早春、梅に雀の事

壱 僕は意地を張る

「大丈夫なんですか」


 心配そうな千代さんの声に顔を上げる。

 最近は月に五、六点は描いているだろうか。ありがたいことに注文が増えて、帳面が予定で埋まっている。


 実は秩父にある旅館からも依頼がきていて、骨休めを兼ねて行けるなら、と密かに心躍らせている。

 疲れやすいなんて言ったら、出かけるのも止められそうだ。そう思った僕の口からは千代さんへの答えとは別の言葉が出てくる。


「うん、絵を描きに行くんだから楽しみだよ」


 僕も忙しすぎるのはよくないと思っている。先生からも「休みながら」というのはずっと言われているのだから。


「そうじゃなくて、体は大丈夫なんですか」


 ああ、千代さん。睨まないでくれないか。心配はわかるけれど具合が悪いわけじゃない。なんとなく疲れやすいような気がするだけなんだ。

 

「薬も飲んでいるし、先生にも診ていただいたばかりだから大丈夫だよ」


 僕は意地を張る。

 千代さんは根負けしたようにため息をついた。


「約束ですよ、ちゃんと休んでくださいね」


 真剣な目で言われて、それに頷いて出かけてきた。

 景色が気に入って山水を描こうと下絵を描き始める。これならと色を入れて、いい感じに仕上がってきた。

 熱い。この高揚した気分がいい。もう少し、あと一筆と手を入れていく。

 ふわふわと地面が浮き上がる。


「先生!?」


 おかしい。浮き上がる気分だったのに体が重い。腕が上がらない。

 参ったなあ。後は仕上げだけなのに、これじゃ絵筆が持てない。


 それにしても今日は暑いな、少し風を入れてくれないか。


「よかった、目が覚めましたか」

「あれ?」


 しまった、寝過ごしたか。どこまで描いたっけ。


「熱が出て丸一日お休みでしたよ。ああ、本当によかった。お医者様にお伝えしてきますね」


 熱が出た?

 聞こえてくる安堵の声に、少しずつ状況が飲み込めてきた。そうか、僕は倒れたのか。そんなに根を詰めて描いたわけでもなかったのに。


「あの、すみません」


 恐縮しながら声をかける。


「滞在が延びることを家に伝えたいのですが」

「覚えていらっしゃらないのですか」


 驚いたような言葉が返ってきた。

 家の者が心配する。きょうが乗ったので、もう少し絵を描いてから帰ると伝えてくれ。そう言ったのだそうだ。

 全然、覚えていない。


「その後、眠ってしまわれたので私共も躊躇ちゅうちょしましたが、結局その通りにお伝えしました」

「……ありがとうございました」


 家に帰るのが怖くなってきた。



 絵を仕上げて代々木に戻った僕は、そっと家の中を伺っている。千代さんは買い物かな? よし、今のうちに……


「おかえりなさい、ミオさん」


 ふすまに手をかけたところで、僕の後ろから閻魔えんまの声がした。


「た、ただいま、千代さん。買い物にでも行ったのかなと思って……」

「お疲れでしょう。お茶を煎れますから、そこに座って待っててくださいな」

「……はい」


 外へ駆け出す子ども達に向けた顔はいつもの菩薩の顔なのに。


「駿のこと、見ててあげてね」


 声だって優しい。なのに振り向いて僕に向ける顔はどう見ても閻魔顔だ。今日は駆けていく子ども達の元気が恨めしい。

 僕の前に茶を置いた千代さんは、おかえりなさい、ともう一度言った。


「どうでした?」

「うん、なかなかいい旅館だったよ。景色もよくて筆も捗ったんだ」

「体は大丈夫でしたか」

「それは宿から知らせたと思うけど」


 そう言ってちらりと様子を伺う。これは駄目だ。心配させないためだとしても生半可なまはんかに言い訳なんてしたら大変なことになる。


「ええ、でも興が乗ったなら早く描いてしまうのがミオさんでしょう。病気のことは気にしてらしたから、根を詰めて描くことはないでしょうし。だから、なにかあったんじゃないですか」

「……ごめんなさい」


 やはり千代さんは僕のことをよくわかってる。

 熱を出して倒れてしまったことを話すと、一瞬、顔がこわばったけれど無事に戻ってよかったと胸をなでおろしていた。


「千代さんの言う通り、少し休んだ方がよさそうだ」

「お願いですからそうしてください」


 ようやく千代さんの顔から閻魔が引っ込んだ。


「……そうそう、高橋様から言伝ことづてをお預かりしてますよ」

錬逸れんいつから?」

「ええ、すれ違いでしたね」


 なんだろう、新造船しんぞうせんの装飾のことかな。いつも世話になってるし、あいつの仕事はきちんとしたいなあ。


「あの、一言一句たがえずそのまま伝えてくれ、と言われたのですが」

「うん」

「では、読みますね」


 お前は馬鹿か! 黙って千代さんに怒られろ。

 興が乗ったからもう少し描くだって? 下手な嘘を言うんじゃない。お前の絵は突拍子もなく面白いけど、嘘は下手くそだから丸わかりだぞ。


 なんで丸わかりかって、俺が見に行ったからだ。

 具合が悪くなったならそう言え。もっと自分の体を大事にしろ。きちんと休んでしっかり治せ。今度やったら俺も本気で怒るからな。


 お前の馬鹿は死んでも治らんだろうから、せめて病気くらいは治すんだぞ。


「だ、そうです」


 千代さんが泣き笑いの顔になる。


「連絡を受けた時ちょうどいらしてくださっていて、そのまま行ってくるとおっしゃって」

「そうだったんだ。ごめん……疲れやすい気がしたんだけど絵を描きたくて。だけど本当に骨休めのつもりだったんだ。そんな風に連絡してくれって言ったのも覚えてなくて」


 ここまで泣くのを我慢していたんだろう。千代さんはぼろぼろと涙をこぼした。


「ミオさんは馬鹿です」


 涙が流れるままに馬鹿ですと繰り返す。


「高橋様がいらっしゃらなかったら、なにも知らないままだったじゃないですか。もし、ミオさんが戻ってこなかったらどうしたらいいのかと、怖くてどうしようもなくて」

「ごめん」

「ご無事で戻られて本当によかったです」


 子どものように泣く千代さんの背をさすって、僕はごめんと繰り返す。

 しばらく泣いて落ち着いてきたらしく千代さんはようやく涙を拭った。


「すみません、取り乱してしまって」

「謝るのは僕だ、また病気のことで千代さんを泣かせてしまった。本当にごめんよ」

「違うんです、責めてるわけじゃないんです」


 千代さんは言ったきり口を押さえて俯いてしまった。

 病気を軽くみたつもりはなかったのだけれど、無鉄砲な自分の考えにうそ寒くなる。絵が描けることに浮かれていた。遠出をするなら、もっときちんと準備をしなければならなかったんだ。


「ふたりの言う通りだな。きちんと休むよ。仕事も少し減らす」


 千代さんがほっとした顔で頷いた。


「高橋様にもお礼を申し上げないといけませんね」

「うん、本当にあいつの心遣いがありがたいよ。だけど千代さんにこれ読ませるのはなあ。ちょっと口が悪いぞ」


 赤い目の千代さんが、やっと少し笑ってくれた。


「私の鬱憤うっぷん晴らしになるから、思いっきり言ってやれって言われました」


 まったく錬逸ときたら。なんてことをするんだ。


「入れていた予定は待ってもらえるように手紙を出すよ。少しゆっくりやらせてもらう」



 その後、家に籠るようになってからは、また少しずつ落ち着いてきた。今の僕はあちこちと動き過ぎず、このくらいの調子でやるのがいいんだろう。

 今日は病院へ行く予定だ。ゆるりと歩いて電車に乗る。


 東京へ来たばかりの時は馬車鉄道だったけれど、今は電気の工事がされて府内のあちこちに楽に行けるようになった。景色が流れる中をゆらゆらと電車に揺られていく。

 昔は鉄道賃も高くて中々乗れなかったんだよなあ。この二十年という時の流れと技術の力には目を見張る。


 今日も人々はせわしなく流れていく。したたかに生きていく。こんな風に活気がある人々の様子も面白い。のんびりした代々木とは別世界のようで興味深い。だけど僕の描きたいものとは少し違う。


 僕は草木の静かな勢いが好きだ。静かで力強い遠く広がる世界を描きたい。

 子ども達にも絵を描いてあげようか。一緒に走って遊ぶことはできないけれど、これなら僕にもできる。


「絵を描いてあげよう」


 夕飯の後に言ってみた。


「とうさま、なにをかくの」


 三人に囲まれながら描いていく。


「すごい、手品みたいにどんどん絵ができていくね!」


 柳にさぎ、林の中の鹿、竹林、あしに鴨、それから山水、思いつくままに十枚ほども描いてみた。


「実はね、なにか描いてあげようと思って、電車の中でずっと考えていたんだ」


 春夫は絵を描くのが好きなようだ。僕の手元を覗きながら、いつまでも傍を離れない。


「描いてみるかい?」

「うん!」


 子ども達に聞くと、やはり春夫が一番に声を上げた。

 筆運びはあまり早くならないように。紙に筆をつく時と離す時は力を入れること。

 形はあまり似ていなくてもいいから、多少大胆でも思い切り描く方がいい。


 美校の頃を思い出すなあ。

 古画の模写も写生もたくさん描いた。もちろん一文字の線描きも。やまと絵も南画も描いたし、狩野派や円山派の絵も、光琳、宗達も勉強した。


「最初はいろいろな絵を一度にたくさん描くよりも、ひとつのものを何度も繰り返し練習するといいよ」

「父様みたいな絵も描ける?」

「うん、でも僕の絵と同じものじゃなくていいんだよ。春夫は春夫の絵を描けばいいんだから」


 この子はどんな絵を描くんだろう。優しい温かい絵だろうか。

 願わくは、この子が自分の絵を自分らしく描けるような世界であってほしい。

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