2-7 本番、前夜

 コンクール前夜、私のメンタルはかなり弱っていた。

 学校での直前練習はいい雰囲気だった。一年生も加わって四月から重ねてきた成果をみんなが実感していたし、合唱全体の仕上がりも上々だった。部員それぞれがやる気に満ちて、先生も誇らしそうだった。


 けど、私は課題だった部分を最後まで克服できなかった。歌っているときは手応えを感じていたものの、松垣まつがき先生にこっそりと「まだちょっと音が低い、あと一歩」と指摘されていたのだ。きつい言い方じゃなかった、むしろ明るく励ますような口調だったけど、どうしてもその裏の焦りを勘ぐってしまったのだ。


 コンクールの評価は三段階。上から金・銀・銅賞で、金賞のうち上位の数校が次大会に進出する。銅と聞くと表彰台が思い浮かびそうだが、言ってみれば下位層である。


 雪坂合唱部は以前、銅賞が恒例だった。しかし前年、部長である和可奈わかな先輩が優秀な指導者だったこと、陽子ようこ先輩たちの代が実力派揃いだったことが功を奏し、久しぶりに銀賞シルバーを受賞。快挙として大いに湧いたし、応援に来ていた希和まれかずが入部を決めたのでさらに盛り上がっていた。


 そして今年は、さらに金賞ゴールドに手が届くか……という期待も芽生えている。

 去年に退職された前顧問の海野うんの先生も、社会科担当ながら良い指導者だった。人生の大先輩としても素晴らしい人だった。しかし音大卒の松垣先生の指導は、やはり根本から違う。新入生の伸びも例年以上だ。

 陽子先輩たち三年生がかける想いも、去年とは比べものにならない。あまり詳しく聞いてはないけれど、辛い人生を音楽に救われてきた人たちなのだ。音楽で自分たちの価値を証明する、その情熱は強く燃えている。


 だからこそ、私が足を引っ張ってしまうのが怖い。

 こんなに素敵で、こんなに努力を重ねてきた人たちの成果を、私が台無しにするのが怖い。


 合唱部に入ったときから分かっていたつもり、なのに。今さらになって緊張で雁字搦めだ。もう歌えない時間なのに気持ちは落ち着かず、何度も楽譜を見返している。自分を導くために書いた文字も、今は越えるべき壁のようだった。


 そうして、無為に時間を過ごしていた頃、携帯が鳴った。私を含め、まだスマホではなくガラケーを使っている人も若干いるので、合唱部での連絡はメールが主になっている。

 陽向ひなたからだ。いつも頻繁にやり取りしていたが、今回は随分と長い。


 *


 件名: きっと緊張している先輩へ


 お疲れ様でした、さすがにもう寝ちゃってはないと思うんですが……や、寝ちゃっていたならそれはそれで良いんですけど。


 今日の詩葉うたはさん、いつも以上に緊張してそうに見えたので。

 大丈夫だって、言いにきました。


 去年、初めて会った日のこと覚えてますか?

 市立高校合同演奏会で、終演後に詩葉さん(飯田いいだ先輩もいたらしいですが)に声をかけに行った日のこと。

 私はあの日、特に目当てのクラブがあった訳じゃなくて。通ってた学校が嫌で、エスカレーターでそのまま高校に行くのが嫌で、代わりに進む高校探しの一環、もっと言えばただの気分転換だったんです。雪坂の評判がいいのは聞いていたので、候補の一つではあったんですけど。


 ステージで歌う皆さんの、というか詩葉さんの表情が、あまりにも眩しくて。

 それだけじゃない、お互いを映すひとりひとりの瞳が輝いていて、ああ、この人たちはこの場所が大好きなんだなって分かったんです。

 そんな気持ちになれる場所があるのは、とても……信じられないくらい、羨ましかったんです。私はここに行くんだって、迷わずに決めちゃうくらいには。

 実際に飛び込んでも、その予感は少しも間違っちゃいなかった。期待していたよりもずっと、素敵な人たちばかりで、夢中になれる瞬間ばかりでした。


 だから。今の私がこんなに楽しいのは、あなたのせいなんですよ、詩葉さん。

 自信持ってください。あなたが思う以上に、あなたは輝いています。輝きを増し続けています。

 技術だってそうです。出会った頃よりずっと巧くなっていること、同じパートの人間としても断言できます。自分の歌声と全体のハーモニーに、ずっとひたむきに向き合っていたことも、その成果がちゃんと実を結びつつあることも、私はちゃんと知っています。


 だから明日は。ここにいる皆さんと歌えること、精一杯、楽しみましょう。

 私も、詩葉さんと一緒の舞台で歌えること、全力で楽しみにしてます。



「……もう、ずるいな」

 陽向の言葉が、すっと沁み込んでいく。彼女からの言葉なら気休めではなく真心だと分かるから、強く優しく胸に響いていく。

 完全に私が励まされる側だ、まるで陽向の方が先輩みたいだ。けど、それが心地いい。


 去年。上手くなろうとか、賞を獲りたいとか、もちろん考えていたけれど。それよりもずっと大きかったのは、人と歌が好きだという感情だった。頑張ればもっと好きになれるというときめきだった、実際にその通りだった。

 愛と歓びに導かれた努力、その先に成果があっただけだ。


 いつも通りに、好きを胸に。

 いつも以上に、みんなとの特別を感じて。


 体に馴染んだ音を、心に素直に響かせればいい。陽向の言葉で、思い出せた。


 返事を打ち始める。心境を綴ると長引きそうだったので、シンプルにまっすぐに。


「ありがとう、今この言葉を贈ってくれるヒナちゃんのことが大好きです。

 最高の舞台、一緒に楽しもうね」


 そして、もう一通。去年の部長で、今は大学生の和可奈先輩からだ。 


 件名: 合唱部のみんなへ


 〉こんばんは、最後の練習お疲れ様でした。

 もう部外者なくせして、本番前夜に連絡をよこしちゃう、ウルサイ先輩を許してください。

 

 さて。

 やれることはやり切った、後は万全の体調で本番を迎えるだけだ……

 みたいに思えている人も、いないことはないと思うんだけど。

 大体の人は、緊張していたり、そわそわしていたり、今から悔やみはじめていちゃったり、していると思います。わたしも三年間そうだったし、去年の今日はすごく不安でした。


 けど、一年経った今だから言えることがあって。

 みんなは、ちゃんと頑張ってきました。悔やむことも、心配することもないです。

 離れていても、そのはずだって私には分かります。


 だから今夜は、安心して、ぐっすり休んでください。何かやっておきたいって焦る気持ちも分かるけれど。体調の悪さっていうのは、考えている以上に簡単に、積み上げていた努力を裏切ります。だから、このメールのお返事もいらないです。


 みんなのこと、これ以上ないってくらいに大好きだけど。明日聴いたら、もっと好きになっちゃうんだろうなって思います。

 だからみんな、ひとりひとりが、歌ってきた自分のこと、ちゃんと好きになれますように。倉名くらなくんと一緒に、客席から祈っています。


 それじゃあ、みんな、また明日ね。



 女子部員とじゃれたり、男子部員をからかったりと遊びたがりな先輩なようで。いつも、部員みんなに目を配っていた人だった。キラキラとした笑顔を絶やさず、しかし完成度の妥協は許さない人だった。

 部から去った今、元部長として何ができるか、その葛藤と配慮がよく分かる文だった。自分の言葉なら後輩に響くという自負があったのだろう、そしてその自負は間違っていない。私だけじゃなく、直前にナーバスになっている人はみんな、和可奈先輩の言葉で吹っ切れたはずだ。


 よし、寝よう。

 歯を磨いて、肌の手入れをして、明日の荷物の見直しをして、ベッドに潜る。

 

 目を閉じて。あの子がすぐ隣にいて、手をつないで眠りに落ちていくのを思い描く。

「……大丈夫だよ。ね、ヒナちゃん」


 結樹は、いつか離れていってしまいそうだけど。

 陽向はきっと、いつでも一番近くにいてくれる気がした。友達以上、姉妹みたいな存在で私と過ごしてくれそうだった……そのうち、私の方が妹みたいになるんだろうけれど。


 大丈夫、きっと大丈夫。


 楽しかったことだけ、誇らしかったことだけ思い出しながら、意識はゆっくりと落ちていく。

 


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