参 僕は僕でいられる

 休むことは絵を描けるようになるための準備だ。

 今、僕にできることをきちんとしよう。もういい加減ぐちぐち迷うのはやめよう。心の中に月があれば僕は僕でいられる。

 そうしているうちに懐かしい声が代々木に届いた。


「よう、久しぶりだな。元気かい」

「秀さん! お久しぶりですね、どうしたんです」

「ちょっと使いを頼まれてな」


 半年ぶりくらいかな、懐かしいというのも変か。

 秀さん、そんなに探るように見なくていいのに。声が弾む僕とは逆にあまりにも深刻そうな顔をするから、つい笑ってしまった。


「そんなに心配しなくて大丈夫ですよ。今度また河本先生の診察の予定なんです。もうだいぶ調子がいいので、描いてもいいって言われると思うんです」

「そう、か」


 ひと息ついて秀さんはようやくいつもの笑顔を見せた。


「いや、本当は他の奴が来るはずだったんだが、俺が行くって無理を言って代わってもらったんだ」

「なんですか、それ。わがままだなあ、子どもみたいですよ」

「うわあ、それをミオさんに言われるのか」


 その渋い顔を見た僕は苦笑するしかない。


「そんな風に言ったら僕が子どもみたいじゃないですか」

「そう言ってるだろ」


 互いに見交わして同時に噴き出した。ああ、いいなあ。この感じ。こんな風にまた笑い合える日がきた。

 大きな口を開けて笑った秀さんは、ほっとしたような表情で言った。


「なにがあったか知らねえけど、落ちついたみてえだな」

「もう大丈夫です。僕は絵を描くためにいるんですから。今は散歩に行って体力をつけようと思ってるんです」


 こんな風に穏やかに話せるのも本当に久しぶりだ。


「元気そうで安心したよ。ここに来る時は本当に千代さんだけで大丈夫か、なんて思ったくらいだったんだがな」

「そんなでした?」

「なんでもかんでも絵ばかりのミオさんが、それを取り上げられたら落ち込むのは道理だろ」


 僕は苦笑いで頭を掻いた。確かにその通りだったからなあ。なんやかやと他愛もない話題で賑やかな笑いが溢れる。

 しばらくして、ようやく秀さんは玉成会の話だと切り出した。


「第二回の文展が十月にある。実はまた審査委員の件でちょっとあってな」


 今回は旧派の審査委員が多すぎる、と新派から非難が沸いたのだそうだ。


「去年なんだかんだあったろ。それで旧派の審査委員を増やしたらしいんだが逆効果だよなあ。結局、国画玉成会は出展拒否だ」


 本当にお役人は画壇のことをわかっていない。出展拒否は仕方がないかもしれないな。ということは同志会みたいに独自で展覧会をやるのか。


「ミオさんに審査と出展を頼みてえらしいぜ」

「絵を出すのは多分無理です。まだ先生に許可をいただいてないですし。審査も……どうかなあ」

「わかってるさ、許可が出ていないなら無理しなくていいぜ。審査のことは岡倉先生も考えていらっしゃるだろうから大丈夫だろ」


 皆、どんな絵を描いているんだろう。僕も早く描けるようになりたい。

 秀さんはどんな絵を描いているんだろう。それを聞いたのに答えが返ってこない。


「俺はミオさんが元気でやってるか見に来ただけだし、ついでに近況報告ってとこだ。ミオさんの体調がだいぶよくなってるのはわかった。けど河本先生はまだ許可をくれないんだろ? それなら具体的な絵の話はまだだな」


 秀さんはそれだけ一気に言うと茶を飲み干す。


「さてと、とりあえず伝えることは伝えたし帰るか」

「もう帰ってしまうんですか」


 これだけ話して絵の話は駄目なんて酷いぞ。どうしても駄目かと聞いてみたけれどにらまれただけだった。


「絵の話をしたら描こうとするだろうが。言ったろ、ミオさんの体が大事だってな。ちゃんと養生しねえと駄目だぜ」


 ちぇっ、信用ないな。僕だってそこまでわがままじゃないぞ。少しくらいいいじゃないか。つまらない。


「診察の時に先生に相談してみようと思います」

「本当に無理はするなよ。千代さんに頼んでいくからな」


 秀さんは養生しろ、と念を押して帰っていった。

 本当に頼んでいったらしく千代さんが怖い顔で笑っているんだ。これじゃあ大人しく養生して診察を待つしかない。

 結局、玉成会からの依頼については絵も審査も欠席させてもらうしかなかった。


 次の診察が待ち遠しい。きっといい結果が聞けるはずだ。はやる心を抑えて僕はその日を待った。


 先生の治療を受けてから半年以上、もう目の前が歪むことはない。許可が出たら絵が描ける。


「うん、とりあえず大丈夫だろう」


 河本先生は頷いた。


「絵を描いてもいいんですね」

「ただし無理をしてはいけない。腎臓はまだ治っていないのだからね。今まで通り激しい運動も酒も禁止だよ。疲れたらすぐに休む。いいね」


 礼を言って帝大病院を出る。

 足取りが軽い。長い暗闇を抜けられた開放感。本当に生き返ったような心地がする。

 病院に来る前より世界が鮮やかに見えた。


 支えてくれた千代さんにも秀さんにも、皆にも感謝しかない。どれだけ感謝してもしきれないくらいだ。

 だから今度は僕が誰かの支えになろう。誰かの心に住む月になる、そんな絵を描いていこうと思う。


 目を閉じて思い浮かべてみる。

 山奥に家が見えてくる。木々に見え隠れするそこは杣人そまびとの家か、賢者のいおりか。その周りには山鳥や鹿の声が聞こえる。姿は見せないけれど生き物の気配がそこかしこにある。岩の間を川が行く。ごつごつとした岩肌を流れ落ち、水が飛沫しぶきを上げる。川に沿って、赤く色づき始めた木々が針葉樹の緑に重なる。


 目を開けて画面を見る。

 そこはもう、白い画面ではなくて山中さんちゅうの様子が写し出されていた。さあ、後はそのまま描けばいい。

 山奥に家が建つ。ごろごろと岩が生まれる。水が流れ始める。木々が色を連ねる。


 玉成会はふた月に一度、研究展覧会を開く。次の会にこの『秋景山水しゅうけい さんすい』を出品しようと思う。

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