玖 黒き猫

 岡倉先生から本当に嬉しいお言葉をいただいた。楽しみにしていてくださるのだからなんとしても大作を出したいのだけれど、僕の思いを知らぬげに『雨中美人』は素気ない顔でこちらを見る。

 はぁ……嫌われているのかなあ。こんな着物を着せるのかと言われているような気さえする。描きたいこころもちはあるのだけれど、どうも上手くいかない。


「あの人は僕を嫌っているのかもしれないな」

「誰に嫌われてるんです?」

「僕の着物が気に入らないらしくて」


 屏風を前に頬杖をついて、ぼんやりと呟く。


「着物を贈るほど素敵な女性ひとがいるんですか」

「うん」

「ミオさん」

「うん?」


 千代さん? なんでそんなに睨んでるのかな。


「いい仲になりたい女性がいるんですね、わかりました。私はお邪魔のようですね」


 千代さんはなにを怒ってるんだ。僕が好きなのは千代さんだけだというのに。

 ポンと千代さんの顔が赤くなった。


「千代さん、どうしたの? ごめん。少し考えごとをしてて」

「なんでもないんです。ちょっと意地悪をしてみようかなって思ったらやり返されたというか」

「……そうなのか。僕、もしかして何か言っていたかい」

「いえ、本当になんでもないんです」


 赤い顔のまま千代さんが俯く。その様子がなんだか少女のようだ。千代さんにはやはり野の花の可憐さが似合うなあ。


「ミオさん、そんなに見られてると恥ずかしいです」

「ご、ごめん」

「なんだか悩んでいる風だったので、気分を変えられたらいいなと思ったんです」


 なかなか上手くいかないと千代さんはため息混じりに言った。

 気にかけてくれたのか。少し話してみようかな。なにか僕の思いつかないことが引き出されるかもしれない。


「実はさ、この絵の着物の色が納得いかなくて。どうしたらいいかとずっと考えていたんだ」

「それで同じような色をいくつも試していたんですね。このまま描き進めるのは……」


 言いかけた千代さんに僕は首を振った。


「ううん、難しいですね。それならいっそ違う絵、は大変なことですものね。すみません、あまりお役に立てなさそうです」


 文展に間に合わなければ意味がない。画題があれば違うものでもいいけれど。今回の出展は諦めなくてはならないかもしれない。

 悩みが尽きない僕の前をなにかが走り抜けた。


「秋! そんなに追いかけたら逃げるだけだって」

「だって抱っこしたいんだもの」


 追いかけていたのは子どもたち。追いかけられていたのは猫だった。


「うわっ!」


 間近をかすめて行く猫に驚いて思わず飛び退く。


「あらあら。その子、確か焼き芋屋さんとこの子じゃないかしら」

「うん、秋が追いかけるから逃げちゃうんだよ」


 千代さんが煮干しをひとつまみ持ってきて、ほらと差し出す。

 黒猫はフンフンと鼻を鳴らすとするりと寄ってきてカリポリと煮干しをかじりだした。


「ミオさん、猫苦手でした?」

「うん、あんまり好きじゃない。寄って来られるとちょっと……描くのは好きなんだけど」


 実際、描くとなると面白い素材なのだ。毛並みの様子とか動きとか。古画模写の仕事をしていた時に、北宋ほくそう徽宗きそう皇帝が描いたと伝わる『猫図』の模写を、教材として美校に納めたことがある。


 描くのはいいんだ。『猫梅ねこうめ』や『春日かすが』も猫を題材に描いたものはたくさんある。まあ、模写から描いたものではあるのだけれど。

 描くのはいいんだよなあ。

 紙を手にした僕は顔をしかめながらその黒い猫を描きはじめた。


「好きじゃなくても描くんですね」


 千代さんは猫をなでながら苦笑した。

 どうも僕が描いていると警戒されてしまう。よく見ようとこっちが身動きするとさっと避けようとする。見たいだけだっていうのに。

 猫が緊張して身がまえる。


「あっ」


 逃げてしまった。もう少し見たかったな。あの猫を描きたい。


「春夫に一番懐いてるみたいですから、借りてきてもらえばいいんじゃないですか」


 千代さんが言う。


「そうなのか。春夫、頼めるかな」

「いいよ、行ってきます」


 春夫が猫を借りて戻ってきた。抱いたまま猫を撫でている。秋成が僕も僕もと手を伸ばす。


「父様、離して大丈夫?」

「……うん」


 ごくりと唾を飲み込んで僕は返事をした。

 そっと床に下ろされた猫は不思議そうな顔で周りを見回して。

 不意に逃げ出した。


「あっ!」


 少ししか見られなかった。


「……父様、もう一回行ってこようか」

「うん、頼むよ」


 あれから何度このやり取りを繰り返しただろう。いい加減、猫も慣れてほしい。

 耳を反り返らせて、身がまえて、毛が少し逆立って、瞳孔が細くなっていて。借りてきた猫っていうのは大人しいんじゃなかったのか。

 後少し、もう少し見たい。もう少し描かせてくれ。逃げ出すそのたびに春夫が走っていく。


「ごめんください」


 ああ、まったくもう! 誰だ、こんな時に。また猫に逃げられてしまったじゃないか。

 猫も猫だ、ちょっと確認したいだけなんだから大人しくしてくれたらいいのに。


「秋元さん!?」

「商用で近くに参りましたので寄らせていただきました。ずいぶん賑やかですね」

「申し訳ありません、文展に出す絵を描いている途中でして」


 今回どんなものを出すのか見に来られたのかな。

 正直この程度の小品しょうひんじゃ鼻も引っかけないかもしれない。


「描いているのは猫の絵なんですよ。屏風絵が納得いかなくて。まあ、出品しないよりは出したいと思って描いているんですが……」

「どうも、寺内です。春草先生いらっしゃいますか」


 千客万来せんきゃくばんらいだ。


「銀次郎さん、今日はなんです」

「今描いているのを五日のうちに仕上げるからって言ったのは春草先生でしょう。急ぎだと思ったから先に絵を見せてもらって裂地きれじを選んでおこうと思ったんです。まあ、仕事のついでなんで……」


 ああ、そうだった。

 それにしても二人ともついでで家に寄るのか。気軽に寄ってくれるのは嬉しいけれど何も今日じゃなくていいのに。


「五日!? ああ、失礼。五日で仕上げると言われましたか」


 銀次郎さんの言葉に秋元さんが反応した。

 この先生は早描きだからと銀次郎さんはからから笑う。

 そういえば初見しょけんだったか。僕は秋元さんと銀次郎さんに互いを紹介する。そうして描きかけでよければと画室に案内した。

 絵の前で二人ともが腕を組んで唸る。


 幅一尺六寸の絵絹の左下からごつごつとした幹が斜めに登る。柏の枝葉はまた戻ってきて絵の半分ほどを埋めていく。

 葉は金泥きんでいで輪郭を取り、緑青ろくしょうのぼかしでまだ染まりかけの葉の色を出す。重なり合う葉は正面を向けて。平面的な同じ意匠を繰り返すのは光琳風の技法だ。


 猫の毛並みは何度も丁寧にぼかしを重ねて濃淡を表す。墨に胡粉を混ぜて塗る。そうすると不透明で質感のある黒になるんだ。ぺたりとした墨がふわりとした猫の毛並みに近づいていく。

 これは没線描法による写実表現、というところだな。


「菱田さん、これ買い手はついていますか」


 秋元さんが唸ったまま言う。


「いいえ」

「私が買います。誰にも売らないで下さい」


 小品だし買い手がつくとは思えなかったから本当にいいのかと秋元さんに聞いた。


「むしろなんで売れないと思うんですか。これは評判になりますよ」

「そうなんですね。なら、俺もきっちり仕事させてもらいます。絵の邪魔をしないように見せる軸装じくそうをしますよ」


 力強く言う秋元さんに銀次郎さんが応える。よろしくお願いしますと僕をそっちのけで二人が手を握り合う。


「あのう、ちなみに何処が気に入られたのか聞いてもかまいませんか?」


 僕が聞くとふたりは少し困ったような不思議な顔をした。


「この猫の緊張した様子は今にも逃げ出しそうじゃないですか。猫の目の先に困った顔の菱田さんが見えるようです。私はこの猫好きですよ」

「それはわかるなあ。春草先生、猫苦手なんでしょう。よく描こうと思いましたよね」

「そこ、なんですか……」


 わかるわかると頷くふたりに、僕は呆然とそう言うだけだった。

 この『黒き猫』は描き上がりに少し不満があったのだけれど、ありがたいことに高値で買い取っていただけた。好きですよという秋元さんの言葉が一番嬉しかったなあ。


 絵画というものは描く側と見る側、両方がいて成り立つ芸術なのだと思う。今回の作品で絵を見る人の距離を改めて知ることができた。

 猫の前にいる僕の困った顔が見える。そんな風に言われたのは複雑な気持ちだったけれど、想像する距離感というのもあるのだな。どう見てくれるのかを考えて描くのも面白い。絵の見方というのは人それぞれ、作品それぞれで違って本当に興味深い。


 開催された文展では秀さんの作品も評判になった。

燕山えんざんまき楚水そすいまき』は「大観は着想の奇抜をもって」という講評通りの作品だった。

 水墨絵巻に写実や遠近法などの西洋画の要素を取り入れたもので品格があっても古臭くない。迫力、明暗の表現、明るい空気感、多彩な描法。

 本当に面白い描き方をする人だ。一作ごとにまるで違う作風のものを出してくる。


 それは絵に対して貪欲で吸収が早いからなのだろう。古画ばかりではなく僕らが描いたものからでも何でも取り入れていく。

 悔しいけれど伝統的な日本画と西洋画の境界を打ち破るのは秀さんが一番なのかもしれないとまで思わされる。

 負けていられないな。やってみたいことはひとつずつ確かめて次に進もう。やり残したことがないか気にするよりは確実に積み重ねていくのがいい。もっと描かないと。まずは光琳の絵をもっと研究してみたい。


 文展が終わってあれからまた依頼が増えた。猫の絵が多いのには苦笑いしか出ないけれど、せっかくの注文なので楽しく描いている。

 ただ、忙しいせいか少し疲れやすくなった気がする。

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