2-9 そして世界が、崩れだして

 コンクール翌週の月曜日。

 前顧問である海野うんの先生からのお手紙の紹介、コンクール演奏の振り返り、三年生への色紙の贈呈……といったセレモニーを経て、晴れて三年生は引退した。


 寂しくてたまらない、けれど。先輩たちへの感謝も愛情も、ちゃんと伝えられた。先輩たちからも、嬉しい言葉をちゃんともらった。全力で私を「先輩」として送り出してくれた、だからここからは頑張るだけだ。


 輝きの余韻が徐々に覚めて、これからに向き合おうとしていたときのことだった。



 その夜。早くも明日から始まる新体制での練習に備えて、余計なことはせず寝ようとしていたら、結樹ゆきからメールが来た。「明日の昼休みに話がある」という、シンプルな要件。そもそも結樹のメールはいつもシンプルだけど……いや、私が脱線しすぎるのか。

 恐らく、部長としての振る舞いについて、私に言っておきたいことでもあるのだろう……と解釈して、すぐに了承を返す。結樹に頼られるのは嬉しいし、部長をフォローするのは部員の役目でもある。


 そう楽観的に考えていたのだが。


 翌日。私の教室に来た結樹は、見たことない表情だった。四年以上、私が誰よりも意識して見てきた顔なのに、記憶のどれにも当てはまらない。必死に何かをこらえて、今すぐ誰かに預けたい、そんな切迫した顔なんて今までに一度も。

詩葉うたは、こっちいいか」

「……うん、いいよ」


 人目のない、さも密会に適していそうな廊下へ。男女で連れ立っていたら明らかに噂になりそうな状況だな、なんて現実逃避しながら結樹に手を引かれ。


「……ここでいいか」

 結樹が立ち止まる。壁にもたれながら私の方へ向いた結樹は、もう洟をすすり上げて、目元には涙を光らせていた。つまりは泣いている、ということだ。


「――結樹?」

 

 しばらく、目の前で起きていることが信じられなかった。

 結樹は泣かない人間だ――いや、小さいときは泣いていただろうし、今だってよほど痛いことがあれば泣くだろう。けど、怪我も病気もないときに、精神的な理由で人に涙を見せる人じゃない。出会ってからこれまで、それは確かな実感だった。誰にどんな敵意を突きつけられても、毅然と立ち続ける人だった。


「ごめん、こんな顔で」

「ううん……何か嫌なこと、あった?」

「嫌っていうか……時間ないし本題言うけど、」


 耳を塞ぎたかった。

 逃げだしたかった。


 ずっと目を背けていたことから、とうとう逃げられなくなりそうだった。


 けど、時間は止まらない。結樹は答えを突きつける。


「昨日、真田さなださんに告白して、ちゃんと振られてきた……納得してるし、言えてよかったけど、やっぱりキツくてさ。

 今だけ、詩葉に甘えさせて」


 その瞬間に心に湧き上がった感情。

 喉からせり上がって、腕を走り抜ける激情。


 悲しい、だけじゃない。

 可哀想、はもっと違う。


 憎いんだ。

 私は初めて、結樹を憎いと思ったんだ。


 真田先輩が結樹を振ったこと、じゃない。

 結樹が真田先輩に――私じゃない、男に。

 恋したこと。望みがないと、傷つくと分かっても伝えてしまえるくらい恋したこと。理屈で納得しても心が追いつかないくらい、人前で泣いてしまうくらい、恋したこと。


 私との関係では起こるはずのない強い感情が、他の男となら現われてしまうこと。

 他の男に向ける執着が、私への友情よりもずっと強く深いこと。


 悔しい。

 認めたくない。

 許せない。


 それは、どうして?

 友人が失恋を慰めるなんて当たり前の構図が許せないのは、どうして?


 簡単な答えだ。

 私からは、もう友情じゃないからだ。恋だからだ。


 私が結樹に向けるもの、結樹が真田先輩に向けるもの。

 それらが同じはずなのに、結樹にとっては後者しか見えていないからだ。


 やっと分かった。私は結樹に恋していたんだ。女の親友に、どうしようもなく恋しているんだ。


 恋だと分かった上で。

 大事な男性を、希和を、結樹の代わりとして想えるか、自問してみる。


 ――何度も確かめた通り、答えは否だ。結樹に抱く想いと、希和に向ける想いは、根底から違う。


 つまりだ。

 私はずっと、女性に恋していた。男性への恋なんか、体と心のどこにもない。疑いようもなく、同性愛者だ。


 ほんの一瞬で、全部、分かった。

 違和感の全部に、納得がいった。

 

 同時に。


 バレたら、今の生活全部、壊れちゃうんだな、と気づく。

 結樹だけじゃない、陽向ひなたもそうだ。部活やクラスの女子、みんな。女どうしだから、性愛なんて絡まないから、どれだけ近づいたところで体の一線を越えるはずないから、あんなに気軽に接してくれるのだ、怖がらずに親密にしてくれているのだ――そんな女性がそばにいていいと私が思うのだって、私がそっち側だからだ。

 私だけは例外で、ずっと欲情を抱えてきたなんて知られたら、誰もそばにいてくれなくなる。それは今の人間関係が根こそぎ消し飛ぶのと同義だ。


 ――絶対に、知られちゃいけない。


 自分と結樹の本心を一気に突きつけられたショックで、結樹に返事することもままならず、ただ涙が流れていく。結樹は私が泣いているのを、自分への同情だと解釈したのだろう。

「……だから詩葉が泣いてどうするんだよ」

 結樹の手が私の頭に乗って、そのまま抱き寄せられる――ごめんね結樹。あなたが私に触れる意味が、私があなたに触れたい意味とは全く違うんだ。


 それでも、私は「友達」を演じなきゃいけない。


 まるで慰めるかのように、結樹の背中を手でさする。いつか結樹が泣いている私にしてくれたみたいな、優しい触れ方を意識しながら。

 本当は、制服の下まで触れ合って、あんな人なんていなくても私が誰より愛してあげるからと伝えたかった。


 けど、いま言わなきゃいけないのは、そうじゃない。


「結樹には、私たちがついてるからね」


 それだけ、なんとか言えた。「うん、ありがとう」とか結樹は言っていた気がする。


 しばらくそのまま寄り添って、離れて。


 結樹はもう、晴れやかな顔をしていた。失恋の痛みを親友と分け合って、また前を向けた、そういう顔だ。


 その親友が自分に失恋したばかりなんて、きっと想像もしていない。あまりにも片想いが過ぎて、胸が詰まる。けど苦しい以上に、悟られていないことに安心した。



 午後の授業にも、部活にも、全く集中できなかった。自覚した瞬間に私の態度が変わって、みんなに怪しまれるんじゃないか、そればかり気になってしまった。


 その中で、今できることを必死に考えて、ひとつだけ思いつく。


 希和まれかずには言おう。

 彼になら知られてもいい。私が女性を愛する人だと知ったところで、彼が私を恐れる必要なんてない。元から私は、彼にとって無害そのものだったはずだ。

 今までだって、綺麗じゃない一面まで見せてきたんだ、後ろめたい感情だって打ち明けてきたんだ。それでも彼は友達でいてくれた、なら今回だって大丈夫だ。


 けれど。

 彼がそれだけ私を大事にしてくれたのは、私を女性として愛しているから、じゃないのか。

 私が同性愛者だと打ち明けることは、彼に失恋を突きつけることにならないのか。彼は傷つくんじゃないのか。


 ――それでも、いいじゃん。


 だって希和は、普通に異性に恋できる男性じゃないか。

 私がいなくたって、またいくらでも相手が見つかるじゃないか。異性への好意と警戒を天秤にかけることもなく、ままならない身体に振り回されて生きることもなく、あれこれ気にしないで生きていける側じゃないか。

 

 それに君は、こういうときこそ、大事な人を受け止めたいと願う人でしょう。


 心の片隅で、それは卑怯だと咎める声がする。実際、褒められた選択じゃないのは分かる。

 けど今は、これしかなかった。


 練習が終わり、希和を追いかける。


「まれくん」

「……どう、したの?」

「どうしても、聞いてほしいことがあるから。教室、来てくれるかな」

 君は絶対に断れない、分かっていた。

「分かった。すぐ鍵返してくるから、先に待ってて」


 幸い、教室には誰もいなかった。

 座って希和を待ちながら、結樹に「先に帰っていて」と連絡を入れておく。今は少しでも離れていたかった。


「ごめん、お待たせ」

 心配でいっぱいの希和が現われて、そこで我慢も限界だった。


 みっともなく泣いて、震えの止まらない喉で、まとまらない言葉を彼にぶつける。聞き取るのだって難しいだろうに、彼はずっと耳を傾けてくれていた、と思う。だって彼の顔なんてまともに見られなかった、けど短い相槌は離れなかった。


 結樹から、真田先輩を巡る恋の顛末を聞かされたこと。

 頼られて嬉しいはずなのに、結樹が許せなかったこと。

 自分の本心に、結樹への恋にやっと気づいたこと。

 自分は女性しか愛せないらしくて、それを周りに知られるのが怖くてたまらないこと。

 同性を愛する心と、どう向き合えばいいか分からないこと。


 まずは全部、話したつもりだ。自分でも何を言ったか分からないほど、ぐちゃぐちゃした頭で、だけど。


「まずは、さ。自分のこと、認めてあげよう」


 彼の声。大体は伝わってくれたらしい、助けてくれようとしているらしい。

 けどその声は、随分と弱々しく震えていた。


 そうだよね。

 君は、受け止めて、認めるしかできないからね。

 どれだけ頑張っても、私の悩みの根本は解決できないからね。


 私が本当に欲しいのは、同じ立場の女性だ。同じ目線で悩んで、励ましあって、上手くいけば結ばれるかもしれない人だ。

 けど、そんな簡単に見つかるはずない。日本にだって探せば大勢いるはずだけど、私がいま会いにいける人たちじゃない。


 希和はそのことまで理解している、自分の限界まで思考が至っている。だからひどく、自分を呪っているかもしれない。何もできないと自分を苛んでいるかもしれない。


 けど、今は君しかいないんだ。

 君が望んだ形じゃないのは知っている、君にあげられる見返りなんかないのも分かっている、今日ではっきりと諦めがついた。君に恋できたらいいな、なんてもう望めやしない。

 それでも、私のそばにいてほしい。大人になって、本当に愛を探しにいける日が来るまで、崩れそうな今を一緒に支えてほしい。


 希和が深く息を吸って、私を見つめる。彼なりの結論を、私に差し出してくれる。


「僕は――」


 扉が開く。


 ぎょっとして目を向けると、一番来られたら困る人がいた。


「やっぱり、ここでしたか」


 現われたのは陽向ひなただった。

 私にあれだけ気を許して、慕ってくれた陽向だった。


 女子どうしの、何もかも預けられる関係性。それを一番に守りたい彼女だった。


 


 

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