捌 どんな絵になるんだろう

 ようやく暖かくなってきた頃、久しぶりに秀さんがやって来た。


「寺崎さんと中国へ行ってくるぜ」

「急ですね」

「いや、前から考えてはいたんだが、やっと折り合いがついてな」


 寺崎さんは確か美校の教員に復職されていたっけ。画塾も開いていたから、折り合いというのはその都合だろうか。


山岡やまおか米華べいか君も一緒だから、南画を勉強してみようと思ってるんだ」


 珍しい顔ぶれだなあ、どこで知り合ったんだろう。文展の審査委員だったからかな。寺崎さんも酒が好きだって言ってたから秀さんとウマが合いそうだけど……あれ?


「山岡さんて郷里くにはどこなんです?」

「高知だそうだ」

「その顔ぶれでの旅行は、だいぶ酒が飲めそうでいいですね」


 いやあ、と秀さんは照れたように頭をかく。僕は褒めてないぞ。


「飲み過ぎは駄目ですよ」

「そうじゃねえ。そうなんだが、そうじゃねえんだ」

「どっちなんですか」

「いや、山岡君は土佐人で作ってる美術会で、洋画家や彫刻家とも一緒にやってるから結構顔が広いんだ。学ぶ機会は多いほうがいいじゃねえか」


 いぶかる目を秀さんに向ける。

 ちぇっ、と口を尖らせるのがおかしくて吹き出しそうになった。


「南画も面白そうですね」

「だろ? 寺崎さんが新南画って言われて評判だったろう。そもそも向こうの画風だ。現地で写生してえし、墨もいいものがあったら欲しい」


 楽しそうに言う秀さんが少し羨ましくなった。


 行ってくる、と手を振った秀さんが帰国したのは、ひと月ほど後のこと。

 なぜか驢馬ろばと一緒だった。目を点にする僕ら家族の前で、そいつは高い声でいなないた。


北京ペキンでこいつに乗って観光したんだが、気に入っちまってなあ」

「はあ」


 そんな言葉しか出てこない。聞けば寺崎さんも買ったという。


「ただ、どうにも鳴き声が煩いんだよ。寺崎さんに相談したら、もう動物園に寄付したって言うし……」


 どうすっぺかなあと、訛りにも気づかず呟いたところは本当に困ってるみたいだ。もう気の毒やら、おかしいやらで腹がよじれる。


「ところで、いいのは描けました?」


 まだ半分笑いながら僕が言う。


「おう、山水の絵巻を描こうと思ってる」

「次の文展はそれですか」

「楽しみにしとけよ」


 この感じだと、もう描きたいものが目の前に見えているんだな。仕上がりが楽しみだ。どんな絵になるんだろう。


「じゃあ、そろそろ帰るよ」


 立ち上がった秀さんは、驢馬を見るとげんなりと肩を落とした。

 置いていくわけにもいかんな、と連れて帰っていったけれど、あの驢馬どうしただろうか。


 あの時の事を思い出したら、また笑いがこみ上げてきた。秀さんのことは考えるだけでも気持ちが明るくなる。

 今は何を描いてるんだろう、あの時言っていた山水の絵にはどんな工夫をしてくるんだろう。それを思うと僕も次は何を描こうかとわくわくしてくる。

 そうすると考えの中から不意に絵の構想が飛び出してきたりするんだ。


 その気持ちのまま、題材を探して周りを見回す。

 家にいると、当たり前だけれど千代さんの働く姿が目に入る。くるくるとよく動く。そういえば、あまり人物を描いていない。今回は美人画を描こうか。


「ねえ、千代さん」


 振り向いた彼女は、前掛けを払いながらやって来た。


「どうしたんです。お茶でもれますか」

「絵を描かせてくれないかな」


 目を丸くした千代さんは、クスクスと笑いながら口に手を当てた。


「美校の時みたいですね」


 うわあ! 恥ずかしいことを思い出してしまって思わず手で顔を覆った。

 あの時は名前も聞かないで飛んで帰ってしまったんだよなあ。だから次の日は本当に来てくれるか心配で、ずいぶん早くから待っていたんだ。


「私は、ミオさんが名前も聞かずに行ってしまわれたから、どうでも次の日参ってお助けしないと、って思っていましたよ」

「そうだったんだ。ありがとう、あの時は本当に助かったんだよ」


 千代さんの助けがなかったら今の僕はなかったかもしれない。ああ、それは今もそうだな。


「さあ、春草先生。どうすればいいんでしょう」

「そうだな……下駄と傘を持ってきてくれるかな」


 座敷の中で下駄を履いて雨傘を差して。少し歩いたところで止まってもらう。

 そのまま何枚も紙に写す。少し角度を変えて。止まって。紙に写す。そう、片足だけ変えて。下駄の前歯だけ下につけて。そのままで。また紙に写す。


「そのまま、体だけもう少し右を向いて。そう、そのままじっとして」


 後はこっちの傘の向きを……

 バタンと大きな音がした。驚いて顔を上げると千代さんがいない。


「千代さん?」


 倒れてる! しまった、夢中になってた。


「千代さん、しっかりして」


 水だ、水をんでこよう。


「大丈夫かい」


 ううん、と頭を押さえて顔をしかめている千代さんに水を差し出す。


「ちょっと目がくらんだだけです。大丈夫ですよ」

「ごめんよ、暑いのに夢中になってた」

「絵は描けました?」

「うん、大丈夫。描けたよ」


 それならよかったと言いながら、千代さんはやっぱり疲れた顔をしていた。

 しまったなあ、描き出すと夢中になってしまう。気をつけてたつもりだったんだけど。ともかく絵を進めよう。せっかく千代さんが手伝ってくれたんだから。


 下絵も進めて『雨中美人うちゅうびじん』と題した。

 色を塗り出したけれど手が止まる。違う、着物はこの色じゃない。それに描き始めてみると構図にも、もう一捻ひとひねり欲しくなる。


「今度は駄目ですよ。来られても本当に屏風はありませんからね」


 銀次郎さんが言った。

 表装をお願いしようと思っていた絵があって、連絡をしたら今日は仕事で代々木のほうへも来るという。それならと家にも寄ってもらったのだけれど。

 まったく。釘を刺さなくてもわかっているさ。


「それより、そこの描きかけの落葉の屏風も持って帰ってくれないかい? もう破っても売ってもいいから」


 はいはい、と屏風を動かし始めた銀次郎さんは、開いて中を確認すると慌てて言った。


「春草先生、これ、ほとんど描けてるじゃないですか。続き描かないんですか?」

「描かない」

「ええっ!? 春草先生ならサクッと描けるでしょう。そしたら売れると思いますけど」

「描かないよ。描いても納得いくものはできないから」


 そんなもんですかと、ため息をつきながら銀次郎さんは屏風を運び出した。

 納得できないものを描いていても楽しくない。そんなの洗い流して捨てた方がいいくらいだ。それよりこっちの屏風が問題だ。思った色が出ないのは楽しくないぞ。


 そうやって僕が着物の色と格闘している間に岡倉先生の波士敦ボストン行きが決まったとの知らせが来た。美術館勤務になるから、しばらくお戻りにならないらしい。

 ご挨拶に伺うと、久しぶりにお会いした先生は変わらずお元気なご様子だった。


「体の調子はどうだね」


 やはり外に出て仕事をされるのが、この方に合っていらっしゃるんだろう。溌剌はつらつとしたお声が聞けて嬉しく思う。


「おかげさまで、ゆっくりやらせていただいています」


 先生はそうか、と改まった様子で僕に頷かれた。


「実は文展の審査委員を君に頼めないかと思っているんだが」

「僕に、ですか」

「出立が文展よりも前になるから必然的に審査は欠席するしかないのだよ。体調次第と思っていたんだが、どうだね?」


 これは大きな責任だぞ。先生はこれを僕に任せてくださるのか。


「……わかりました。精一杯務めます」


 僕が緊張した顔で応えると、これで肩の荷が降りたと笑顔になられた。


「ところで、『落葉』見せてもらったよ。あれは本当に素晴らしかった。君の絵は情趣巧緻じょうしゅこうちも一番だが、あれは名品だね」


 僕はあたふたと頭をさげる。

 どうしよう、嬉しくて言葉が出ない。こんな風に先生から手放しで褒めていただけることなんてあまりなかったから。どうしよう、頬が緩む。


「あ、ありがとうございます!」


 やっとそれを言った僕は緩みそうになる口元をへの字に曲げる。それでも緩む顔をこっそり着物の袖で隠した。


「君の絵は実験室のようだから、次の試験で何を描いてくるのか胸がおどる。楽しみにしているよ」


 そのお言葉を残して岡倉先生は米国へと旅立たれた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る