2-8 最後に、最高の

 当日、本番直前。

 前の高校の演奏を聴きながら、私たちは待機していた。転換をスムーズに行うために、リハーサル室ではなく舞台袖で待機することになっている。他校の本番を邪魔しないよう、会話も練習もできない静寂の時間だ。


 自分の世界に入りこんでいる人もいれば、ステージでの演奏を味わっている人もいる。私はというと、ずっと陽向ひなたと手をつないでいた。目を合わせることも笑い合うこともなく、けどお互いの存在をそばで感じて、暴れそうな心を落ち着けていく。


 聴きなじんだ課題曲が終わり、初めて聴く自由曲へ。詞を意識すると気が散りそうだったので、周りに意識を向けてみる。

 緊張で固くなっているらしい沙由さゆの背を、香永かえが優しくさすっている。奏恵かなえ先輩はいつも通り、真田さなだ先輩のすぐ隣に。結樹ゆきはじっとステージに目を向け、自分たちの演奏をイメージしているようだった。


 男声の方に目を向けると、希和まれかずと目が合った。

 ひと目で、不安と緊張と戦っているのが分かる。膝だって震えているかもしれない。

 希和は、自分のせいで誰かが傷つくことを恐れすぎる癖がある。自分の善意や熱意から始まった行動で誰かが傷ついてしまったとき、ひたすら自分を呪ってしまう。そのくせ、人と積極的に関わる生き方を続けているから難儀なのだが。

 そして希和の入部は、去年のコンクールの後。つまり二年生でありながら、コンクールは初めてなのだ。平静でいられないのも、無理はない。


 君が怖がりなのは知っている、そんな所は私と似ている。

 けどそれ以上に、君が頑張ってきたことを私は知っている。私が頑張ってきたことを君が認めてくれたのと、きっと同じように。

 だから君が疑うぶんまで、私は君を信じているから――念じながら、精一杯の笑顔。同時に彼も、小さく頷いていた。励まそうとしたときには励まされている、ずっとそんな間合いでやってきたのだ。


 そして、前の高校の演奏が終わり、残響と入れ替わるように拍手が響く。

「さあ、いよいよだよ」

 松垣まつがき先生が小声で合図して、整列する。高音部ほど下手側で歌うので、バスが最初だ。福坂ふくさかの背中をそっと希和が押して、雪坂高校合唱部の本番が始まる。


 各パートごとに固まっての横一列。パートの横端にいる人は別パートの音が混ざりやすいため、実力者が初心者を挟むような配置になる。アルトの隣は由那ゆな先輩、次いであき、陽向、私、沙由の順だ。両隣の一年生を私がフォローできるように……という並びは緊張するけれど、二人とも心強い仲間でもあるのだ。


 最後に松垣先生が入場し、客席へお辞儀。今回は二曲ともアカペラなので、伴奏者もいない。

 先生の瞳が部員たちをなぞって、両手をかざす。拍を取り、一斉に息を吸い。


 そこからは夢のように、あっという間だった。


 数ヶ月、何千回かけて体と心に刻んできた詩と旋律。

 越えるべき壁だったけど、焦りと悩みの種だったけど、やっぱり大好きなんだ。

 歌は、言葉とメロディーと和音は、人が積み上げてきた文化の輝きで、誰かの努力と想いの結晶なんだ。

 それが今、私たちの努力と想いと絆を乗せて、ここで響いているんだ。


 磨いてきた技術と、何度も頭にすり込んできた理屈に支えられて、心はどこまでも素直に体を歌わせていく。


 この曲に出会ってからの時間の中で、今が一番、誇らしい。

 その実感を胸に、歌い続けていた。

 みんなを聴いていた、みんなと通わせていた、みんなで重ねていた。


「私なんかこのまま死んじゃえ、とか思っていたよ」――そう過去を語っていた喉が、ホールを美しく駆け抜けるメロディーを響かせる、由那先輩のソロ。

 その歌に導かれるように、支えられるように、送り出すように、自由曲のクライマックスへ向かっていくソプラノ。


 この曲は、最後に最大の盛り上がりが待っている。

 体力も気力も使い切ろうとするとき、一番の踏ん張りどころを迎える。


 その音は、揺るぎなく響いていた。全員分、余さず、届いていた。


 客席からの拍手を、夢見心地で受け取りながら。


 先輩たちと歌うの、これで最後なんだな、という実感が今さらになって込み上げる。


 泣くな、まだ泣くな、詩葉。

 言い聞かせながら、一旦会場の外に出ると。


「みんな、みんなあ……良かった、すごく良かったあ!」


 松垣先生が真っ先に泣き出して、それでもう我慢できなくて、しばらく記憶もぐちゃぐちゃだった。



 結果は金賞だった。

 念願が叶ったこと、華々しい成果が出来たこと、以上に。

 

 全部が終わった後、会場の外で喜び合う仲間の姿が、嬉しくて仕方なかった。

 久しぶりに会う卒業生たちも一緒に。立場も背景も違う人たちどうし、純粋に誇りを分かち合ってお互いを讃え合う、その景色の眩しさが心に焼きついていた。


 これが最後、なのは寂しいけれど。ずっとこうやって歌っていたいけれど。

 最後にみんなで創るとしたら、この音楽しかなかった、この景色しかなかった。


 

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