第3話 満月(2)

 樽を抱えて立ち泳ぎしている真結まゆいのところに戻る。

 「苦しい?」

 「いいえ」

 その顔に海の波で照り返ってきた月の光が映って、真結の笑顔が美しく浮かび上がった。

 真結を見慣れていなければ、その笑いはけなげに無理をして笑っているように見えるだろう。

 でもそうではない。真結はこういう笑いかたをするのだ。真結はまだ十分に泳ぐ力を残している。

 相瀬あいせは告げた。

 「島に上がるよ」

 真結にとってはびっくりするようなことばのはずだ。

 村の者はみんな筒島つつしまには近づいてもならないと教えられている。もちろん海女もだ。

 近づいてもならないのだから、もちろん島に上がるなどけっしてやってはいけない。

 海女が島に上がってもいいのは、初めて海女になったとき、初めての海女に付き添ってきたときと、もしできるならば海女をやめるときだけだ。

 「島に?」

 でも真結はそう答えただけだった。

 「うん」

 うなずいてから相瀬はつけ足す。

 「来年からは上がらない。でも今年は真結が初めてだから。だから、ごあいさつ」

 ほんとうではない。

 この満月の夜の務めに初めて携わる次の頭が筒島に上がってよいという決まりはない。決まりがない以上、ほんとうはやっぱり上がってはいけないのだ。

 でも、真結にはここは見せておいたほうがいいと思う。

 海女の娘組の頭は学問をするならば村の外に出て暮らしてもいい。学問があれば村から出られるのは、村の「大事」をだれにも話さずにおく分別があるからだと盛の大小母は言った。

 真結は手習いをしている。ここで見たことをだれにも話さない分別はあるだろう。

 そして、その真結には、自分が何をやっているのかをきちんと知ってほしいと思うのだ。

 つまり、代々の海女の娘組の頭が何をしてきたかを。

 相瀬は島の裏側の岩に取りつき、まず持ってきた炭の束を岩の上に置き、手をついて島へ這い上った。

 用心のためにすばやくあたりを見回す。

 筒島の高いところには松が何本か生えていて、下には羊歯しだが茂みをなしている。

 背をかがめれば人一人ぐらいは隠れられる。相瀬は、急に重く感じるようになった体を動かして、羊歯の茂みに入り、小さな島のいちばん高いところまで行った。

 羊歯に身を隠しながら、浜に向いた側まで見回してみる。

 やはり人の気配はない。

 相瀬はもとの場所に戻った。

 手招きすると真結が寄って来る。

 まず両手を伸ばして真結から樽を受け取る。重い。水が入れてあるからだ。まず蓋を開けて水を捨て、足が滑らないように気をつけて腰を入れて持ち上げ、岩の上に置く。

 それから真結に手を貸してやる。岩を上がるときに足を滑らせて爪を割ったりしないかという心配がかすめる。でも真結はするりと海から上がってきた。

 神妙な面もちをしている。ほんとうは上がってはいけない神様の島にいま上がっていると真結はわかっているのだろう。島に上がるのを決めたのが相瀬の勝手だということまで気づいているかも知れない。

 相瀬が島のほこらのほうに向くと、真結も並んで同じほうに向いた。

 後ろからは満月の夜の満ち潮が打ちつけてくる。二人が上がったあたりは水に浸ることはないが、二人の足もとは岩の上にまで打ち上がった波に何度も洗われた。

 足の下に踏んだ岩の上の砂がくすぐったい。

 ここから祠を拝むと、祠を後ろから拝むことになる。でもしかたがない。前から拝むためには浜から見えるところに行かなければいけないのだから。

 相瀬が手を胸の前に上げると、真結も同じようにしたので、二人でいっしょにかしわ手を拍った。

 ほかにだれもいない島の上に、少しずつずれて、二人の鳴らした手の音が響いた。

 よかった――と相瀬は思う。

 これで、ここの神様に許しをもらったのだ。いまのごあいさつで、神様は許してくれたと思う。

 真結は、海から上がってきたときには激しく息をしていた。小さい胸から顔までを大きく上下させていた。

 でもこの少しのあいだでそんなそぶりは見せなくなった。

 いまも胸は速く激しく打っているのだろうけど、それは自分も同じだ。

 「もう、いい?」

 「あ……ええ」

 振り向くと真結は髪から潮を絞っているところだった。

 声をかけるのが早すぎた。

 相瀬は髪から潮を絞るなどということはもうやらなくなっていた。潮をつけたまま髪が乾くとごわごわする。でも、相瀬の髪は潮がついていなくてもやっぱりごわごわするから、髪を絞っても絞らなくてもたいして変わらない。

 しかし、たおやかで細かい真結の黒髪はていねいに扱ってあげたほうがいいだろう。

 髪を絞って、耳の後ろの首筋を撫でている真結に、相瀬は黙って指さして見せた。

 「あぁ」

 真結は小さく声を漏らす。

 相瀬と真結が立っているすぐ横に高い岩に囲まれた大きな岩の窪地があった。

 そこは島の祠の裏にあたる。島の沖に向いた側で、浜からは見えない。

 沖のほうからも、沖の側の水辺にそそり立つ高い岩がじゃまになって見えない。

 島に上がらないと見えないのだ。

 一つ、波が来て、相瀬と真結の膝の後ろ側までを濡らした。

 その水のほとんどは海へと引いていく。でも、海に引ききらなかった水は、波の勢いを残したまま岩を越え、その窪地に流れこんでいった。

 窪地の縁のほうは、壇を作ったように何段にも分かれ、それぞれの段が水をたたえている。

 波の水は、その上のほうの段の潮溜まりをあふれさせ、徐々に勢いを弱めながら、窪地の下のほうへと流れ下っていく。

 窪地の底には、この月の夜には黒々と見える藻だか苔だかが、少しの隙間もなく茂っていた。

 窪地と海とのあいだの岩は高く、分厚い。だから、海の水はじかにはこの窪地には入ってこない。島に打ち寄せた波の波頭の部分だけが、いま相瀬と真結が立っている、いくぶんなだらかなところを超えてここに流れこむ。

 「筒島様の後ろのほうって、こういうふうになってたんだね」

 「うん」

 相瀬がうなずく。真結がつづけてきいた。

 「これがあるから、筒島様って近づいてはいけないことになってるんだ」

 「いや……いや、それもあるけど」

 相瀬は真結の顔を見る。

 少し頬が弛む。

 「それだけじゃないんだ」

 相瀬は、その窪地の向こうから照っている月を見上げた。

 まだ余裕はある。でもあまりゆっくりもしていられない。

 夏の夜は明けるのが早いし、これから夜明けまでにしなければならないことは多い。

 相瀬は声に力をこめた。

 「それをこれから見に行く。見るだけじゃなくて、そこで仕事する」

 「うん」

 真結も同じように力の入った声で答えた。

 だいじょうぶだ。これでうまく行く。

 ――その返事をきいて、相瀬はそう思った。

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