に言われた。

 その洞穴を、相瀬よりもずっと感じかたの細やかな真結が、ずっとすなおに、怖がらずに入って行ったのだ。

 相瀬も洞穴に入る。入ってすぐの息継ぎはやめて、持ってきた金網を洞穴の入り口に立てる。

 蛸だの海蛇だの鮫だのが外から入ってこないようにする用心だ。岩の角の尖ったところに針金を結びつける。軽く引っぱってみたけれどはずれなかったから、だいじょうぶだろう。

 相瀬は蹴伸けのびの要領で身を伸ばし、洞穴の奥へと進む。

 外の月明かりに慣れているので、最初は中はまっ暗に見える。

 しかし、そのうち、行く手には仄かな緑の光が見えてくる。さらに行くとその光は確かになり、光が緑なのではなく、白い光の中で緑のものが揺らめいているのがわかるようになる。

 その揺らめく緑のものの下をくぐると、相瀬は水を蹴って上に浮かび出た。

 真結は先に来てそこに浮かんでいた。

 まわりを見回している。両手に荷物を持ったままだ。

 相瀬と顔を合わせて、またすぐに上を見上げる。

 天から光が射していた。

 もちろん、天からじかに、ではない。

 岩の隙間から外の月の光が漏れている。

 でも、このまるい形の岩の天井は、それ自体が小さな天で、その小さな天がこの洞の中の小さな海を抱き、守っているようにも見えた。

 そして、それもまちがいではないのだ。

 ここが外とは別の天地だということも。

 「ここ」

 その新しい天地に心を奪われたように真結が言う。その小さいさやかな声がその小さい天地のなかで響いた。

 「どこ?」

 小さい「天」を見上げながら言う。

 「筒島つつしま様のご胎内たいない

 相瀬が答える。

 真結はまた天井を見上げ、それでも得心がいかないようにまた相瀬の顔を見た。

 相瀬は笑って見せて、真結の手から炭の束と樽を受け取った。

 炭の束はそこで手から放す。この小さい海の底へと炭の束は沈んでいく。あとで拾わないといけないが、たいした手間ではない。

 樽のほうは、また蓋を開けて、中に入れていた水を流した。

 水を流した音がまわりの岩壁からいちどに返ってきて、大きく響きわたる。

 軽くなった樽は水に浮かんだ。相瀬がその浮いた樽につかまると、真結も向こう側から来てつかまった。

 これで泳ぎに余裕ができる。しばらくおしゃべりしていてもよさそうだ。

 相瀬があらためて上を指さす。

 「さっき見てたでしょ? 藻とか苔とかがいっぱいに生した、池みたいなところ」

 あの筒島の裏手の大きな窪地だ。海から来た波の波頭の部分だけが岩を超えて、いくつも棚のようになった岩を流れ落ちていく。そこにいっぱい藻か苔かが生えていた。

 「ああ、うん……」

 「その真下」

 「真下っ?」

 真結は声をひっくり返した。

 「うん。真下」

 相瀬が言うと、真結は黙って上を見上げた。

 「だって、あの横から跳びこんで、潜って、さっきの洞穴を開いて、奥に入ってきたわけでしょう? だから、あの池みたいなところの真下になるわけ」

 だから、漏れてくる光は外の月の光だ。

 「あの窪地、上から見てもわからないけど、たぶんあの藻や苔のあいだには岩の隙間があるんだよ。そこから月明かりが漏れてくるんだ」

 真結が何をじっと見ているのかわからない。

 筒島の岩の上から見下ろした窪地、海の面、潜った深さ、そしていま見上げている岩の天井の高さ――そういうものを考えて、相瀬の言っていることが正しいかどうか確かめているのだろうか。

 「……そうなんだ」

 真結は納得したようだった。

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