第16話 契約者は嘘を吐く。

 本所内の演習場でアリア・バドルドスと一戦を交えてから、二日後の夜。

 オルトは自宅の玄関で、脳髄を直接揺さぶるような囁きに耐えながら、靴を履こうと身を屈めていた。


 アリアの『岩層結界』の前に惨敗したオルトは、その身に『觜天岩槍』を受けて気を失った。

 『觜天岩槍』自体はアリアの計らいで穂先の刃は潰されており、斬撃というより打撃という形で相手にダメージを与えるため、受けても致命傷にはなりにくい。

 とはいえ、槍を受けた直後は内臓に損傷、左肋骨二本の粉砕骨折など、決して軽くはない傷を負っていたのだが。

 ちなみに戦闘中も宿地の多様で腱を十数度断裂したり、『砂走』を受けた部位の骨にヒビを入れたりなど、戦闘を続行できたことが不思議なほど、オルトは満身創痍だった。


 だのに、担架で運ばれた医務室内で行われた精密検査では。オルトは外傷も内部損傷もなく、健康そのものであった。

 相手はあのアリア・バドルドスだ。身につけていた隊服も激しい戦闘を物語るかのように無惨な有様となっていたため、医者は検査結果に首を捻るばかりだったが、何度精査しても異常なし。

 本人も飛んだり跳ねたり冗談を言ったりする元気もあるということで、その日のうちに退院と相なったのであった。


 もしこれで本格的な入院となれば、義妹のエミリに大きな心配をかけてしまう。

 お礼を受け取りに行くだけと言った手前、ズタボロの状態で再会など、本人になんと言われるかわかったものではない。

 そういった事情もあり、オルトは割と必死に五体満足アピールをし、バッドエンド√を辛くも回避したのだ。

 無論、その足で新しい隊服を買って着替え直し、何食わぬ顔で帰宅している。


「あーくそ、うるせぇ…というか、何だか日に日に頭ン中に響く言葉が鮮明になってきてるような…」


 オルトとしては、正直この症状を理由に医者へかかりたい気分だった。

 しかし、原因はこの世界にいる誰よりもオルト自身が理解している。

 解決策は一向に掴めないが、たとえこの世で一番の名医だろうと、そもそも女神が関わっているという事実すら明らかにできないだろう。


「真の救世主が現れるまで、陰ながら世の脅威を排除する。これは己にとって最も必要なこと…」


 何度も頭に響き渡る言葉を、オルトは口に出して復唱する。

 すると、彼の中で明確に違和を訴える部分があった。

 これが必要なこと?己にとって?


「誰ともしれない救世主サマのために命かけたボランティアをするのが、俺にとって一番優先すべきこと、だってのかよ」


 異を唱える素振りを見せたからか、オルトは頭蓋を外側から圧迫されるような感覚に襲われ、思わずえづく。

 今まではそれで恐怖心を煽られ、力は使えるからと逃げの口上で現況について考えてこなかったが、今回は一度蓋を開けたからか逆に不信感ばかりが募っていく。

 確かに並の魔術師を凌駕する力を振るえるのはいい。それはオルト自身が望んで止まなかったものだから。

 しかし、その力は使用できる範囲やタイミングが制限され、己の意図しない使い方ばかりを強制される。

 気がつけば、望んでいた形とは程遠い結果ばかりが目の前に並べられていた。


(何で…)


 何故だ。何故このようなことを無能なオルト・ハイゼンなどに任せる?

 力の扱い方に長けた適任は他に幾らでもいるはず。それを、よりにもよって最も不適と言っても良い己を選ぶなど、正気の沙汰ではない。

 おかしい。オルトはそう断言したい…のだが、いよいよ頭痛がひどくなってきた。

 今の状況を例えるなら、全方位から頭を蹴られているような恐ろしい痛みだ。


「これ、命令無視は死、てのは、冗談じゃなさそう、だな。…仕方ねぇ、行くか―――――あ、れ。待てよ」


 耐え難い痛みの中で、突如閃いた一つの案。

 今まで一度たりとも行わなかったのが逆に不思議なそれを、もう一度吟味しようとして、


「おにぃ?どうしたの、こんな夜中に」


「!エミ、か」


 思考に没頭していたためか、はたまた激しい頭痛に見舞われていたためか、背後にいたエミリの存在を気取れず、オルトは思わず驚きから肩を跳ねさせた。

 振り向くと、そこには睡気眼を擦る寝巻き姿のエミリ。それでも、オルトを見る視線にははっきりと不安の色が見て取れる。

 こうなることを避けるために、深夜に起こるの時は早々に外へ繰り出したかったのだが、今回は自身の力への不信感からか二の足を踏んでしまったこともあり、通算四度目のエンカウントが現実のものとなってしまった。


「また、仕事?」


「…ああ。ちょっくら街の平和守ってくるよ」


 オルトは思う。これで何度目の嘘だろうかと。これから何度嘘を重ねればいいのだろうかと。

 エミリに虚言など口にしたくはない。かといって、真実を口にすれば一層強く止めに入るだろう。

 人が対峙するにはあまりある怪物との殺し合いを余儀なくされ、彼が何度も八つ裂きにされている事実を、心優しい彼女が許すはずもない。

 故に、オルトは嘘を吐き続ける。この外出はなんて事ない、ただの仕事のためであると。


「あまり無理しないでね」


「―――っ」


 オルトが息を呑んだのは、それが今まで一度もかけられたことのない言葉だったからだ。

 止めるでも、理由を問うでもなく、気遣う。

 まるで、オルト・ハイゼンがこれから何を為しに行くのか、全てを見透かしているかのような、そんな発言だった。


「どうせ、止めても行くんだよね。これまでもそうだったし」


 十年以上、苦楽を共にしてきたのだ。オルトもエミリも互いの機微は手にとるように分かる。

 ならばこそエミリは、オルトが己に嘘をついていることは初めからわかっていた。理解しつつ、深くは聞こうとしなかった。

 そこには、あらゆる思惑があった。単に嫌われたくないから、知って後悔したくないから、兄を信頼できる妹でいたいから、など。

 それら多様な思惑は、しかし結局のところ一つの集約される。


 オルトのことを、誰よりも大切に思っているから。


「エミ、すまない。俺は―――」


「いいの、謝らないで。おにぃは何も間違ってないんだから」


 否。間違いだらけだ。そう弱音を吐いて首を振りたくなる気持ちを、オルトはグッと堪える。

 すでに決めたことなのだ。今更取りやめたところで、何一つ良い結果など生まれない。

 オルトは嘘が嘘であるがまま、全ての因縁、脅威を断ち切るまで歩みを進み続けなければならない。


「おにぃが嘘ついてること、わかるよ。でもね、それが誰かを貶めるものじゃないことも、わかってる」


 嘘は他者を欺くための方便だ。そんな側面から、悪事に用いられることが大体である。

 しかし、全てがそう、というわけでもない。


「真実を知ることで、むしろ不幸になることがある。なら、いっそ知らない方がいい。…おにぃはそういう嘘を、私についてるんだよね。違う?」


「…それは」


「ふふ、ごめんね。意地悪な質問しちゃって」


 知る必要のない事実であれば、知らさずとも良い。それが当人とって苦しみを伴うのであれば、目を逸らさせることも優しさであろう。

 それでも、嘘は嘘だ。真に不要か否かを判断するのは己ではないのだから、この行いが正しいのかと問われれば、答えは否だ。


「でも、これくらいは許してね?これからもちゃんと騙され続けてあげるから」


「…はは、これは参った。あの泣き虫で甘えん坊だったお前が、そこまで言うようになるとはな」


「もう、そんなのずっと昔の話でしょ」


 オルトの中では、いまだにエミリは近づけば消えてしまいそうな儚さと、触れれば折れてしまいそうな弱々しさを持った存在であるというイメージがあった。

 自分自身を除く何もかもを失ったあの頃の姿は払拭しがたく、だからこそオルトは自立心を早い段階から養っていけたのだろう。

 だが、エミリ自身の口にした通り、それも過去の話だ。彼の前に立っているのは、面影はあるものの、あの時から心身共に成長した彼女なのだから。

 絶望を経験しつつも折れず、その目には強い光を宿し、この世で掴める最善の未来へ辿り着くために努力を惜しまない…そんな少女へと。


「うん、昔の話。だけど、たまには、ね」


「ん?心配しなくても、ちゃんと成長してるって俺は思ってるぞ」


「ふふ。ね、おにぃ」


「おう?」


 エミリはオルトを呼びながら、ぺたぺたと音をたてて木目のフローリングを裸足で歩く。

 進行は前へ、つまりは玄関先に立つオルトの下へと。


「っ?」


 オルトは思わずと言った形で息を呑んでしまう。

 それは、灯りの下に晒されたエミリの表情が、どこか艶めいて見えたからだ。

 実は、灯りは玄関近くのもののみ点灯しており、エミリは今までオルトから少し離れた、自室の扉あたりで会話していたため、彼女の全身は薄暗く判然としなかった。

 これまで見てきた、どのエミリのイメージと結びつかないその姿は、頭の中を跳ね回る激痛すらも一時忘れさせた。


(くそ、脳みそが痛みで馬鹿になっちまったのか?そりゃ、兄の目から見てもエミはかなりの美人だが…)


 一度意識してしまうと、崩落した堤防から水が溢れ出すように、諸所の部分まで気にかかるようになってしまう。

 例えば、少し着崩れた寝巻きから除く真っ白な鎖骨だったり、すらりと伸びる手足だったり、少し多めに朱の差した頬だったり、長く整ったまつ毛だったり―――いや、待て。

 オルトは慌てる。何故慌てるのか。

 一向に足を止める気配のないエミリが目と鼻の先にまで迫っているからに決まっている。感想が回を追うごとに詳細になっていくのがいい証拠だ。

 危険を察知し後退りしようとしても、すでに靴を履き終えてしまった以上、背には扉。


(いや、まさか。エミに限ってそんなことは…!)


 ついに息のかかる距離にまで詰め寄られてしまったオルト。すでに頭痛など何処か彼方へと吹き飛んでいた。

 兄妹で関係を持つのは、もちろんこの世界でも処罰の対象となる。オストラントに限らず、他の軍事国家でも同じだ。

 そう。これはいけないことなのだ。規則に厳しいプルミールが知れば、容赦無く不能にさせられてしまうことだろう。

 それはまずい。オルトは男としての機能を保つために、エミリから距離を取ろうと―――


「あ、れ。エミ?」


「ん…少しの間、こうさせて?」


「あ、ああ。これくらいならお安い御用だ」


 エミリがしたかったのは、どうやらハグであるらしかった。

 オルトは内心で盛大なため息を吐く。どちらかといえば現実でやって色々と邪なのものを吐き出してしまいたかったが、それをすると胸元の彼女に察せられてしまう可能性が高い。

 しかし、義妹になんという思いを抱いてるんだという罪悪感と、ひどい勘違いをしたもんだという羞恥心は如何ともしがたく、オルトは正直なところ、向こう一週間ほどは寝しなに悶えることになるだろうと悲しみに暮れた。


(俺はクズ人間クズ人間クズ人間クズ人間…ん?)


 と、ここでオルトはエミリの体が小刻みに震えていることに気がついた。

 一瞬、何処か具合でも悪いのかと問いかけるが、その前に閃くものがあり、勘の指し示すまま彼女の足元に目を向けると、あっという間に疑問は氷解した。

 エミリのハグは腕をがっしりと背中へ回し、少しでも目線を上に上げるために爪先立ちになる子ども時代のものと全く変わっていなかったのだ。

 いつも途中から体が震え始め、そして苦しげな声を上げるものだから、オルトは無理しないで普通にしろと笑いつつ注意していた。


「変わらないな、エミ。もう背伸びしなくても十分でかくなったろ?普通にしろって」


「いいの。私はこれで、いいの…」


 邪念は綺麗さっぱりなくなった。

 惜しげもなく押し付けられている柔らかいものにも全く動じず、オルトはその手でエミリの頭を優しく撫でる。

 それはまさしく、甘える妹をあやすようであった。

 エミリの方も、撫でつけられるゴツゴツとした兄の手の感触と、安心して己を預けられる厚い胸板を味わいつつ、陶然と答える。

 彼女の方は…否、今は言うまい。


「さて、そろそろ行くぞ。いいか?エミ」


「む…久しぶりに合法的に甘えられる機会に恵まれたのに。あと6時間くらいはこうしていたいかな」


「合法的って…そんな理由つけなくても甘えたきゃ甘えていいんだぞ。俺はエミの家族なんだ。流石に6時間ぶっ続けは勘弁してほしいが」


 そろそろ忘れかけていた頭痛が鎌首をもたげてきたので、我慢できなくなる前に行動に移そうかと思ったところ、予想外の申し入れを受けたオルト。

 しかし、オルトとしては願ってもない言葉だ。

 エミリは幼くして家族を失い、ほとんど父や母に頼ったり甘えたりする時間を成長過程で取れぬまま、今日まで過ごしてきた。

 その役割を代替できぬものかと、オルトは一時頭を悩ませていたものだが、エミリは頑として弱みを見せたがらなかった。


(俺が立ち上がっちまったもんだから、自分一人でいつまでもいじけてられない。そういうことだと思うが…)


 それはあまりにも酷だ。

 市井の子供達であれば、十代前半でもまだ親に甘えたがる年頃だろうに、その頃には家事を率先してこなし、勉学にも弛まず励んでいた。

 そんなエミリは、オルトにとって頼もしくはあったが、同時にいつ砕けてもおかしくない弱々しさも、確かに節々で感じたのだ。

 だから、今日のこの甘えたい発言は、オルトが長年果たせなかった役割をようやく全うできる、期せずして回ってきた絶好のチャンスなのだ。


 そうした意図から、エミリを受け入れる発言をしたオルトだったのだが…


「いいの?義妹にこんなことされて、気持ち悪くない?」


「そんなわけないだろ。むしろずっと待ってたんだ。こうして昔みたいに甘えてくれるのをさ」


「あ…」


 嘘ではないことを証明するために、オルトは両手でエミリの身体を抱きしめる。

 背丈は高くなっても、その体躯は昔と変わらず驚くほど華奢で、オルトは要らぬ気遣いと知りつつも思わず腕にこめた力を抜いてしまう。

 エミリは多感な年頃であることも考慮し、オルトは今日まで無用な接触を可能な限り避けてきた。

 ほとんどの家庭に置いて、二次性徴の段階で兄は妹にとって嫌悪の対象になり得るため、これ以上のストレスをかけることだけは避けねばと家内では日常的な会話や接触のみに努めたのだ。

 とはいえ、それも本人が拒絶すればの話。背景が背景のため、エミリ自身が求めるのであれば、オルトはいくらでも対応できる腹づもりであった。


「俺はお前の親の代わりにはなれないけど、兄貴としてできることなら精一杯こなすから。だから任せろ」


「うん」


「なんてな。今までダメなところ散々見せておいて、任せろってのは説得力ねぇか。はは」


「そんなことない。おにぃは誰より頼りになるよ」


 その姿勢が、今こうして身を結んだ。オルトはそう思っていた。

 彼は気づかない。その腕に抱かれているエミリの表情は、とても兄から抱擁を受けているとは思えないほど、蕩けきってしまっていることに。

 そして、ついに我慢できないと言わんばかりに身じろぎしつつ放たれた熱く、悩ましげな吐息がオルトの耳を擽る。

 それを苦しみを訴えるものと勘違いしたオルトは、謝りつつ慌てて抱擁を解く。

 オルトの両手によって引き剥がされたエミリは、首を下に向けており、髪が顔を覆い隠していて表情が窺い知れない。


「えっと、大丈夫か?エミ」


「あはは、うん。ごめんね。久しぶりだったから堪能しちゃった」


「だな。言われてみれば、本当に久しぶりだな」


 顔を上げたエミリの表情は、いつも通りの笑顔だった。

 それに安心しつつ、オルトも釣られて笑う。

 すると、エミリは頬に差した朱を濃くしながら、おもむろに肩に置かれていたオルトの右手を優しく取ると、己の頬に手繰った。

 さらりと手の甲を撫でるきめ細かな茶髪。手のひらを満遍なく覆う、暖かい柔らかな人肌の感触。いずれもオルトにとって久しく体感していなかった、女性の質感であった。


「結構引き止めちゃったね。お仕事、頑張って」


「ああ。手早く済ませてくるよ」


 そう言って引こうとしたオルトの右腕は、再びエミリの手に取られる。

 その手をぎゅっと握り込むエミリの表情は、真剣でいて、同時に迷いも多分に含んでいた。


「うん、気をつけてね。帰ったら、その…」


「?どうした」


「んんっ、なんでもない!」


 昔のエミリを見ているようで嬉しくなったオルトは、言い淀む彼女の頭を反対側の手で少し乱暴に撫でつつ、笑ってみせる。

 そんな彼の様子もまた、昔日に見た面影と重なったエミリは幸せそうに口元を緩め、為すがままに身を縮こまらせた。


「じゃ、朝方くらいには戻る」


「うんっ」


 手を挙げたオルトに応え、エミリも弾むような声を返す。

 これまでなかった義妹の笑顔での見送りは、オルトの凝り固まった心境を幾分か解き解したのだった。

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女神さま、契約破棄します! @at-water

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