『赤いきつね』の、……鋏についた七味唐辛子

前 陽子

『赤いきつね』の、……鋏についた七味唐辛子

「そんなもんばっか食べてー!」

 カップラーメンの蓋を開け始めると、必ず母はそう言った。

 わたしは素知らぬ顔で、ブルブル震えるやかんを傾ける。

「塩分多いんだからねー!」

 湯気の向こうから、次に母はそう言う。

 鍋敷きを乗せてスタンバイすると、蒸気が消沈した透明な隙間の中に母の顔がくっきり覗く。待ってる間は手持ち無沙汰というより、その動かぬ視線になぜだか気まずい心持ちになった。それでもわたしは、への字の母の口元を無視し、蓋がしなるのを無言で待つ。

「ご飯食べられなくなったって知らないよ! そんなもんばっか食べて栄養かたよたって知らないからね!」ってそろそろ言うことだろう。

 ホントは自分だって食べたいんじゃないのー? といつも思うが、それでもわたしは頑なに黙っていた。どう表現したら良いものか? 今になっても説明がつかないのだが、なんかマズイモノ? 身体に悪いものなのか? 胃袋にガッツーンと染み渡り、すっごく喉が乾く、……そんなモノが食べたかったのかもしれない。今風で言えば、ジャンクフードの類を欲していたのだと想像する。

 そう、駄菓子屋は禁止だったし、スナック菓子類はあまり買ってもらった記憶が無い。


 夕刻、部活を終えて帰宅すると、お腹が空いて晩御飯まで待ちきれなかった。

 中学生、食べ盛り、そして反抗期だったのだと今更ながらに思う。

 母は料理自慢の編み物上手で、典型的な昭和の主婦だった。

 丁寧に栄養やバランスなどを考慮して、豪華な晩餐ではなかったけれど一切合切の手料理をこさえてくれた。

 鍋を囲んでの一家団欒だったし、お兄ちゃんの誕生日には、お兄ちゃん好物の茶碗蒸しがどんぶりで、わたしの誕生日は海老グラタン、父にはローストビーフ、

春夏秋冬の旬菜は「ハツモノ食べると長生きできるんだよ!」と言って趣向を凝らした。ホットケーキもプリンも作ってくれたっけ。

 正月の準備は一週間も前から台所にこもりっきりだったし、親戚が一堂に会すと松花堂弁当の力作を披露した。遠足のお弁当も、せいぜいタコのウインナーとリンゴのうさぎくらいで当時はキャラ弁などというものはなかったが、薄焼き卵で包まったおむすびに、フルーツサンドがラップで包まれリボンが付いていたりした。

「美味しそう! いいなあ、みっちゃんのお母さんお料理上手で!」と友達からは良く羨ましがられたものだ。

 わたしの誕生日会は、ドライカレーに唐揚げチューリップ、ケーキやゼリーも

並んだ。おともだちはどうやら食べ物に釣られてきたのだと、大人になって気がついた。

「だってさあ、グラタン食べたのなんてみっちゃんちが初めてだったもんねえ」

「ドライカレーだってそうよ!」

「そうそう、ミックスベジタブルとか入っててさあ、びっくりこえたよ!」

「フルーツサンドなんて、今じゃ当たり前だけどさあ、俺、生クリームがあれから大好きになったもんよ!」と、幼馴染が言う。


 かれこれ50年以上も前の話だ。

 そんな料理に長ける母だったが、我が家には災害時用と称してインスタントラーメンや缶詰め類が備蓄されていた。父が消防署員だったせいもあるかもしれない。当時のカップラーメンは、確かに塩分濃度は高かったようにも思う。それに輪をかけて、我が家のエンゲル係数も高かった。

 兄が病弱だったからだと、記憶を辿る。……兄の部屋には入っちゃダメ! と言われた。聞かされてはいなかったが、結核だったのだと思う。

 その兄も来年は70歳になる。母の料理のおかげと言っても過言は無いだろう。

 わたしは年金受給者になった。


 7年前、いっとき重篤になった母が退院するのを見計らうと、わたしは両親を

呼び寄せた。高齢で古い日本家屋は住みにくい。階段で二階に上がるのも大変で、湯船に浸かるのもひと苦労だった。台所は北側で寒いし、庭の草むしりなんぞもう無理なハナシだ。

 わたしは門前の小僧ゆえ、料理は得意になった。

 重篤以来、持病の糖尿は悪化し歩くのもやっと、左手はほとんど効かなかった母とひとつ違いの父の料理番になった。『高齢両親の介護食』と題して、毎日3食フェイスブックにあげたりして、悦にもいっていた。6コーナーに分かれたプレートに、①みじん切りにした柔らかめの御浸し、②塩分少なめのお新香、③フルーツはお決まりで、④南瓜や里芋などの煮物、⑤ひじきや切り干し大根、⑥手前の真ん中のコーナーにはその日のメインを乗せた。他に汁物とデザート、昼食にはラーメンや鍋焼きうどんの日もあった。

 父は魚が好きだったので、夕餉には刺身を別盛りにする。

 母は反対に魚が嫌いだったから、手間は掛かったが中華やフライを作る。

 それに加えてわたしたちの夕飯の支度。わたしたちは晩酌するから更に酒の肴をこしらえる。冷蔵庫の中身を無駄なく、胡瓜一本だって三分の一ずつ異なる料理にさえした。献立を考えるのも盛り付けするのも楽しかったし、父が旨い旨いと言って食べてくれるのも嬉しかった。けれど、高齢故なのだから仕方あるまい、とは思いつつ、残したり食べなかったり日が増えてゆく。

 勿体無い! 時代のわたしは、両親の残り物を食べる日が多くなってゆく。そうは言ってもわたしも高齢なのだからと思うとやるせなくなり、いつしかやり甲斐が失せ、献立を考えると吐き気をもよおすときもしばしば、料理を作っていると意思の共わない涙が出て来るようになった。介護鬱というものだろう。

 主人は、「そんなもん捨てちゃっていいよ。自分が食べたいもの食べろや、僕も一緒でいいからね!」と励ましてくれた。

「もう、あんなわがまま無理だよー!」とキッチンで泣いていると、

「しょうがないだろ、老人なんだから。……自分達だって食べたいときもありゃあ、食欲がないときもある。急に食べたくなくなたりさっ、何だか無性に食べたいものが出てきたりさっ」と正当を言う。主人に励まされなだめて貰いつつ、元来、料理好きのわたしはそれでも懸命に、高齢両親の栄養を考え食べたいものを想像しながら邁進した。

 ところが、牡蠣の土手鍋にしたある晩だった。

「アタシは牡蠣なんて大嫌いなんだからね!」母が物凄い剣幕で怒った。

「アタシは鯵は干物とフライ以外は嫌いだし、桃も苺も好きなのはお父さんだから! カレーは大きいお肉は嫌だよ、ヒレカツは大好きだけどね!……」

 目から鱗とはこう言うことだろうと思った。

 牡蠣鍋は冬になると良く登場したメニューだった。そういえばうちのカレーは毎回二種類あった。大きいお肉とひき肉(もしくはコンビーフ)のカレーだ。牡蠣は父の好物で、大きいお肉は兄が食べられなかった。

 母は自分の好物を後回しにし、父、兄、わたしの好きなものばかりをこさえてくれていたことを、還暦前に初めて知ることになる。成人して独り立ちし、何十年も経ってから食を共にするということは、新鮮という感情ではなく、初めての経験になるのだ。いくら親子でさえ、知らない、聞かされていなかったことがあるものだと、叩きのめされたかのようだった。

 それからというものわたしは母の苦労を偲び、妻として親としての愛情を悟り極力ふたりの嗜好に即した『高齢両親の介護食』を率先する。

 しかしそれも束の間、父が風邪を拗らせ肺炎で亡くなった。

 母は次第に元気を失くしてゆく。食は細り、糖尿は薬でどうにか持っていたがインシュリンを勧められると、「もう死んでもいい歳だからそんなもんしたくありません」と言って医者を困らせた。

 その頃だろうか。

「食欲がないとき食べたいものは?」と訊ねると、

「『赤いきつね』がいい!」と言う。

 父は『緑のたぬき』派で、大晦日は二人で『赤と緑』を食べていたらしい。

「今の技術じゃあ塩分だって控えめだし、出汁だって揚げだってとっても美味しいのよ!」

 そう聞いてから、母用の赤いきつねは常備食になった。

 風邪っぽいとき、汁物が欲しいとき、食欲がないとき、……わたしの支度の労力も加味してくれたのだと思うが「今日は『赤いきつね』がいい!」とオーダーが入った。



 コロナ禍の真っ只中のど真ん中、……母がコロナに罹る。

 91歳、高齢で糖尿病。

 わたしは覚悟した。

 慄き、心配だけしか出来ない、そんな味わったことのない想像してもどうなっているのかさえ分からない状況がひと月続いた。週に一度、病院から電話は貰えるのだが、わたしが自ら思い込ませたように「覚悟しておいてください」とだけ、医師もわたしに追い討ちを掛けた。

 何も出来ない、何もすることがない、会うことも話もできない。

 で、45日が過ぎた。

「『赤いきつね』が食べたいそうですので、二つ三つ送って頂けますか?……申し訳ありませんが、ポットも一緒に送ってくださいますか?」看護師さんからの電話があった。

「最後の晩餐ですか?」思い切って尋ねようとしたのだが、わたしは湯気の向こうの母の顔を思い出していた。

「好きなんだもんね、食べさせてあげるからね、お湯は看護師さんに入れてもらえるよね。食べられるようになって良かったね、もう、呼吸器は着けてないってことだよね。……あと、何食べたい? 食べたいもんある? だーい好きな干し芋と葛餅も一緒に送ってあげたいけどねえ、さやえんどうのお味噌汁もね、……早く帰って来てー!」ベッドの脇に行って、そう叫びたかった。

『赤いきつね』5個と沸かせるケトル、そして出汁と七味の封を開ける鋏を同封し荷物を送る。細かい作業がしずらい手先のために小さな鋏は母の必需品だった。

 


 それから更にひと月が経った。

「介護鬱で病気になってもいいから、帰っておいでー!

 いっぱいいっぱい好きな美味しいもの作ってあげるよ。お母さんがわたし達にして来てくれたみたいに……」

 

 けれど、戻って来たのは、ケトルと『赤いきつね』の……、七味唐辛子がついた鋏、と、……遺骨だけだった。



                了


 



 

 

 

 


 

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