きょうを読むひと

尾八原ジュージ

高架下

 アパートから大学に向かう途中に、車一台がようやく通れるくらいの狭い道があって、上を私鉄の線路が通っている。高架下なので昼間も薄暗く、なんとなくじめじめと気味が悪い。通るときは思わず足早になるような、そういう場所だ。

 そこにいつ頃からか、妙な女が立つようになった。

 足首まであるロングスカートを履いた髪の長い女が、高架橋の脚の方を向いてじっと立っているのだ。視線の先にあるのはただのコンクリートの壁のようなもので、何かが書いてあるわけでも、貼ってあるわけでもない。なのにそいつはその壁に指を這わせながら、何事かぶつぶつ呟いているのだ。

 そもそもが気味の悪い場所である。ましてそんな不審者がいればより気味が悪く、おれは前よりもなお足早に、そこを通り過ぎるようにしていた。

 あるときまでは。


 六月の、雨がしとしとと降る日のことだった。

 二日ほど前にできたものもらいが市販の目薬では治らず、起きたときには右の瞼がかなり腫れていた。おれは一、二限を自主休講して眼科に行き、それから大学に向かうことにした。

 通勤・通学ラッシュを終えて、人通りは少なかった。こんな時間にこの高架下を通ることは滅多にない。もしかするとあの女もいないんじゃないかと期待したが、案の定そうはならなかった。そいつはいつものところに立って、いつものように壁をなぞりながらぶつぶつと呟いていた。

 長い髪を垂らした生気のない姿はまるで幽霊のようだが、本物の幽霊というわけではなさそうだった。ロングスカートの下にはちゃんと足があるし、体が透けたりもしていない。もっとも人間だからいいというわけではもちろんなく、気味が悪いものは悪いのだが。

 そっと女の背後を通り過ぎようとしたそのとき、彼女の口からもれる言葉がふと、意味をもって俺の耳に届いた。

「……16時17分××線○○駅手前脱線事故」

 ニュースキャスターのように平坦な声だった。まるで俺に聞かせようとしたかのように、そこだけ少し大きくなったのだ。

 えっ、と思って振り向くと、女はこちらに顔を向けていた。

 彼女の顔をまともに見るのは、これが初めてだった。思ったよりも若く、これといって怖ろしいところなどない、むしろきれいな顔立ちだ。思わず視線が吸い寄せられた。

 そのとき、電車が上を通り過ぎた。その轟音で我に返った俺は、足早にその場を立ち去った。


 無事に大学に着いたが、おれはその日一日中、女の言葉が気になって仕方なかった。16時17分。果たして何月何日のことだろう? いつかの16時17分、あの高架を通る電車が○○駅手前で脱線事故を起こす? まさかと思いつつ、どうしても頭から離れなかった。

 悶々と考え事をしていると、友人がおれに話しかけてきた。

「おつかれー。高崎、目ぇめちゃくちゃ腫れてんなぁ」

 おれはふと、女の言葉を誰かと共有したくてたまらなくなった。だって本当に脱線事故が起きたらどうする? いやまさかとは思うけれど、でも万が一そんなことが起こったら……そう思うと、誰かに言わずにはいられなかったのだ。

「あのさ、いつかの16時17分、○○駅手前で脱線事故が起こるかも」

「は?」

「いや、やっぱいいわ」

 言ってから後悔した。やっぱりバカバカしいと思った。

 ところが夕方、事態は勢いよく転がり始めた。その日の16時17分、○○駅手前のカーブで、本当に脱線事故が起こったのだ。

 その報せを聴いた後、おれは慌てて構内を出て高架下に向かった。

 女はやはりそこに立っていた。壁の染みやひび割れを読むように指を這わせ、ぶつぶつと何事かを呟いていた。やはりただの人間のように見えるその姿を、おれは少しの間見つめていた。


 その出来事は、思った以上に大きな変化をおれにもたらした。

 翌日大学に行くと、顔見知りの何人かが俺を見て妙な顔をした。何があったのかと思っていると、昨日の友人がすばやく声をかけてきた。

「おっ、高崎! お前の予言当たってんじゃん!」

 それを皮切りに、わらわらと人が集まってきた。

 例の脱線事故は近年まれにみる大事故となってしまい、電車通学をしている学生も多い学内は事故の話で持ち切りだった。そこへ持ってきて例の友人は顔が広い。話題性も相まって、おれの知らないところで噂が広がっていたのだ。その日、おれはすっかり本物の予言者であるかのような扱いを受けることになってしまった。

 もちろんおれに予言の力などない。仮に何か能力を持っているとすれば、それはおれではなくてあの高架下にいる女の方だ。

 ところが「いや、高架下の女がさ……」と話を始めて、おれは改めてあの女の不気味さを味わうことになった。その場にいた誰もが「そんなひと見たことがない」と主張するのだ。

「その高架下って、あの暗くてジメジメしてるとこでしょ? わたしの家もそっちの方だから時々通るけど、そんな気持ち悪いひとがいたら怖くて通れないよ」

 いつの間にかおれの正面を陣取っていた北原さんが、そう言って笑った。おれのすぐ向かいに座り、机の上に腕を組んでいるので、おっぱいがやけに目につく。

「もし高崎くんが、その女のひとの言葉を伝えてるだけだとしてもさ、高崎くんに何か不思議な能力があるってことには変わりないんじゃない? その場合は予知能力じゃなくて、霊媒師的なものになるんだろうけど……あっ、ねぇ今日の分の予言は? 何かない?」

 ぐいぐい来る。身を乗り出すと余計におっぱいが目立つ。おれはなるべく北原さんの胸を見ないようにしながら、「ごめん、今日は特に何も」と答えた。

「えー、残念。じゃあ、また何かあったら教えてよ」

「う、うん」

 その日の夕方、おれはひとりでこっそりと高架下の道に向かった。怖くないと言ったら嘘になる。だが、何かしら予言らしきものを仕入れたい気持ちが勝った。

 女はいつも通りそこにいて、壁に指を滑らかに這わせている。まるで、そこにこれから起こることが書かれていて、それを読んでいるのだとでも言うように。

 やっぱり幽霊には見えない。足もあるし、透けているわけでもないし、様子がおかしい以外は至って普通の人間のようだ。ぶつぶつと低く呟く声すらも、小さくはあるがちゃんと聞こえている。これが他の人間には見えていないのか……そう思うと怖ろしかったが、反対にワクワクするような気持ちもこみ上げてきた。

 おれは女のすぐ斜め後ろに立ち、その言葉に耳を澄ませた。


 女の言葉を聞くようになってから、わかったことがあった。

 女の予言は、今日これから起こることに限られるようだ。少なくともおれに聞き取れた限りでは、明日以降の未来を告げることはなかった。だからいきおい、俺が高架下に行くのは朝になることが多かった。

 予言が外れることはなかった。大きなことから小さいことまで、女から聞き取ったことはすべてその通りになった。午後から突然雨が降り出すこと、有名な俳優の訃報、文学賞の受賞者……皆がおれの話を聞きにくるようになった。

 正直、有頂天だった。おれのことを疑うやつ、悪く言うやつもいたが、そんなものは有名税だと切って捨てることができた。スマホのアドレス帳には北原さんをはじめ、女子の連絡先が増えた。

 夏休みの間も、おれはほぼ毎日欠かさず例の高架下に向かった。女はいつも同じところで、同じように指を壁に這わせ、ぶつぶつと呟いていた。やがて人生で一番充実した夏休みが終わり、残暑の中、ふたたび授業が始まった。

 風向きが変わったのは、その頃のことだ。


 そろそろ十月も半ばになろうというのに、その日はやけに暑かった。

 朝、おれはいつものように高架下に向かい、女の斜め後ろに立った。ふと彼女の指先を追ってみるが、相変わらずどう見ても、壁に何か意味のあるものが書かれているようには見えない。ただ女はあたかもそこから何かを読み取っているかのように、指先を見つめながら何事かを囁いている。

 耳を澄ますと、浮き上がるように聞き取れる言葉があった。

「……13時49分、●●大学正門前で全身を強く打ち死亡」

 それはまさに、おれたちの通う大学の名前だった。

 言ったとおり、女の予言は「今日のこと」と相場が決まっている。そして予言は外れたことがない。つまり今日、誰かが正門前で死ぬ。

 案の定、大学で話すと大騒ぎになった。

「全身を強く打ちって、何が起こるの?」

「ていうか本当に誰か死ぬん?」

 何人かは薄気味悪そうな顔でおれを見ていた。まるで責めるような視線を感じて、おれはついイライラした。お前らだって今まで楽しそうに話聞いてたじゃないか。忘れたのか? 彼らはおれのことを一体何だと思っているのだろうか。

「ま、何が起こるかはあと三時間もすればわかることじゃない。そうだよね? 高崎くん」

 北原さんが場をとりなすように、よく通る声で言った。それで何となくその場は解散となり、おれも授業に出なくてはならないので、目的の大教室に向かった。一緒にくるやつはいなかった。

 その日は妙に忙しかった。授業の後で教授に手伝いを頼まれ、コピーをとったり資料を運んだりしているうちにいつの間にか午後の授業が近くなっていて、急いで昼食をかき込み、食後で眠くなってきた目を擦りながらなんとか小テストを受けた。テストが終わって教室を出たときにはすでに午後二時を回っており、スマホを見ると見たことのない数の通知が入っていた。

 13時49分、大学正門前に、運転中に心臓発作を起こして意識を失ったドライバーを乗せて、トラックが突っ込んできた。トラックは正門前にいた女子学生を撥ね、植え込みをなぎ倒してようやく止まったという。

 撥ねられた女子学生について、ニュースは「全身を強く打ち死亡」と伝えた。そう伝えるよりほかに仕様がないほど、北原さんの遺体はめちゃくちゃになっていた。


 特別扱いというのは孤独なことでもあるのだ、と思った。北原さんが予言どおりに死んでしまってから、皆はおれを露骨に避けるようになった。皆、明らかにおれを怖がっていた。まるで、予言を聞いてしまったから彼女は死んだのだ、と言わんばかりだった。

 それはそうかもしれない、と思った。北原さんがあのとき正門前にいたのは、予言が当たるかどうかを確かめるためではなかっただろうか。あの予言を聞かなかったら、彼女は正門前に行かなかったかもしれない。もっとも、今となっては確かめようのないことだが。

 突然ひとりぼっちになったおれは、それでも毎朝高架下に通った。予言をしてちやほやされたいからではなかった。いつ行ってもそこにはあの女がいて、いつも通りに壁を見つめ、小さな声で何かを読み上げていた。その姿だけはずっと変わらず、おれはそのことに安堵を覚えていたのだ。

 彼女の予言は必ず当たる。少なくとも今までの予言はすべて当たった。それは凄いことだ。彼女も、そしてそれを他人に伝えることができるおれも、もっと褒められるべきだと思った。

 なのにおれはすっかり孤立してしまうし、この女性に至ってはおれ以外の誰にも、その存在すら気づかれていない。本来ならばもっと大切にされてしかるべきなのに、そうなっていないのはおそらく、世間の方がおかしいのだ。

「ねぇ、そうじゃないですか。師匠」

 なんとなく師匠と呼びかけてみた。彼女には壁が読めるが、おれには読めない。だから師匠だ。もちろん彼女は何の反応も示さず、ただ壁を見つめ、指を動かしていた。

 おれは師匠のすぐ右隣に立ち、自分も同じように右手の人差し指を上げた。そして彼女と同じように、それを壁に這わせる真似をした。師匠の右手の動きを注意深く見つめ、それを再現するように努める。そうやっているうちにいつの間にか太陽は中天を過ぎ、気づいたときには日が暮れかかっていた。

 あまりにも時間が経っていたので驚いた。すぐに暗くなってしまう。おれはアパートの方に足を向けながら、「また来ます」と言って頭を下げた。

 次の日の朝、おれはいつもより早く起きて高架下に向かった。

 やっぱり師匠はそこに立っていて、壁に書かれた何事かを読んでいた。おれは彼女の真横に立って、さっそく真似を始めた。

 背後を通り過ぎる人たちが、不審そうにおれを見る気配を感じたが、それどころではなかった。師匠の真似は難しいのだ。集中していないとすぐに動きを見失ってしまう。指の動きと壁を見ること、それを同時にこなす必要があった。

 おれは朝から晩まで、高架下で師匠に壁の読み方を習った。彼女は何も言わないので、おれにできることと言ったらひたすら真似ることだけだ。

 それでも時々はなにか、頭の中でパズルのピースが噛み合うような感じがして、壁の一部がふわっと浮き上がってくるような気がする。やっぱりこれで正解なのだ、とおれは確信した。ここで練習を続けていれば、そのうちおれにもこれが読めるようになるのだ。

 今日これから起こることが、すべてここに書いてある。それをあらかじめ読むことができるのだ。まだ地上にいる誰もが知らないことを、おれたちだけが知っている。なんて素晴らしいことだろう。

 毎日練習を続けているうちに、だんだんおれにも読めるところが増えてきた。それがたまらなく面白い。ずいぶん慣れたので、辺りが暗くなっても指先の感覚だけで読むことができるようになってきた。

 おれは大学にも行かず、とうとうアパートにも帰らなくなった。高架下に立ち、師匠と並んで壁に書かれた「今日」を読む。小さく呟きながら一心不乱に読んでいると、まったく疲れないし腹も減らないのだ。

 世の中にこんなに面白いことがあるなんて、俺は知らなかった。すべてを読み終えるまでにもう次の日が始まってしまい、おれは慌てて新しい一日の出来事を追い始める。そこに書かれたすべてを読みつくそうとする。

 夢中でやっているうちにいつの間にか師匠のことも目に入らなくなって、そしてふと気づくと彼女の姿は消えていた。でもおれはもうひとりでここに書かれたものを読むことができるのだから、師匠がいようがいまいが関係ない。おれはひたすら読み続けた。


 もう何日、何か月、何年ここに立っているのかわからない。でもそんなことはどうでもいいことで、何しろ一日は短く、新しい「今日」が次々にやってくる。

 おれはそれを読むのに忙しい。

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