第15話 契約者は強敵に挑む。

 本所左方ひだりかたには、シュヴァリエたちの会談が行われる会議室や、プルミエールの仕事場である執務室の他に、演習場がある。

 最も魔術が浸透した国と呼ばれるだけあり、オストラントはあらゆる場所に魔術演習場が点在しているのだが、これらはあくまで市民が魔術の練習や試用をするだけの簡素な設備に止まっている。

 アストラル直下の管轄に置かれる本所内の演習場は、間違いなくオストラント中でトップの外界遮断性能を誇る。たとえ上位種が全力で暴れても、一時間は閉じ込めておけるだろう。


「何度かここへ来た時に遠目に見てはいましたけど…これが本所の演習場ですか。士官学校のものより数段上ですね」


「当たり前。ここはシュヴァリエ同士が練習試合したりもするから」


 理屈を知らないものが見れば、ただ広大なだけの石造のフィールドとしか思えないだろう。

 しかし、この演習場に使用されているのは、全て土魔術の派生、岩魔術で作成された岩石なのだ。

 これに多数の付与魔術を重ねがけされることで、あらゆる属性の高位魔術にも耐えられる強度を実現している。

 魔術を少しでも嗜んでいれば、演習場に上がった途端、足元を流れるマナの強大さを感じ取れることだろう。


『使用者の識別が完了しました。登録名アリア・バドルドス。全属性防御障壁オールレンジマジックシールドランク3、設定…起動します」


 魔術を使ってあらかじめ録音されたアナウンスが流れる。

 設置されたマナ石を操作し、登録者の認証や演習条件の設定などをする際に自動的に発声される仕組みだ。

 マナ石の役割については…後に述べるとしよう。


「障壁のランクは3にしておいた。上位の攻撃系魔術を使う気はないし、これで十分」


「はい。異論はありません」


 さて、フィールド上だけの強度をあげたところで、魔術は非常に広範囲に渡り影響を与えるため、これをシャットアウトする方法がなければならない。

 その役目を担うのが、アリアの起動させたフィールド端に備え付けられている全属性防御障壁だ。こちらは持続的にマナを吸収し続ける高純度のマナ石に防御魔術の術式を組み込むことで機能させている。


 一見、実戦でも通用する運用法だと思いがちだが、高純度のマナ石は非常に希少であること、金属を悠に越える比重を誇ること、何より継続使用や連続使用には向かないことが、実戦運用においては大きな壁として立ちはだかる。

 継続、連続使用の不適さを明確に示すものとして、30分ほどの展開に要すマナのリチャージ時間が、およそ半日である、という指標がある。障壁のランクを上げれば消費量も比例して上がるため、どれほど戦場に向かないかは理解いただけるだろう。


『設定演習時間20分、障壁の残展開可能時間1時間13分。本演習後の予測残展開可能時間48分。演習時間経過後は直ちに戦闘を停止してください』


「改めて、この戦闘の目的を確認する。私は貴方の本当の実力が知りたい。そして、貴方がアストラルにいる理由が知りたい」


「はい。こちらも理解してもらえるように全力でお相手しますよ」


「うん。せめて、初手は凌いで」


 大層な実力などない。大層な理由などない。それが平時のオルトだ。

 アリアとの戦闘は、ソニアの時と違い魔術面でのハンデはない。同じアストラルの人間同士、つまり魔術師としてアリアはオルトを計るのだから。

 ならば、オルトに勝機などない。だから、彼がこの戦いで考えることはただ一点のみ。

 どれほどアリアの望む形で済ませられるか、だ。


『カウントを開始します。…3』


 故にこそ、オルトは彼女の望む全力でぶつかる。

 魔術を扱えぬ者として、魔術以外の手段で。

 三日前の、あの時のように。


『…2』


 アリアは構えもせず、ただ腕組みをして立つのみ。

 微風が抜けていき、髪と隊服の裾を揺らす。


『…1』


 オルトは左足を後ろに引き、やや前傾姿勢のまま前方に出した右の平手、後方に引いた左の拳で構えを取り、静止する。

 そして、


『…0、戦闘開始』


 展開した障壁が青空を覆い隠し、戦闘が始まった。

 アリアは開始とほぼ同時に指を鳴らすのみで基礎魔術の防御障壁を展開。

そして、まずは様子見用に採用する魔術と、その発動起点を勘案することにした。


(ふむ。これでいく)


 アリアはそれからすぐに四方から『岩弾』で奇襲を仕掛ける策が、この状況に置いて取り得る最善手と判断する。

 先の本所内通路で見せたように、『岩弾』は展開速度、攻撃速度ともに優れる、開幕の一手には最適な魔術だ。

 早々に策を決めたアリアは腕を上げつつ、オルトへ視線を戻したが―――そこには誰もいなかった。


(あの一瞬で移動っ?そんなことが?)


 アリアは、すぐにカウンターの体勢へ切り替える。奇襲を講じているのなら、もはや一刻の猶予もない。

 しかし、オルトはそれより一歩早く彼女の懐へ潜り混んでいた。


「っ!?」


「宿地」


 特異な歩法、宿地。オルトが長年かけて習得した、対魔術の要だ。

掌で大気ごと押し込むような一撃。防御障壁に阻まれて威力は完全に分散されるが、生身での攻撃とは思えない音が響く。

 そこへ、間髪入れず腰に溜めていた拳を続けて叩き込む。ただの拳打とは違い、インパクトの寸前に腕全体を高速で回転させることで、穿孔力を大幅に向上させたものだ。

 名を『独楽魚抄こまぎょしょう』。生身のオルトにとって大敵である防護障壁を、何とか武術で打破できないかと考えた結果、辿り着いた究極形である。

 その狙い違わず、障壁に多大な負荷がかかり、大きく波打った。

 まずい。そう判断したアリアは、後方へ退きつつ反撃のための詠唱を―――


「なっ?!」


 そう思った矢先、眼前目掛けて飛んできたナイフを視認したアリア。

 彼女は人間の反射能力に抗えず、思わずといった形で硬直し、上体を傾け回避行動をとってしまう。

 障壁がある今、そのような行為は無意味だというのに。

 この好機を逃さず、オルトは再度肉薄し『独楽魚抄』を先ほど打ったところと同じ場所に打つ。

 度重なる負荷に悲鳴を上げる障壁。…破れる。あと一撃。


「還る万物は地へ沈み、成るは常磐の星の体躯―――」


 アリアが紡ぐのは、『岩層結界』の詠唱。これの発動を許してしまうことは、すなわちオルトの敗北を意味する。

 しかし、オルトは知っている。『岩層結界』は短詠唱でもかなりの長文であることを。

 間に合う。この拳を叩き込めば、基礎の防御障壁は抜ける。あとは溜めてある膝をノータイムで打ち込めば。

 そんな彼の確信に違わず、詠唱を言い切る前に拳は障壁を捉え―――


「な、に…!?」


 それは、詠唱の中途であるはずのアリアが前方へかざした手により起こった。

彼女の手のひらを起点にごく小規模の『岩層結界』が展開し、オルトの『独楽魚抄』を防いだのだ。

 魔術の先行展開。専ら詠唱の長い上位魔術にて用いられるが、凄まじく高い難度のため、使い手はシュヴァリエでもアリアと3等星のアマネ・シズクの二名だけしかいない。


「偽りの安息よ去れ、常しえの安寧をこそここに。―――『岩層結界』」


 その最中に詠唱を終え、先行で展開していた結界を起点に、アリアの周囲を覆う完全な『岩層結界』が発動する。

 同時に膨大な土属性のマナが金色の波となって炸裂し、オルトは強制的に後方へ押しやられる。


「くそ…っ!」


 まるで岩壁に衝突したかのような、抗うことのできない重量を感じさせる衝撃。

 それに全身を叩かれ、後方へ弾かれたオルトは、地面を数度転がりつつも体勢を立て直す。

 そこには、金色の障壁を見にまとうアリア・バドルドスの姿があった。


「なるほど。魔術を扱えない身で、そこまで喰らい付くとは。事前に低位の障壁を展開していなければ、あっという間に私が負けていた」


「ち…『岩層結界』が』


「そう。残念だけれど、これで貴方の攻撃は全て無意味になる。受けて分かったけれど、低位の魔術とほぼ同じくらい」


 その言葉は、客観的に聞けばオルトへの侮辱であるように感じるが、アリアの意図は違った。

 むしろ、低位とはいえ魔術と同じ域にまで生身の人間の一撃を磨いたことに敬意を評してすらいたのだ。

 だが、その善戦もここまで。巌姫としての本領はこの瞬間からだ。


「ふッ!」


 逡巡は一瞬。挑むように宿地で再接近を試みるオルト。

 風魔術を使った移動と見紛う速度に反応しきれないアリアはそれを許し、彼の腰に溜めていた『独楽魚抄』を真面に喰らった。

 衝撃音が響く。対魔術障壁用として極めた技は岩層結界の表面を―――水面に落ちた雫程度の波紋しか揺らすことができなかった。


「はは。流石は最強の盾―――」


「砂塵に惑え、憐れな獣よ!『砂走』!」


「ちっ!」


 予想していたとはいえ、微動だにしない『岩層結界』に白旗を挙げるオルトは、一旦距離を取ろうと後方へ飛びかけるが、アリアの高速詠唱が耳に入った瞬間、寸でのところで意識を切り替える。

 発動と共にアリアの周辺に大量の黄金色の砂粒が立ち上ったかと思うと、その一部がざわめく。

 それを抜け目なく察知していたからこそ、オルトは凄まじい勢いで放出された砂粒の波状攻撃に回避行動を合わせられた。

 オルトの背後で、フィールドに張られた障壁が激しく削られる剣呑な轟音が響いた。

 床を見ると、砂が叩きつけられた部分だけ岩の表面が浅く削られ、小道のようになっている。


「砂の斬撃ってか。当たったら洒落にならないぞ、これ」


 ざわり。と正面から続けて砂粒の動く音。それを捉えたオルトは一息で呼気を整えると、連続で放出される砂のブレードを回避する。

 砂の放出される速度は、およそ人が避けられるものではない。にもかかわらず、彼がそれを可能にしているのは、着地と回避のタイムラグを限りなく減らす歩法を使用しているからだ。

 『病葉舞踊わくらばぶよう』。これはつま先のみで着地、回避を同時に為す、高速戦闘下での回避行動を想定した武術である。さながら風に舞い、伸ばした手をすり抜ける病葉の如く、のらりくらりと敵の攻勢を回避できる。


 「罪人が背負うは悪業の十字架、其を裁くは我が手の先鉾なり!『觜天岩槍』!」


 『砂走』に重ねる形で、アリアは巌姫の持つ十八番の一つとも言える魔術を発動させる。

 『觜天岩槍』は、その名の通り岩の槍を出現させる技だ。

 それだけを聞くと大したことがないように思いがちだが、軽視するのは大きな間違いである。

 出現させられる槍は、使用者の魔力が許す限りであれば、場所や数の制限がなく、大きさまで自在の変化させられ、速度すら己の意思でコントロール可能なのだ。

 しかも、一度目視した相手なら放った槍をある程度追尾させることができ、目視し続けられるのなら非常に高い追尾性能を期待できる。

 これらの性能の凄まじさは、アリアを連れた即時討伐が任務の作戦で見ることができる。

 数百本に昇る岩槍を一斉展開し、高速で連続射出するやり方で敵を一方的に殲滅する光景が。


(なんつー魔術モンをぶち込んできやがる…!)


 そんな悪夢のような魔術の詠唱を聞いたオルトは冗談じゃないと叫びそうになったが、自身の足元から飛び出してきた岩の槍に堪らず回避行動をとる。

 しかし、それで砂走を避けるタイミングを逸してしまい、右方から迫った砂粒をまともに浴びてしまう。


「がはっ!」


 マナ抵抗により多少威力の減退効果はあったものの、半身を打った衝撃は相当なもので、足が止まりかける。


「っ!」


 激痛に硬直した筋肉を鞭打ち、オルトは首を後方へ傾け、顔面目掛け接近していた槍を回避する。

 続けて胴、腰を狙って飛来してきた二本の槍を回避するべく地面を蹴って前方へ転がる。半転したところで手を地面に着いて跳躍し、もう一本の槍も回避。

 いくつか掠めたが、それらは女神の加護のおかげで瞬く間に回復した。『砂走』で受けたダメージも、多少遅れたが完治する。

 光魔術は人里離れた僻地でなければ使用許可は降りないのだが、傷の治癒についてはパッシブなのだ。女神のこの判定基準はどこから来るのだろうか。

 轟、とオルトの耳が唸る音を捉える。横目で素早く確認すると、砂の斬撃が目と鼻の先に迫っていた。

 後続が控えている。これを喰らうわけにはいかない。


(間に合え!)


 オルトは降り立つ瞬間に『病葉舞踊』を敢行。弾かれたように距離を取り、辛くも砂の斬撃を回避する。

 そこから立て続けて襲いくる二連撃も、何とか速度を上げて対応してみせた。が、僅かに遅れた右足に掠めてしまい、激痛から動きが鈍る。

 そんなオルトへ向けて、狙い澄ましたかのように二つの岩槍が迫る。いずれも『砂走』に劣らずの速度。しかも追尾性能があるため、生半可な手段では回避不能だ。


「…ッ、舐めんなっ!」


 叫びつつオルトが閃かせたのは、徒手の両腕。

 同時に血反吐を吐くほどの鍛錬と、女神から賜った力で経験した人の域を越える戦闘により鍛え上げられた目で、二振りの槍を目視する。

 対象、補足。

 軌道、予測。


 真横へ払いのけるようにして振った右手で、先の一本目の槍の柄を押す。

 ―――大きく軌道が逸れ、オルトの右横の地面へ突き立つ。


 下方から掬い上げるようにして振った左手で、次の二本目の槍の柄を押す。

 ―――穂先が打ち上げられ、180°以上回転したためか、軌道を修正できず地面に鋒を埋める。


 絶技、『枝垂揺籃しだれゆりかご』。目視できるものであれば、あらゆる攻撃をも流す反則技。



「―――――」


 アリアは絶句する。

 魔術戦とは基本、受けるのが常套手段だ。

 相手の繰り出した魔術を自身の防御魔術で受け切り、カウンターで削ってゆく。

 時折防御以外の方法で相手の魔術を上手くやり過ごす者もいるが、それでも何らかの魔術を元に為している。

 そう。魔術には魔術で対抗するしかないのだ。少なくとも、アリアはそれが正攻法であると思っていた。

 だからこそ、生身で己の魔術を受け、流すオルト・ハイゼンの存在が、とても信じられなかった。


「くっ」


 オルトの姿が消える。宿地を使ったのだろう。

 『砂走』の効果は切れた。尤も、詠唱を短めにしておいたので、出現する金砂の量も万全より目減りしているから、当然のことだろう。

 一応砂の密度は薄めにし、威力を多少犠牲とする代わりに回数を稼いではいたため、予想よりも攻撃回数は水増しできた。

 とはいえ、アリアとしては『砂走』と『觜天岩槍』のコンボで沈められると踏んでいたので、このシナリオは完全に予測の外だ。


(目視では追えないから、岩槍の追尾も不可。なら、)


 アリアは追加で二本の槍を両手に生み出し、その柄を持つ。

 そして、周囲に散った数本も手元へ呼び戻す。

 総計八本の槍がアリアの側に控える。彼女はそれを、


「これなら、どう?」


 一斉射出。

 猛烈な速度で四方へ散らばった岩槍は、アリアの周りを複雑な軌道で飛行し始めた。

 対象を目視し、ピンポイントで狙うことができないのなら、攻撃の密度をあげて、どこに移動しようが回避できない状況を作り上げてしまえばいい。

 これほどの乱れ打ちだ。同じ場所に1秒とて立つことは不可能。幾ら鍛錬を積んだとはいえ、人間の運動量には限度がある。この辺りが潮時だろう。

 そんなアリアの思惑は、背後で響いた結界を叩く音により、瞬間に破られることになる。


「ッ?!」


「精度を投げうった乱れ打ちか。ついに策も打ち止めですかね?」


「そう言うなら、全部避けてみせて!」


 オルトの挑発に苛立ちを露わにするアリアは、旋回する岩槍のうちの三つを彼の元へ仕向ける。

 その三つの槍のうち、オルトは最も早く己へ辿り着くものを素早く把握すると、再び『枝垂揺籃』を発動。

 振り上げた右足で穂先を蹴り上げ、頭上より飛来した2本目の槍の軌道上に割り込ませて相打ちし、迎撃する。

 次に落ちてきたその槍を掴むと、全力で三本目へ向かって振り下ろし、粉砕する。

 続けてオルトは柄を回転させながら持ち替えつつ、軌道を変えて戻ってきた2本目を再度迎え撃つ。

 激しく衝突した二つの槍は、ともに大きな罅を走らせると、粉々に砕け散ってしまった。


「おっと!」


 風切り音を察知したオルトは、『病葉舞踊』を活用した高速バックステップで頭上や左右方向から迫った四本の槍を全て回避する。

 そして、再び宿地を使ってアリアの視界から消失した。


「な―――」


 ありえない。何だ。あの戦い方は。

 先の攻防でもそうだが、魔術攻撃を生身で受ける、流すなど正気の沙汰ではないのだ。

 まぐれと思いたかったが、あんなものを見せられれば、認めざるをえない。アリアは歯噛みしつつも、オルト・ハイゼンの実力を評価していた。


(それでも。恐らく結界を破る手段は、ない)


 アリアの『岩層結界』を叩いたのは、先ほどまでと同じ『独楽魚抄』だ。

 岩層結界は言わずもがな、基礎魔術の防護障壁とは一線を画すものだ。防護障壁に対しては有効ではあったあの拳打も、アリアの岩層結界の前では型なしだろう。

 それでも、オルトは変わらずに『独楽魚抄』を繰り出してくる。その狙いとは?


「!」


 アリアから見て右横に滑るようにして現れたオルト。彼の隊服はあちこちが切り裂かれ、ぼろぼろの様相であった。

 無論、受けた当初は身体の傷もあったのだが、今は女神の加護で完治している。

 とはいえ、精神的なダメージまでは消せない。宿地の多用で足の健を既に十度ほど切っていることもあり、オルトの気力は限界を迎えようとしていた。

 それでも、彼は地を揺らすほどの踏み込みと、手のひらに五指が食い込むほどの拳を伴って、アリアの『岩層結界』に挑む。


「…その技では、この結界を破ることはできない」


 オルトの拳に返ってくるのは、岩盤を叩いているかのような途方もない無力さだ。

 それを承知で、今度は反対側の左拳を打ち込む。


「無駄。たとえ寸分違わず同じ場所に打ち込もうと結果は変わらない」


 アリアの言葉通り、感触は変わらない。有効打には程遠い。

 構わず、オルトは再び右拳を作る。


「聞こえてる?無駄だと―――」


「ああ。わかっているさ」


 位置、角度、威力、ともに完璧。だが、あえなくその全力は阻まれる。

 オルトは理解していた。心のどこかで期待しつつも、やはり現実はこんなものだと。

 この世界は魔術こそ至高。それを極められた者こそ、あらゆる敵を打倒できるのだ。


「俺は所詮この程度だ。結局、魔術がなければ先へ進めない」


 いつも、この壁に打ちのめされてきた。目の前で輝く、魔術という壁に。

 何度殴っても、蹴っても破れないそれは、同じ魔術でなければ無駄だと囁いてくる。

 その手段を持たないオルトは、何度も無駄だという嘲笑を受けながらも、それに拳を落とし続けるしかなかった。


「アンタに分かるか?努力することすら許されず、ただ周囲から置き去りにされる人間の気持ちが」


 挑戦する権利が手中にあるというのなら、力不足は己の責任であると言えよう。

 だが、土俵に立つ権利すらないのでは、怠慢や不足という評価は当て嵌まらないはずだ。

 その背景を考えれば、大きな違いがあることに理解は及ぶ。しかし、いずれにせよ結果は同じだ。

 個人の力では到底変えられない現実がある。―――だから?


 世はそれを区別して評価など、してくれはしない。


 故にオルト・ハイゼンは、今もずっと最初の壁で足踏みをし続けている。

 無駄だという言葉を浴びせられ、憐れみの視線に晒されつつ、同じ場所で動けずにいる。


 否、否である。動けないのではない。動かないのだ。


 彼は、自分の意思でそこに留まり続けている。

 その壁の向こう側にあるものが、見えているから。


「それでも、俺は進まなければならない。そうしなきゃ、俺はあの時に死んでいった人たちに、何一つ報いることができない」


 アリアは息を呑む。

 そう語るオルトは、まるで―――


「っ!がはっ!」


 我を取り戻したアリアが放った二本の岩槍。

 オルトは無我夢中で結界に挑んでいたために反応が遅れたか、最初の一本は何とか回避できたものの、二本目は地に足が着く前に脇腹を穿ち、その体を跳ね飛ばした。

 地面に転がったオルトは、一向に起き上がる気配はない。ここまでの無理も祟り気を失ったのだろう。

 肩で息をするアリアは、片手で顔の半分を覆い、勝者とはとても思えぬほど表情を歪める。


「…確かに、年齢的にも辻褄は合う。貴方も、そういう理由があるのね」


 強さを求める理由。アストラルに身を置く理由。…この国、オストラントを守ることに意義を見出す理由。

 アリア・バドルドスにとって、それら全ての問いは一つの答えに集約する。

そして、オルト・ハイゼンも同じく、そうなのだろう。

 あの独白の時に見せた、昏く、それでいて全てを燃やし尽くすほどの熱量を秘める瞳は、間違いなく己と同じ光景を見なければできない。


「無駄と分かりつつも、なお挑む姿勢は称賛に値する。でも、力量不足であることは確か」


 平時のペースを取り戻したアリアは、指を鳴らして『岩層結界』と『觜天岩槍』を解除しつつ金色の髪をかきあげる。

 中空に浮かんでいた槍は土塊つちくれに戻り、結界は彼女の髪と同色の破片となって虚空に消える。


『設定時間が経過しました。戦闘を直ちに終了してください。まもなく全属性防御障壁オールレンジマジックシールドが解除されます。繰り返します―――』


 あらかじめ設定していた20分が経過し、マナ石からフィールド全体へ向かって警告音声が流れる。

 アリアはそれを聞き流しつつ、マナ石へ向かって歩みを進めると、群青色に輝く石の表面に触れつつ、二、三やり取りをする。

 その最中も、アリアの表情は変わらない。だが、普段から彼女と付き合いのある、たとえばソニアがこの場にいたのなら、違和感に気づき、指摘することはできたのかもしれない。

 『言いたいことがあるなら、話してみてくれないかな?』と行った具合に。

 そうして、何か含みを持たせた態度のアリアは、マナ石での作業を手早く終えると、その足で(隊服だけ)ボロボロのオルトの近くまで移動し、身を屈める。


「貴方の敗北は変わらぬ結果。でも、その実力と覚悟は認めてもいい。…ただ」


 すっくと立ち上がるアリアの両腕には、力尽きたオルトが抱えられている。

 平時のままなら男一人分の重量などとても抱え切れないが、魔術によって身体能力を高めているため、この程度の過負荷であれば問題ない。

 腕の中のオルトを見るアリアの目は、いつもの温度が抜け落ちた瞳―――ではなく、どこか憂いを帯びた、人間味を感じさせる色を含んでいた。


「復讐に憑かれるのは、全てを失った私だけで十分」


 その変遷は一瞬。すぐに元の感情を窺わせない零下の顔つきに戻ったアリア。

 やがて警告は止み、天を覆っていた防御障壁が崩れ、青空と陽光が戻ってくる。


「お疲れ様です!巌姫アリア様!」


 溌溂とした声が、アリアの耳朶を打つ。

 障壁が解かれた向こう側には、数人のアストラルの隊員が神妙な面持ちで立っていた。

 彼らは力尽きるオルトを見るや、すぐにアリアの元へ駆け寄り、頭を下げつつ身柄を引き取り、二人がかりで担架へ載せ替える。

 なぜメディックが控えていられたのか。それは、アリアが先のマナ石でしたやり取りが、救急の要請だったからだ。

 演習場での怪我は絶えない。中には重傷を負う者もおり、マナ石にはすぐさま本所付きの救護班と連絡を取れる機能が備えられている。


「では、あとはよろしく」


「承知しました!お任せください!」


 あらかたの状況説明を終えたアリアは、金髪を翻して演習場を去っていく。

 救護班の一人は、その背に向けて深々と頭を下げた。憧れの巌姫から受けた直々の依頼だ。言葉に力も籠るというもの。

 ましてや、本所付きの救護班である彼らは、今まで彼女と接点を持ちたくても持てなかったのだ。

 アリアは・バドルドスは、演習場を滅多に利用しないことでも有名なのだから。


「…」


 数歩足を動かしたところで、アリアはふと背後を振り返る。

 響いてくるのは、あの時の叫び。浮かぶのは、破れぬと知りながら、黄金の壁に挑んだ姿だった。


「…目的は達した。もう暫く、貴方の道行きについては見守ることにする」


 そう言いつつ、これからのことを考えると頭痛がしてくるアリア。

 このことは遠からず確実にソニアの耳に入るだろう。

 となれば、1秒とかからずこれがやっかみの混じった私闘であることを看破され、小一時間…では済まない説教を受ける羽目になるからだ。

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