落葉の先、黒き猫を追いかけるの事
壱 放っておけばいいのに
代々木に移ると同時に河本先生と内科の林先生の診察を受ける。
僕に出された診断は慢性
とにかく休むようにと言われて、ぼんやりとひとり部屋にいる。
絵を描いてはいけないのだから道具のひとつもまだ荷解きしていない。手元に置いたら描きたくなってしまう。
目を閉じていても頭の中に描きたいものが渦を巻く。
岩を削り、流れ落ちる水飛沫をぼかし、野の花を薄紅に彩り、紅葉の赤を散らし、川のせせらぎを、鳥の囀りや羽ばたきを、清冽な空気を、柔らかな光を。
描きたい。
絵を描けないとどうしていいかわからなくなる。絵筆でも触っていられたらきっと落ちつく……ああ、駄目だ。絵を、描きたくなる。
「体も心も休めてゆっくりしなさい」
先生はそう言われるけれど、じっとしていると気が狂いそうになる。
絵を描きたい。
いけない、きちんと休まなければ。こんなことでは絵が描けなくなる。休まなければ。
体を休めても心が休まらない。描きたい気持ちと描けない体に叩きのめされて心が疲れる。
絵が、世界が、僕から離れていく。僕が僕でなくなってしまう。
ああ、波の音が聞こえてくる。また誘いに来たのか。
波に囚われる。抗い疲れてだんだん食べるのも
なんだか描きたい気持ちも薄れていく。
僕はどうやって絵を描いていたんだろう。
「ミオさん、具合はどうですか」
「……うん」
「今日は暖かいですね、少し障子を開けましょう」
「……うん」
千代さん。こんな手のかかる僕は放っておけばいいのに。
「体、拭きましょうね。すっきりしますよ」
文句も言わずに面倒をみてくれて。
僕なんかが生きていていいのだろうか。
「もう少し食べませんか、お粥にしたので食べやすいでしょう」
もうかまわなくていいんだ。描かない僕に生きている意味はない。
ほら、波の音がそう言っている。ざわざわと僕を誘う。ここへおいでと聞こえるはずのない波音が大きくなっていく。
千代さんは波間に揺れて溺れそうになる僕を手を伸ばして引き戻していく。その手に縋って僕はようやく息を継ぐ。
人の世と波間を揺れ動き、そうしているうちに数ヶ月ほどが過ぎたようだ。
「ミオさん、寒くないですか」
本当に少しずつだけど良くなってきていた。
「うん、風が冷たくなってきたね」
最近は朝も気持ちよく起きられるようになってきていた。
以前のように寝る時間を削って描いたりはしないし酒も飲まないから、あの頃よりは健康になってきたらしい。少しずつ
散歩くらいならいいと河本先生も言ってくださっている。それならと家の周りを歩くことにした。
少し歩いて立ち止まる。ほんの少しの距離なのに疲れてしまう。ずっと部屋に籠っていたからだな。だけど心地よい疲れだ。明日はもう少し遠くまで行ってみたい。
散歩の時間も楽しみになった。
いつもの時間に目が覚める。春夫がおはようと顔を覗かせた。この子も早起きだなあ。
「父様、今日は散歩に行く?」
「行くよ。一緒に行くかい」
散歩に行くと千代さんに知らせる春夫の声が嬉しそうだ。応える千代さんの声もずいぶん和らいだな。
僕の気持ちが落ち込んでいた時は岩のように固い声で、悲壮な決意のようなものすら感じたほどだった。それは僕のせいなのだけれど、そのことを言ったら千代さんはまた気にするなと笑うのだろう。
それにしてもこのところ本当に調子がいい。
休めと言い続ける河本先生に不満を持つこともあったけれど、言われる通りに養生していたら本当によくなってきたのだ。
だから診察で顔を合わせるとなんだか申し訳なく思ってしまう。それを知らず先生はきちんと休めているのかと口酸っぱく言われる。その度に僕も学生のように生真面目な返事をするようになっていた。
身支度をして外で待っていると子どもたちが走ってくる。今日は
「いってらっしゃい。気をつけて、無理しないでくださいね」
送り出してくれる千代さんの声が明るくて嬉しい。
「わかってるよ」
手を振って歩き出す僕の足取りも軽い。春夫と秋成が僕の周りを駆けまわる。
この辺りは人家も
時折ふたりは僕の手を振り切り、駆け出して虫や花や石ころといった宝物を持って帰ってくる。子どもの宝物っていうのは僕もこの子らも変わらないのだな。
ああ、この風景を描いてみたい。
殊更になにか特別なものがあるというわけではないけれどこの光景は僕の心に光を残す。
「父様、あれはなんていう鳥?」
「あの声は四十雀かな」
「ふうん」
「はる
秋成が走っていく。
「秋! 待って!」
小鳥と秋成を追いかけて春夫が駆けていく。ああ、小鳥も君たちも楽しそうだね。
「あまり遠くに行くんじゃないよ」
僕はふたりを追いかける。ゆっくり歩いて追いつけるものではないけれど、それでもこの追いかけっこは楽しかった。
しばらくすると子どもたちが手を振りながら戻ってくる。
「父様、大丈夫? 疲れてない?」
春夫が千代さんのような調子で聞いてくる。かなわないなあ。
「大丈夫だよ」
春夫の頭にぽんと手を乗せると秋成が僕も僕もと飛び跳ねる。
そんな散歩が僕らの日課になった。
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