肆 光あふれる場所

 いつか仄暗い海に引きずり込まれるのだろうと思っていた。

 そこから這い上がっても深い森で迷っていた。そんな気持ちでいたから、治療のおかげで光が見えはじめてもここは遠い場所だったのだ。足掻いて足掻いてようやく抜けられた。ここは木の下闇を抜けた光あふれる場所そのものだ。


 作品が展示される。

 その瞬間を見たくて僕は早い時間から会場内をそわそわと歩き回っていた。

 久しぶりの展覧会が嬉しい。早く絵を見たい。あちらこちらで掛け軸がかけられ屏風が開かれる。絵の全体が見えるこの瞬間がたまらない。この空間にいられるのはなんて幸せなんだろう。


「楽しそうだねえ、菱田君。もう大丈夫なのかい」

「観山さん、お久しぶりです。河本先生には許可をいただきましたから」

「その言い方はまだ治ったわけじゃないのか。君はあまり物事を言わないからねえ、こちらも用心してかからないと」


 これは参った。訝しげに目をすがめて寄ってくる観山さんから、すいと目を逸らす。


「慢性腎臓炎があって、まだ治らないから無理はするなって言われました」

「隠しごとは無しにしてくれないかい。君の力になりたい気持ちは私だけじゃなく皆も変わらないんだよ」

「ありがとうございます。実はだいぶよくなったので治療費の件については斎藤さいとう隆三りゅうぞう先生にご相談したんです」


 これからは絵を売った収益で払っていくつもりだと言ったら、斉藤先生は自ら発起人になって春草会という頒布会を立ち上げてくださった。


「そうか、それは何よりだったねえ」


 観山さんは安心したように顔をほころばせた。

 画家が金のかかる仕事だというのは変えられないけれど、注文していただいたかたの絵も描けて、どうにか生活できるようにもなってきた。僕はこれから大いにやろうと思っている。


「そういえば観山さん、前回の『大原御幸おおはらごこう』は間に合ったんですね。確かはら三溪さんけい氏が買われたのでしょう?」

「ああ、実は岡倉先生と意見が割れていてねえ、まだ完成していないのだよ」


 驚いた。美校の教授を辞任してまで描いたと聞いたけれど。岡倉先生は大変に興味を持たれて、いろいろと助言をしてくださったらしい。


「原さんには気に入っていただけたようだから、また続きを描いているんだ」


 岡倉先生のお考えを表現できる観山さんだからこそなのだろうな。完成まで描くために、そこまで助言をいただけるのは羨ましいことだ。


「あの人は『賢首菩薩けんしゅぼさつ』も買われただろう」

「僕の絵はあまり気に入らなかったんじゃないですかね。あの方は観山さんのような古典的で格調高い絵がお好きなようだし」

「傾向としてはそうだろうがねえ」


 我ながら意地の悪い言い方をしてしまった。好みがあるのは当然なのだけれど、つい口が悪くなってしまう。


「買っていただけるのはありがたいですけど、好みじゃないなら買わなくていいと思ってます。僕は絵を気に入って買って下さるのが嬉しいんですから。僕だって自分が納得しないものをお渡ししたくはないですし、おあいこでしょう?」


 実際、『賢首菩薩けんしゅぼさつ』は細川護立もりたつ氏に譲られたと聞いた。好文亭こうぶんていへ来てくれたあの若いかたのところへ行くなら絵も嬉しいに違いない。


「やれやれ、君のきかん気は変わらない」

「僕のことより観山さんの『小倉山おぐらやま』はいいですね。『木の間の秋』にも通じるものがある。藤原忠平ふじわらのただひらでしょう」


 忠平が帝の行幸ぎょうこうを願い、和歌に詠んだ景色が美しい。色づく紅葉や蔦、写実的で丁寧な木々の描き分け。金地の鮮やかさが木の間に当たる光のようだ。こんなに鮮やかな秋の様子なら僕だって誰かに見せたいと思う。


「光琳風なのは僕も研究してみたいと思ってるんです」


 古典的な画面に光琳風の装飾は華やかだけど決して煩くはない。秋の静けさと忠平の思いがその中に見える。


「君の絵もいい秋の色を出しているじゃないか」

「習作もありましたし、画面に向かったら絵が見えてきて嬉しくなってしまったんです。楽しくなって一気に描いてしまいました」

「無理はしてないだろうね」

「大丈夫ですよ、久しぶりで本当に楽しかったんですよ」


 楽しい気持ちは皆に伝わるものなんだろう。最近は千代さんも子ども達もにこにこしている。だから僕も嬉しくなって楽しくなる。

 さてと、そろそろ秋元さんの絵巻を完成させなくては。この楽しい気分のままに描いたらきっと絵の中にもそれが見える。


 秋元あきもと洒汀しゃていさんには五浦で初めてお会いした。流山ながれやま醸造業じょうぞうぎょういとなんでおられる方で芸術の支援をしてくださっている。

 あの時、五浦での僕は心の余裕もなくて、絵絹と依頼の前金まで申し出ていただいたのに迷惑に思うような馬鹿だった。今、思い返せば自分の意固地さが空恐ろしい。


「このような状態なのです。治るかどうかもわかりませんし」


 そう言って秋元さんの支援を固辞しようとした。

 それでも諦めず何度も言ってくださった。


「あなたの絵が気に入ったのです。治ってからゆっくり描いてくださればいいのですよ」


 僕の絵を待っていてくれる人がいる。辛抱強く何度も言ってくださったその言葉が何よりも嬉しく身に染みて、それでお言葉に甘えることにしたのだ。その後も生活のことまで何くれとなく面倒をみてくださって本当にありがたかった。

 五浦で申し出を受けていなかったら僕はこうして生きてはいなかったかもしれない。それほどに秋元さんとの巡りあいは奇跡のように感じられる。


 一年という年月を描いてお渡ししようと思う。

 曙色に色づく春の山。桜吹雪が舞う中、水音が聞こえ始める。暖かい空気はやがて湿気を含んで雨になる。揺れる柳の下を川となって流れ人を運ぶ。

 季節が移る。霧の中、旅人は山を越えて先を目指す。


 小さな集落に辿り着けば、そこは木々が色をつけ実りの秋になっていた。荷を運ぶ人は牛を引いてのんびりと歩く。

 紅葉は川に錦を織り、やがて冬がやってくる。深閑しんかんとした空気が木々の間に満ち、川は海へと流れ込む。

 月は静かに世界を照らし出す。


 ちょうど描き終わった頃に秋元さんから連絡が入った。仕事の都合もあるからと、わざわざ家へ寄ってくださることになったのだ。


「本当ならこちらから伺ってお渡しするべきなのに、お越しいただいてしまってすみません」

「いえ、こちらこそ急に伺ってしまいまして」


 まだあまり遠出はできないからありがたいけれど、なんだかこちらに都合を合わせていただいてばかりで申し訳ない。


「こちらがご依頼いただいた絵です」

「見せていただいても?」


 手に取った秋元さんは絵巻ですかと唸った。

 全部で三じょうほどの長さになる絵を手に取って春から夏、秋、そして冬へと辿っていく。しばらくじっとご覧になってようやく顔を上げられた。


「これは……いや、掛け軸を一幅いっぷくいただけるのだと思っていましたから嬉しい誤算です。叙情性と自然観察の目が素晴らしい」


 嬉しいことを言ってくださる。

 秋元さんには絵の前金だけなく、もうずっと毎月のようにお世話になっている。せっかくご依頼いただいたのだ。納得できる絵をお渡ししたい。

 この絵はこの方のためだけに描いたのだから。

 僕の絵はこの方の心の中の月になれるだろうか。


「少し長めの掛け軸になってしまいました」


 そう言ったら『四季山水しきさんすい』を手にした秋元さんは声を上げて笑われた。

 どうやら喜んでくださったようでほっと小さく息を吐く。秋元さんには本当にどれだけお礼を言っても足りないくらいだ。


「お体のほうはいかがですか」

「おかげさまで大丈夫のようです。あまり無理はできないんですが、絵の注文も少し入っていますので描かせていただいています」

「そうですか。私もまた折を見てお願いすることにしましょう。どうかご無理なさいませんように」


 帰っていく秋元さんの背中を見送る。僕は深く礼をした後、まっすぐに顔を上げた。

 これでひとつ、画家としての仕事を終えることができた。世話になるばかりではなく、自分の絵を買ってもらえると前を向ける。また次の絵を描ける。


 雨の冷たさ、陽の輝き、空気の含む湿気、風や草花の匂い、花びらの散る音、木々の騒めき。そういったものはもっと様々な表現ができるはずだ。

 描きたいものがたくさんある。どんな絵を描こう。次はどんな工夫をしてみようか。

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