2-10 始まる絆、消えゆく絆

「やっぱり、ここでしたか」


 陽向ひなたの突然の登場に、私は何も言えず呆然としていた。同性愛のことを彼女に知られたら困る、そもそもここで私が希和まれかずと会うことは誰も知らないはずだ。


 しかし希和は、陽向の乱入に納得しているようだった。

「陽向さん、お願いだ」

 縋るような希和の言葉。陽向は頷くと、希和と入れ替わるように私へ歩み寄る。


「ヒナ、ちゃん」

 まだ間に合う、どうして泣いているのかごまかしさえすれば、知られないで済む。

 しかし私は言い訳なんて思いつかないままで、陽向はすぐ隣へと来て。


 ぎゅう、と。

 何も言わず、抱きしめてくれた。


「ヒナちゃん……?」

「大丈夫だよ」

 陽向は私に言い聞かせながら、背中をさすってくれた――お母さんみたいに、優しく、温かく、痛みを溶かすように。


結樹ゆき先輩が好きだってこと。女の子が好きだってこと。気づいたんだよね」

 びくり、肩が震えてしまう。私が希和に訴える声が、陽向にも聞こえていたのだろう。けどその声音に、忌みも責めも哀れみもなくて。


「そうだって考えてなかったから、怖いんだよね」

 強ばった体と心を、ほぐすように。陽向の手と声が、柔らかく沁みこんでいく。


 そして。

「けど、大丈夫だよ。私も同じだから」

 欲しかった言葉が聞こえて、くらりとする――受け取った意味で、合っている?


「ヒナちゃん、も?」

 陽向は頷いてから、私の頬へ指を添えて、労るように涙を拭う。

「そうだよ。私も、女性を愛する、女性だから」


 待っていた言葉、探していた出会い。

 それがこんなに早く差し出されたことを、私が実感できないうちに、陽向の言葉は続く。


詩葉うたはさんは、何もおかしくない。私たちは、何も間違ってない。

 君には、私がついてる。だから、大丈夫」


 昼間からずっと、全身に張り詰めさせていた緊張が、すっと抜けていく。

 寄りかかるように陽向に縋りつくと、しっかりと抱きしめ返してくれた。


 ――君が一緒なら、絶対に大丈夫。


 誰が私たちをどう形容しても、誰が許さなくても、どれだけ認めてくれなくても。

 その痛みの全部を陽向と分かち合えるなら、そのたびに私は前を向ける。


 胸を張れる場所が世間になくても、陽向が居場所になってくれる。


 それに。陽向となら、同じ立場で恋ができる。結樹に向けてきた、行き場のない感情だって、陽向なら受け止めてくれる。応えてくれるとは限らないけど、真剣に向き合ってくれるに違いない。


「……よかった、ヒナちゃんが、いて」


 神様はいるのかもしれない、久しぶりに思った。

 きっと周りよりも悩むことの多い、恋の形なのだろうけれど。

 こんなに素敵な仲間と出会えたことは、どれだけ恵まれたことだろう。どれだけ誇らしい運命だろう。


 不安と動揺で流れていたはずの涙は、安堵と親愛が混ざって、さらにとめどなく溢れていく。感情のブレーキが壊れて、どこまでも。

 そんな私を、陽向はずっと抱きしめてくれていた。


「だから今は。詩葉さんが落ち着くまで、泣いていいから」


*


 涙が落ち着いたところで、洗面所で顔を洗う。目は腫れてひどい有様だったが、私にとって珍しいことじゃない。親に言われても「先輩とのお別れが辛かった」とか言っておけば済むだろう。


 教室に戻る。陽向と希和は残っていたが、二人の間の空気はどこか尖っている気がした。何か争ったのか気になるが、原因が私にあるのは察している、さすがに聞けない。


「僕、先に帰ってようか?」

 希和に聞かれて、しばし考える。確かに今、彼のそばにいるのは気まずい。間接的とはいえ、失望を味わわせたばかりだ。

 しかし今の私は、動揺を引きずって注意力散漫になっている。人混みの中をひとりで帰るのは気が引けた。


「……一緒にいてくれないかな」

「そっか、分かった」

 希和の返事は、やけに平坦だった。まるで感情の置き場が分からないような。


 すっと、陽向が私の前に立つ。私に背を向けて、希和との間に割り込むように。

「希和さん、念を入れさせてもらいますが。私たちがレズビアンであることは、」

「誰にも言うな、でしょ?」

「はい」

「分かってるよ。内心は分からないけど、部外者が何やったらダメかってのは知ってるつもり……勿論、陽向さんが気になることあれば言ってくれればいいし」


 希和は授業以外でも広く知識を入れている人だ、同性愛の知識だって私より持っているかもしれない、それは良い。ただ、彼が自身を指した「部外者」という響きには悲しい説得力があった。私と彼を隔てるものが、また増えてしまった。


 陽向は私へと向き直って、手を取って語りかける。

「じゃあ、詩葉さん。何か不安なことがあったら、すぐ私に言ってください。何があっても私が味方ですから」

 何か違和感があると思ったら、陽向はさっきのタメ口から普段の敬語に戻っていた。それが普通なんだけど、もう敬語だとしっくりこない。

「うん、ありがとうねヒナちゃん」

 とはいえ。周りからしたら、仲良しの先輩後輩という関係のままなのだ。これまで通り、を心がけよう。


 帰りが逆方向の陽向を見送ってから、私と希和も帰路につく。これまでにないくらい、無言の時間が長かった。確かめたいことは山ほどあるのに、口に出したら傷つけ合うだけになるとお互いに分かっていた。


 今日の電車は混んでいた。希和はいつも通り、壁際を私に譲って、他の乗客から私を遮る位置に立ってくれた。

 私の彼氏になる可能性がほとんど潰えたところで、気遣ってくれる姿勢は変わらないらしい。ありがたいけど、今は罪悪感だって募る。


 彼が私を好きだ、その前提から間違っていればいい、私の思い上がりであればいい。異性への恋愛感情が当たり前なんかじゃないって、自分で分かったばかりじゃないか。

 恋心があったとしても、静かに諦めてくれればいい、私に期待できることなんて無いともう分かったはずだ。私も結樹を友達とだけ思えるように頑張るから、君もこの関係を守ってよ。


 もし、それでも好きなんだと告白されでもしたら、お互い傷だらけだろう。彼を傷つけると分かって拒絶を突きつけるなんて、私が平気で出来るはずないし、彼だって屈辱だろう。罪悪感なんて、私が一番背負いたくないものだ。


 お願いだから、静かに諦めて――そんな本音が頭に渦巻いて、けど言えるはずなくて、顔もまともに見られない。


 私がよほどフラフラとして見えたのか、希和は家の近くまで送ってくれた。


「ごめんね、遠回りさせて」

「いいよ。今日、一番大変だったのは詩葉さんだし」

「うん……けど、これからはそんなに心配することないよ。ヒナちゃんがついててくれるから」

「そう……そうだよね、陽向さんが全部、何とかしてくれそう」


 その言葉の裏。僕には何もできない、という自嘲が見えてしまう。

 見過ごせなくて、けど掛ける言葉に迷う。もう私は、ストレートな親愛を彼に贈れる立場じゃない。


「ねえ、まれくん」

 出てきたのは、耳触りこそいい、けど卑怯さを孕んだ言葉だった。


「君が友達でいてくれて。今日の私は、本当に助けられたんだよ」


「……なら良かったよ。じゃあ、また」


 私の返事を待たず、彼は踵を返した。


 彼は私を詰ることも蔑むこともなかった、今日だって最後まで気遣ってくれた。


 それでも。越えられそうにない深い溝が、私たちの間に刻まれたのは分かった。彼が積み重ねてきた誇りが崩れかけているのも分かった、それが私の所為でもあることも分かった、けど私にはどうにもできない。結局は彼の問題だ、彼が区切りをつけられないなら溝は広がるしかない。卑怯でも、薄情でも、それが私の限界だった。なりたくない冷たい人間に、とっくに私がなっている、思い知るしかなかった。

 

 積もる時間で、少しでも溝が埋まってほしいと、祈るほかなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る