第2話 満月(1)

 夜は思っていたよりもよく晴れた。満月は高いところから照らしている。

 海のなかは明るい。その明るさは昼の明るさとは違っている。見上げると空は暗く、海の水面も暗く、そこに月の明かりだけが射して海の水を照らしている。けれども、そのひとつの明かりが前も後ろも右も左もくっきりと照らしていて、潮のそよぎまで映し出しているようだ。

 小いわしが銀の鱗をその月にきらめかして泳ぎ過ぎる。

 いまならば、あの人食い海蛇が出てきても、争いにならずにすみそうだと感じる。

 ほんとうはそんなことはない。あの海蛇は夜になると岩のあいだや砂の底から這い出てきて、昼よりも活発に動き回るのだ。用心しなければいけない。

 それでも、あの海蛇は自分たちはけっして襲わないはずだ。そういう思いが相瀬あいせの心の底にある。

 それぞれ大きい荷物を抱えた二人の娘の影が、五尋もある砂の底を滑って行く。

 二人とも鮑を採るときに使う竹べらを腰につけ、相瀬は目の細かい大きい金網も腰につけている。そして、相瀬は炭の束を、真結まゆいは自分の胴回りよりも大きい樽を抱えている。

 二人とも大荷物だ。

 相瀬が抱えている炭は、あの祭礼の炭占いのあとで海に沈めた二束の炭のうちの一つだ。

 炭の束は、あの夜、姫様のところに行く前に相瀬が海から引き上げて、隠し場所に置いておいた。もう一束はまだその場所に置いてある。二人はその隠し場所からここまで泳いで来た。

 真結は相瀬から離されずについてきているようだ。樽を抱えているから手が使えず、泳ぐのは難儀なはずなのに。

 それに、真結はこれだけ息を継がずに泳いだことがあるだろうか?

 顔を上げて波の様子を見る。

 右手を大きく上げて合図をし、相瀬は浮かび上がって息を継ぐ。口のところまで上に出して息を継いですぐにまた潜る。

 ほんとうはどこで息を継ぐかは自分で決められなければいけない。でも真結にはまだ無理だ。

 満月で海のなかが明るいということは、浜からでも海がよく見えるということだ。

 潜っていれば浜から見つけられることはない。海女の白い磯着いそぎは見えるかも知れないが、浜から見たのでは波の照り返しと区別がつかないだろう。

 でも、頭を出したら、見つかってしまうかも知れない。

 だから、息を継ぐときには、波が騒いでいるところへ少しだけ頭を出して息を継ぐしかない。

 どうして、ここまで身を隠すことに気を使わなければならないのか。

 真結にはまだわからないだろう。

 ここまで海の底はずっと白い砂のままだったのに、砂の底から岩が頭を出すようになってきた。

 砂の上にも暗い色の岩がところどころに転がっている。

 それは月明かりにも黒く陰になって見える。

 顔を上げれば、明るい海のなかに大きく沈んだ、暗いとも明るいとも言えない色の岩の塊が見える。

 それは海の底に張った神代かみよからの巨木の根のようでもある。

 筒島つつしまだ。

 遠く浜から見るだけでは、海に小さく浮かんだだけの島、島というより岩の塊のように見えるあの筒島のほんとうの姿だ。

 それを知っているのは、水に潜ってここに近づくことがある者たち、つまり海女だけだ。

 まわりをめぐって泳いだこともあるから、その大きさは知っている。

 筒島の「根」の部分――海のなかに隠れている部分は、たしかに浜から見るよりもずっと大きい。

 けれども少し泳げばまわりを回れてしまうぐらいだから、たいした大きさではない。

 それでも、水に潜ってこの島の姿が見えてくるたびに、それが得体も知れず大きいと感じてしまう。

 それは、たぶん、ここに神様がいらっしゃるからだろう。

 筒島の裏側の、浜から見えないところまで回りこんで、相瀬は真結に浮き上がるように合図した。

 島に近くても足は着かない。足をかけられるところがないわけではないが、尖った岩ばかりだから迂闊うかつに足などかけないほうがいい。

 立ち泳ぎをしたまま、真結は荒い息をしている。

 相瀬は、真結にそのまま立ち泳ぎしているように合図して、自分は水に潜って島のまわりを一周した。

 用心のために、島を回って確かめてみる。

 不届き者が島に隠れていて、海女の娘組の者たちを待ちかまえているかも知れない。また、不届き者でなくても、難船者が泳ぎ着いて島で助けを待っているかも知れない。

 ほんとうは、真結も潜ったままいっしょに島を回ったほうがいいのだけれど、まだ次の頭になるように言われた次の日だ。しかもこの先も重い仕事が待っている。無理はさせられない。

 水の下から見えるところには怪しい気配は何もなかった。

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