陸 落葉

 僕が引っかかっていたのは互いに相容れない距離の問題で。畢竟ひっきょうそれは僕の描き手としての「こころもち」の問題であり、絵の奥行きの問題だったのだ。


 もっと遠くへ。

 そのためには広い場所を見せなければ。今度は六曲一双いっそうの屏風に描いてみようと思う。


 画面の手前に何か印象的な、見る者と同じ場所に立つものを……そうだな、明るく色づく若木を置こう。


 重なり合う木々をばらばらと配置する。本数もそれほど必要ない。もっとぎりぎり必要な分まで減らしていい。木々の間を開ける。見る者が目線を横に動かした時、意識せずとも背後の空間を見られるように。


 地面も薄く色づくくらいでいいだろう。うねる土坡どはの先へ続いている明るい場所に目を向ける。今いるところからもっと遠くへ広がって見えないだろうか。


 描いていて、ふと手を止めた。少し離れて屏風を眺める。

 これは……


 出かける支度を始めた僕に千代さんが驚いたように言う。


「ミオさん? お出かけですか。病院はこないだ行ったばかりでしたけど」


 ああいや、具合が悪いわけじゃないんだ。具合が悪いのは絵のほうで、こればかりは僕にはどうしようもない。


「ちょっと谷中やなかへ行ってくるよ」


 描きかけの屏風を放り出して急いで出かけて着いた先は、谷中天王寺てんのうじ経師屋きょうじや寺内てらうち銀次郎ぎんじろうさんのところだ。


 急いだせいか、着いた頃には少し疲れていた。

 息を整えている僕を見て銀次郎さんが大丈夫かと顔を曇らせる。

 顔色の悪いのは今に始まったことじゃない。病気になってからずっとこうなんだ。こんなのはすぐ治る。ああ、僕のことはどうでもいい。


「屏風を都合して下さい」

「はい?」


 心配もそっちのけの僕の言葉に、銀次郎さんは戸惑った顔になる。

 まあ、注文もしていない屏風をくれと言われても、そうなるのは当たり前なのだけれど、僕にとって頼りになる経師屋はここだけなのだ。ここでなんとかならないなら文展は諦めるしかない。


「六曲一双の屏風が欲しいんです。今描いてるのがどうにも上手くない。描き直すので僕に屏風を下さい」

「ま、待ってください。いくらウチが経師屋でも、ないものは出せませんよ」


 僕は黙って希望を指差した。奥にまっさらな屏風が見える。


「あれは駄目です。寺崎てらさき廣業こうぎょう先生にあつらえたものですから」

「あれを下さい」

「廣業先生の屏風なんですってば」

「寺崎さんならお金持ちだし、他でもすぐ都合つけられるでしょう。あれを下さい」

「真顔でなに言ってるんですか! そういう問題じゃなくてですね」

「僕はここじゃないと屏風を都合するのが難しいんです。銀次郎さんのところが、一番安くて一番早くて一番いい屏風が手に入るんです!」


 駄目だと言ってくる銀次郎さんに向かって一気にまくし立てる。

 それに対する反論は、ぐうっという妙な声だった。


「とにかく屏風をいただけるまで帰りませんから」


 お好きにどうぞ、と銀次郎さんはため息をついた。

 文展まで日がない。代わりの屏風はどうでも早めに都合をつけなくてはならない。

 縁先えんさきに腰を下ろして返事を待つことにした。


 今描いている下絵に寄るなら十日ほどもあれば描けるだろう。それでもできるだけ早く取りかかりたい。


 目の前に『落葉』の絵が浮かぶ。

 なんで土坡を描いてしまったかな。地面は必要ないじゃないか。わざわざ描かずとも今立っているその場所なのだから、そのまま落葉だけを描けばよかったのだ。


 木の根元ももっと緩く見せていい。奥へ行くほど薄く霞む木の様子はそれだけで距離を表してくれる。

 橙に色づくとちと対比する緑の杉。その二つの若木を基点にして絵の中に入り込めればいい。


「春草先生」


 煩いな、もう少し描かせてくれ。

 手前の木はもっと写実的に、でも若木より主張しない。まっすぐ伸びる木もいいけれど、こぶのある木の様子は画面を支えてくれるだろう。小鳥がゆるりと遊ぶ。舞い散る落葉の……


「春草先生!」


 銀次郎さん? いつの間に来たんだ。もう少し描きたいから誰か相手をしてくれないかな。千代さんはどうしたんだろう。


「今、いいところなんです。もうちょっと待ってもらえますか」

「屏風、お持ちください」

「は?」


 本当に大丈夫ですかと聞かれ、ようやくどこにいるのか思い出した。そうだった、銀次郎さんのところに屏風を都合しに来たんだった。


「屏風ですよ。要らないんですか」


 銀次郎さんが苦笑しながら言った。


「いります、要ります! ああ、無作法ですみません。ありがとうございます」

「びっくりしましたよ、最初ぼうっと一点を見つめたきり動かなくなったでしょう」


 かと思えば、不意にぶつぶつと呟きながら手を動かし始めたそうだ。


「ちょっと気味悪くも思ったんですが、どうやら絵を描いているようじゃないですか。負けましたよ。本当に絵のこととなると強情な方ですね。うちの屏風を使うんだ、良い絵を描いてくださいよ」


 うわあ、これは恥ずかしい。苦笑する銀次郎さんの前で、僕は真っ赤になって頭を下げていた。

 ともかく銀次郎さんのおかげでなんとか文展には間に合いそうだ。ここから先はひたすら描くだけだ。


 幹を描き、腕を伸ばす枝の先から散る落ち葉を描く。

 装飾的な絵の面白味と、写実的な現実感とをひとつの絵の中に落とし込むために、いろいろと描き方も変えてみた。明るく伸びやかに、見る人の気持ちを引き込めたらいいのだけれど。



 第三回の文展は本当にいい作品が数多く出展されている。

 秀さんのは『流燈りゅうとう』と題された絵。印度での取材から描かれたものだ。


 あの時は衣服の着け方、装飾品の選び方まで事細かに聞いてたっけ。美人画なのに仏画の三尊さんぞん形式を参考にしているのも、情景の一部分を切り取ったような構図も新しい。

 なにより淡い色彩で描かれた女性が本当に美しいんだ。


 秀さんの絵はなぜか心を打つ。上手い下手で言えば他の人に敵わないところもある。けれど表れてくる「こころもち」が見る人の心に残すものが大きい。


 寺崎さんは美人画が印象的なのだけど、今回出展されたものは違う。写実や遠近の手法と、西洋のものをだいぶ取り入れている山水画だった。これは新南画なんがだと、もう評判になり始めている。


 逆に美人画を出したのは竹内たけうち栖鳳せいほうさんだった。

 動物を描くと素晴らしく上手いのに美人画も良い。『アレ夕立に』は鮮やかな色合いと写実の素晴らしさが、より女性の色香を際立たせている。


 そんな華やかな絵の中に、僕の『落葉おちば』も置かれていた。

 今日の内覧ないらん招待には秋元さんの顔も見える。あれもこれもと熱心に見ておられるのは、やはり良いものが多いからだろうな。


「菱田さん」


 秋元さんはにこにこと笑って近づいてこられた。


「いいですね。ここだけ寂寞せきばくというか静寂じょうじゃくというか、晩秋の風情を感じます」

「ありがとうございます」

「不思議な雰囲気の絵ですね」


 絵を見ながら秋元さんが呟いた。


「多分、距離の表わし方の問題だと思います。日本画の面白味と西洋の遠近法は合わないことがあるんです。これも絵の表現を重視したのでこんな描き方になってしまったんですが。本当に拙い絵でお恥ずかしいかぎりです」


 写実的な描き方の前景から霞む後景へ。全体を淡く色づけることで続いているように見せている。ともすれば後ろの木が浮いているように見えるのが、秋元さんの言う不思議な雰囲気なのだろう。けれど立てられた屏風を横から見ていけば、重なり合う木々の間からまた次の木が現れるように見えるはずだ。


「これは本当に面白いですね。最初、若木に目がいくんですが、その後は一気に絵の中に引き込まれます。まるで木立の間を散歩している気分ですよ。これはぜひ、私が買わせていただきます。他の方に買われる前に手続きをしなくては」

「ありがとうございます。秋元さんに買っていただけるなら嬉しいです」


 僕の絵は掛け軸一幅いっぷく弐拾伍にじゅうご円程なのだから、それからすると六曲一双は参百さんびゃく円が適当だと思う。そう言ったのに秋元さんはこの拙い作品に伍百ごひゃく円もの値をつけてくださった。


 あまりにもそれは過大評価ではないか。

 いくらなんでもそれでは高すぎる。そう言う僕と、その金額でいいのだと言う秋元さんの間でしばらくやり取りがあった。その後なんとか話はまとまったけれど、もっと値にふさわしい絵を描かなければ。


 そうして文展公開初日には「売約済」の札と、数日後には「二等第一席」の札が絵の横に貼られたのだった。


 この落葉の描き方をもう少し突き詰めて描いてみたい。まだやり方がありそうな気がする。


「おめでとう」

「秀さん! ありがとうございます。秀さんの絵も文部省がお買い上げになったんでしょう。おめでとうございます」

「ああ、これでやっとミオさんと肩を並べられる」


 国がその絵の価値を認めてくれて画家として大きく動き出せる。『流燈』は、そのきっかけになる。文展で賞牌を得る、評価されるということはそういうことなのだ。


「なあ、ミオさん」


 秀さんは、思いつめたような顔で僕の手を握った。


「俺は文展の審査委員も務めた。それは確かな評価のひとつだが、絵自体の大きな評価も欲しかったんだ。だから形振なりふりかまわずやってきた。周りにいる俺より上手い奴は皆嫌いだったよ。ミオさんだって妬ましかった。俺があれを描けたらどんなにいいか、っていつも思っていた……」

「秀さん」

「絶対負けねえぞ、ってな。そうは思っても俺はそんなに上手くはねえからなあ。ほら、ミオさんはすぐに上手くなっちまうだろ。俺がミオさんだったら、きっと俺の絵は今より十年も二十年も進むだろうって思った。正直、病気だってわかった時は……」

「秀さん!」


 僕はその懺悔ざんげを途中で切った。

 自分の中に入り込んでいたのだろう。秀さんは、はっとして顔を上げた。

 この人はそういうのも言ってしまうからなあ。言わずにはいられなかったのだろうけれど。


 言わせてやるものか。

 僕はこれでも結構酷いやつなんだぞ。


 僕が嫉妬や恨みという感情を持たないわけないだろう。病気で描けない間、秀さんや皆を羨ましく思っていた。なんで僕だけがと絶望した。まだ心にふつふつと残るこの感情を、こんな懺悔で終わらせられてたまるものか。


「いいんです。そこはもういいんですよ」


 そう言ってしまうのは秀さんの心に負担をいるのだろう。だけど僕も抱えていくから、だからこれで相子あいこにさせてくれ。

 これは心の奥に沈めてしまうから。


 それでも僕は真っすぐで努力家の秀さんのままでいてくれるだろうと信じている。

 絵を描こう。やりたいことも描きたいものもたくさんある。


「僕らは、これからどういう絵を描くかじゃないですか」


 秀さんは頷いて、もう一度僕の手を握った。



 賞牌を受けたことで『落葉』と同じ題材でという注文が多く入ってきた。

 細川護立氏もそのひとりだ。秋元さんが内覧会で落札したことを残念がっていたと聞いたから、彼の注文には全力で応えたいなあ。


 二曲一双の屏風。

 がさついた木肌は触れそうなくらいに、写実的な木々は賑やかに画面手前に集う。葉の一枚一枚は表を見せて装飾的な繰り返しを連ねていく。若木の背景は余白をとって広がりを見せる。

 薄く明るい色の背景に少しずつ溶ける木々が、奥へと続く距離を感じさせるだろう。


 うん、距離の表し方は難しいけれど、やはりこの描き方は面白い。

 彼はこの木立での散策を気に入ってくれるだろうか。


 次の六曲一双の屏風で『落葉』は終わりにしようと思っている。

 最後にもうひとつ、余白の表現を試したいのだ。


 前に描いた二曲の落葉の構図を横に広げる。まだ散り敷かれたままの落ち葉も木々も手前に置く。杉と柏の若木の傍に四十雀しじゅうから


 その後ろに余白を大きく取るような構図。これは下地にも着色しない。かないことで広がりのその先をえがく。


 木々や落葉が見えなくなるその先はどこへ続いているんだろう。この先はどこまで行けるんだろう。


「ねえ、千代さん。天壌無窮てんじょうむきゅうっていう言葉があるだろう」

「どうしたんですか、急に」

天地あめつちと共に永遠に続いていく。そんな風に、心と空間の永遠を表現することができたら素晴らしいなって思うんだ」


 その空間の先が見てみたい。その先の光を掴みたい。


「それがミオさんの描きたいものなんですね」


 千代さんの言葉に頷く。

 今はまだ目標にしか過ぎないけれど、これは僕の手で描いてやろうと心に決めている。もっと研究を突きつめたら手が届きそうな気がするんだ。

 

 この先の僕はもっと描けるはずなのだから。きっと描いた景色のその先へも行けるだろう。

 僕は描き終えた六曲一双の屏風に落款を入れた。

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