荒磯の姫君(中)

清瀬 六朗

第1話 日暮れ方

 真結まゆいを次の頭にしたことをふさかや浅葱あさぎ麻実あさみに伝えたのは、次の朝、漁に出る前だった。

 みんなもう知っていた。もり大小母おおおばには昨日じゅうに伝えていたので、大小母が伝えてくれたのだろう。

 相瀬あいせが真結を次の頭に決めた告げると、みんな、そのあとだけ、改まって、揃って相瀬と真結に「よろしくお願いします」と頭を下げた。

 真結はあいさつのときにはびくびくしている様子だったけれど、それでも目を上げてみんなを見ていた。

 そのあとはふだんどおりに漁に出た。

 房も萱も、次の頭はいつかは真結に決まるものと思っていた様子だ。

 今日は相瀬がいるので、指図は相瀬がやる。真結には次の頭としての仕事はない。それに真結はまだけがが治ったばかりだ。重い仕事をさせることはできない。そういうときに真結を次の頭にしたのはよかったかも知れないと相瀬は思う。

 相瀬は昼過ぎからずっと空模様を見ていた。

 今晩、月が出るか、隠れるか。

 海女組の頭は、ほんとうは先の天気がわからないと務まらない。

 でも相瀬にはまだそれができない。去年、急に頭になったのだから、しかたがないと思う。

 日暮れ方まで晴れていた。昼過ぎからは雲が増えてきたけれど、雲はそれ以上に育ちそうにない。東の海の上の夕焼けを見ると湿気しっけているのは感じる。でもいちめんの曇りにはならないだろう。

 月は出るだろうと相瀬は決めた。

 相瀬は真結を連れて自分の家に帰った。

 祭礼のあいだ、真結には相瀬の家に泊まるよう言ってある。

 相瀬の家は真結の家より狭い。「真結の家」の一よりたぶん狭い。

 だから真結をそこに泊まらせるのは恥ずかしいし、真結には不便をかけると思う。

 ただ、相瀬は祭礼のあいだは夜はずっと参籠さんろう所にいる――いることになっている――から、寝る場所が狭すぎるということはないだろう。

 ほんとうは、真結がどんな顔で寝ているのか、横に並んで寝て見てみたい。でもそれは参籠が明けてからの楽しみにとっておこうと思う。

 だれかといっしょに家に帰るというのはもう何年ぶりだろう。

 相瀬が海女として海に下りたときにはもう母は海女をやめていた。父は漁師だったので、漁のある日は、漁が終わったあと、浜で漁師たちといっしょに飯を食べてから帰って来た。

 だから、相瀬が、だれかといっしょに浜から家に戻るのは、相瀬がまだ子どもで、海がまだただの遊び場だったころ、母に連れて帰ってもらっていたとき以来だ。

 子どものころ、相瀬は浜で遊ぶのが好きだった。一日浜で遊んでいて、夕方になるといつも母に連れて帰ってもらっていた。母が漁に出ている日はその帰りに、そうでない日は家から連れに来てくれていた。

 連れて帰らないと相瀬はいつまでも遊んでいそうだったから、だろう。

 房や萱とも浜で知り合った。

 でも、真結に初めて会ったのは相瀬が海女になってからだった。真結は浜から離れた屋敷町の育ちだったから、小さいころには浜には来なかったのだ。

 だから相瀬は真結の小さいころを知らない。いまと同じような若い女の姿でいきなり現れた。

 相瀬は、そのとき、自分がどう思ったか、よく覚えている。

 「大人っぽい子」

 ――背は真結より房のほうが高かった。でも、房にはまだ子どものころの感じが残っていた。いまでは澄ました顔をすると大人びて見える萱も、そのころはまだどこかにあどけなさが残っていた。

 だから、真結を見て、こんなふうに大人っぽくなれたら、と、そのとき相瀬は思った。

 その真結といま同じ家に帰る。自分の家に帰る。

 くすぐったい。

 真結はお客様なので、先に井戸で水浴びをしてもらう。

 相瀬はそのあいだ一つしかない部屋のなかで横になっていた。

 そんなことをすれば畳もない床が塩と砂でざらざらになるのだけれど、相瀬はかまわない。ほうっておいても風が塩や砂を巻き上げてくるのだから。

 真結が寝るときに気にして、掃いたり拭いたりしてから寝るだろうか?

 考えると笑いが湧いてきた。

 真結がいっしょに家に来てくれることで、胸のあたりのこわばりが取れたように感じる。いままでだれもいない家に帰ってくるときにはそんな感じをいつも感じていたんだな、と思う。

 これまで気にしたことはなかったけれど。

 では、真結にはずっとこの家にいてもらったほうがいいのか。

 そうも行くまい。

 同じ村にいるのに、真結を親許から引き離すわけにも行かない。真結は手習いもしているから机も手習いの道具も必要だし、家財も多い。この小さい家はそれだけでいっぱいになってしまうだろう。

 それでも、真結がずっとこの家にいてくれれば、と考えただけで、笑いがこぼれてくるのを、相瀬は心地よいと思う。

 これまで取りはずしていた障子はつけ直したので、真結がどんなふうに水浴びしているかは部屋からは見えない。

 あの姫様はあの小さい井戸で水浴びしているのだろうか。

 いまはそのことはあまり考えたくない。

 姫様を思い出すと、あの「鬼党きとう」というのを思い出さなければいけない。

 口に出しただけで村の全部がひどい目に遭うというのだ。そんなものについて考えるのは、いまは億劫おっくうだ。

 真結が開いている障子から顔を覗かせた。

 「お先でした」

とあの細い声で言う。髪はよく拭いているけれど、耳の上の髪の弛んだところから水が滴っている。濡れた黒い髪がきれいだ。

 浅葱や麻実の黒髪を見ると、自分の髪が疎ましく思うことがあるけれど、いまの真結を見ると、自分が真結と同じ髪でなくてよかったと思う。

 自分の髪と同じなら、真結の髪をこんなふうに見ることもないだろうから。

 「うん」

と言って相瀬は体を起こす。真結は相瀬が部屋から下りるまで待っていた。

 だから、相瀬は、部屋を下りるときに真結に告げた。

 「今晩、呼びに来る」

 「え?」

 とまどった真結の顔がかわいらしい。

 「夜中にやることがあるんだ。だから先に寝ておいて。たぶん寝てないときつい」

 「あ、ああ」

 真結はまだ言うことが見つからないらしい。相瀬が水浴びするために下に下りてから、真結は振り向いて言った。

 「でも、相瀬さんは? 相瀬さんは参籠中だから寝ないわけでしょ?」

 「わたしは慣れてるから」

 言って、笑う。

 「真結だって、来年は慣れるよ。今年はまだ初めてだからね」

 「うん……」

 あまり納得しているようではない。自分に才がないから、先に寝るように言われたと思っているのかも知れない。

 相瀬は頷いて見せてから水浴びに行く。

 「あの」

 後ろから真結が声をかけた。

 「うん?」

 「それって、次の頭の仕事……?」

 中途半端まで言って、首を傾げている。

 だから、相瀬は笑って言ってやる。

 自信のありそうな口ぶりで。

 「そうだよ」

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