弐 時に眠れない夜がくる

 絵を描きたい。絵筆を持ちたい。絵絹に、屏風に絵を描きたい。

 僕も早く絵を描きたい。

 木々、葉、草花、心に留めた自然は美しいけれどそれだけで終わりたくはない。自然以上のものを画面に残すのが芸術であり、それを描くのが画家なのだ。なにを描こう。山水か。花鳥もいい。


 だいぶよくなったと思うのだけどなあ。河本先生はまだ描いて良しとは言ってくださらない。まさか、もうこれ以上よくならないから描いていいと言ってくださらないのか。治療に時間がかかるとは言われたけれど、はっきり治るとは言われなかった。

 そればかりを考えていると時に眠れない夜がくる。

 こんなのは生殺しもいいところだ。もう言いつけを破って写生だけでもしようか。それすらできないのなら、いっそあのまま五浦で波に囚われてしまえばよかったんだ。


 まんじりともしないうちに千代さんが起き出す。小さな音で身繕いをして静かに戸が閉まる。

 台所に消えていく足音を聞きながら後悔ばかりが溢れ出る。

 僕が夫婦めおとになろうなんて言わなければ、きっと千代さんは勤めに出ている人に嫁いで幸せになれたろう。それならこんな苦労をしなくてよかったんだ。僕みたいな者と一緒になったから大変な思いばかりしている。

 僕なんかいなければよかったんだろうな。ああ、だんだん考えることも嫌になる。全てが嫌になって何もしたくなくなるけれど……


 いつもの時間に体を起こした。浮き沈みする自分の心を取り戻しそこねて、ぼうっとしたまま動けずにいる。

 こんな日は誰とも話したくない。何もしたくない。

 

「父様?」


 額入障子がくいりしょうじ硝子ガラスに子どもたちの顔がのぞいた。


「うん、おはよう。今日の散歩はひとりで行くよ」

「えええ……じゃ、明日は?」


 春夫が口を尖らせる。

 それに無理矢理、微笑を返して僕は言った。


「そうだな、明日は一緒に行こうか」

「約束ね!」


 約束、か。

 僕は馬鹿だなあ。明日この心が晴れやかに澄み渡る、そんな保証はどこにもないのに明日の約束をするのか。僕のようなちっぽけでくだらない人間に明日は来ないかもしれないのに。

 もそもそと身支度をして、見つからないように外へ逃げ出した。

 子どもと話すのも怖いなんて本当に僕はどうかしている。だけどそうするしかなかった。なにも言えなかった。


 ぼんやりと歩き出す。

 薄い雲に日が隠れて、僕の気持ちと同じようにすっきりしない。

 考えることすら止めて歩いていた。

 気づけばいつもと違う道だ。こんな所に寺があったのか……

 貼ってあった紙がカサリと音を立てる。


 月かげの

 いたらぬさとは

 なけれども

 ながむる人の

 心にぞすむ


 ぼんやり見ていたら、ご住職だろうか寺から出てこられて僕に声をかけてくださった。


御仏みほとけの救いの手はあまねく私たちに届きます。御仏は私たちの心の中におられるのです」


 そういう意味の御詠歌ごえいかなのです、と。


「失礼。あなたが、あまりにも途方に暮れたようなお顔をなさっておいででしたから」


 僕が黙って辞儀をすると、それだけ言われて合掌し戻っていかれた。

 仏が心の中にいるならこんなみっともない僕を見られているのか。信心なんて大してありはしないんだ。僕なんかは救われないのだろう。


 それでも僕を救ってくれるというのなら、それなら僕の目を元に戻してくれ!

 心の中で見てるんだろう? 病気にびくびくして、絵を描きたい気持ちと描けない苛立ちがごちゃごちゃで、今の僕はもう崩れ落ちてしまいそうだ。こんな僕が描く絵は、こんな駄目な僕の世界は、みっともなくぐちゃぐちゃで誰にも理解されないに違いない。


 僕は絵を描きたいんだ。絵が描けるならなんだってする。

 頼むよ、僕の目を元に戻してくれよ。

 ……これじゃあ、仏じゃなくて魔に縋っているみたいだな。こんなことを言っても見捨てないでいてくれるのだろうか。わがまま勝手で駄目な人間でも、生きていていいのだろうか。


 頬が涙で濡れる。見るための役には立たなくても涙は流せるんだな。自分を憐れんで泣くだけなら、こんな目なんてあっても仕方ないのに涙が止まらない。

 寺の前で立ち尽くしたまま僕はしばらく動くことができなかった。


 赤い目の僕はとぼとぼと足を動かす。こんな姿こそみっともない。

 ぐずぐずしていたら家に帰るのが遅くなってしまった。

 千代さんが表に出てる? どうしたんだ。


「千代さん?」


 顔を俯けていた千代さんがこっちを見たかと思うとその場にへなへなと座り込んでしまった。


「千代さん!」


 思わず駆け寄る。


「どうしたの、大丈夫かい」


 震えている。どこか具合が悪いのか。医者に連れていかなくては。


「ミオさんは駆けちゃ駄目です。それに大丈夫かはこちらが言うことですよ!」


 そう言って僕を見た目が溢れそうなくらいの涙でいっぱいになっていた。いつも笑っている千代さんのそんな目を見て狼狽うろたえてしまう。


「散歩に行くのに春夫達を連れて行かないし、帰りは遅いし、昨夜からちょっと変だったじゃないですか。もしかしたら……帰ってこないのかもしれないなんて思ってしまったら、怖くて」


 ああ、そうだったのか。千代さんは知っていたんだな。知ってて知らぬふりをしてくれていたのか。


「あ、父様だ。お帰りなさい」


 春夫と秋成が走ってくる。


「とうさま聞いて。かあさまったらね、とうさまかえってこないかもなんて言うから、ぼくびっくりしちゃったよ」

「もう! 父様、母様泣かせたら駄目でしょう」


 春夫は頬をふくらませて僕に怒った。ああ、ごめんよ。皆ごめん。千代さんは動揺して思わず言ってしまったんだろう。

 僕は馬鹿だ。自分のことだけで手一杯だったからってこんなにも皆に心配かけて。

 情けない。

 その横を駿がとことこと寄ってくる。


「とおたん、めっ」


 千代さんと僕の間にぽすんと小さな体が飛び込んだ。


「はい……ごめんなさい」


 春夫と秋成も首にぶら下がるやら手を引っ張るやら。


「養生しなきゃいけない、焦っても仕方がない。それがわかってても絵を描きたいのに描けなくて苛々して落ち込んで……」


 子どもたちの体の熱で少しずつ僕の凍った心が溶けていく。

 本当にごめんよ、心配してくれてありがとう。


「ごめん、僕が絵を描きたいしか言わないから。わがままな者と一緒になったから千代さんは苦労ばかりしている」

「そんな! そんなの心配しなくていいんです」

「僕なんていない方がいい、そう思っていたよ。僕は本当に甘ったれだ。千代さんに甘えるだけ甘えてしまっていたんだ」

「ミオさん、私は好きでここに居るんです。そんな風に言ったり私のことを心配したりするよりも、ちゃんと体を治して絵を描いてください」


 こんな僕でも必要としてくれるのか?

 僕はここにいていいのか?

 僕は絵を描いていていいのか?

 僕の問いに千代さんは大きく頷いた。


「私が嫁いだのは、画家の菱田春草なんですよ」


 ああ、僕の心の中の月は千代さんと子どもたちだ。西方浄土に行かなくとも仏はここにいるじゃないか。

 凍った心が溶けて涙と一緒にこぼれていく。

 帰ってきてよかった。

 僕はここにいたい。

 ここで絵を描きたい。


 僕は、生きていたい。

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