漆 今、そこへ行こう

 僕はそのまま秀さんに連れられて東京へ向かった。

 帝大病院の診察室で緊張しながら河本先生の言葉を待つ。あれこれと処方を書き付けているのか、ペンのこすれる音だけが聞こえていた。音が止まり、先生の動く気配がする。


「まずは目を休めることだね」


 先生の診断では網膜炎もうまくえんとのことだった。


「また見えるようになりますか」


 僕よりも秀さんの声が、前のめりで先生にかじりつく。


「目の治療には時間がかかるんだよ。そもそも、こんなになるまで放っておいたのだから、確実に以前のようになるとはまだ言えない」


 先生の厳しい言葉に、僕は俯いたまま両手を握りしめた。

 やはり皆の言う通り、休めばよかったのか。だけど医者にかかる金なんてもう残ってなかった。どうすればよかったんだろう。

 もう絵を描けないのだろうか。それなら僕がここにいる意味はない。


「ただ、この症状はかなり研究されているのだよ」


 先生は僕が諦めようとしたことを感じたのだろうか。僕に向けられた声はさっきと少し響きが違った。

 僕はのろのろと顔を上げる。

 医師として言うべきではないのだろうがと呟いた小さな声が、音に敏感になった僕の耳に届いた。


「予断は許さないが、視力が戻ってくる可能性はないわけではない。はっきり断言はできないが、とにかく安静が第一だ」


 それを聞いた秀さんは力が抜けたようで、ドスンと尻もちをつくような音を立てた。


「ははっ! そう、そうか。見えるようになるか。よかった、よかったなあ、ミオさん」

「秀さん、それは……」

「可能性はある、ってことじゃねえか。よかったよ、本当によかった」


 確実なことじゃないのに。そんな風に言われたら頷くしかないじゃないか。

 潤んだ声がよかったなあと繰り返す。

 僕は言葉に詰まって、ただ頷く。


「思うに、君はかなり忙しかったのだろうね。これは精神的な緊張が続いた後に起こりやすいんだ」


 先生の声が優しくなる。こんな僕に気を遣わなくていいのに。僕はもう役立たずなんだろう。


「疲れると他の臓器も病気にかかりやすくなる。だから、まずは絵を描くのはやめて安静にすること。散歩くらいはいいが激しい運動は禁止だよ。それから酒を飲むのも禁止だ」


 酒は駄目かと秀さんのボヤく声がして、 少しだけ口の端を上げる。


「酒が駄目でも、絵が描けるようになるなら僕はいいですよ」

「そうだな、治ったらまた大いにやろうじゃないか。楽しみだな、ミオさんとならいくらでも描けそうだ」


 のろのろと言った言葉に希望が返ってくる。その明るさが今は少し重い。

 待った、と先生が秀さんを止めた。


「過度に期待をかけてはいかんよ。そういうことも心の内には負担になることがある」

「……すみません」


 大きな体を丸めて小さくなってるんだろう。秀さんの声がしゅんとしていて、また少し笑いそうになった。


「そうそう、そういう楽しい気持ちになるのが一番だよ。君達はいい友達のようだ。であれば尚更、少し離れた所から支えてあげるのがいいかもしれないね」


 帰り道、秀さんはゆるゆると歩きながら言った。


「河本先生が言われる通りかもしれんな。俺はきっと、治ったらあれもやろうこれもやろうって言い過ぎちまうかもしれん」

「治るのを待っていてくれるのは嬉しいですよ」

「いや、焦って無理させちまったら元も子もない。まあ、五浦と東京だから離れてしまうが」


 治療の為には府内に居るほうが便利だろうと、家も探すことにしたのだ。


「すみません、手配も全部お任せしてしまって」


 抜け殻のような僕にこれは難しかったから、秀さんの気遣いはありがたかった。


「かまわんさ。ミオさんは体を休めなきゃならん。ゆっくりすればいい」


 さあ、帰ろう、と僕らは五浦へ向かう。

 目を休めるように言われ、汽車に揺られている間じっと目を閉じていた。

 これがずっと続くのか。眠った時でさえ夢を見られるのに、僕に見えるのはこの暗い世界だけなのか。そう思ったら急に怖くなって目を開けた。


「どうした? まだ寝てていいんだぞ。疲れたろう、着いたら起こしてやるから」


 秀さんの声がする。寝てたのか、僕は。

 見える世界は薄ぼんやりと霞んでいて、眠りの中と変わらない。

 これが続くのか。


 五浦に着いて潮の香りに迎えられる。なにも感じられないよりはいい。香りだけでも感じていたい。

 秀さんに手を引かれて歩くうちに、波の騒めきが大きく聞こえてきた。おお、おおと海の声がする。波の音に捉えられて足を止める。


「疲れたかい?」

「少し……足元が見えないと歩きにくいですね」


 波が僕を捉えて離さない。ここへおいでと誘ってくる。絡め取られて動けなくなる。

 そうだ。いっそ、このまま波になってしまうのがいい。今、そこへ行こう。


「ほら、ミオさん」


 秀さんが足を動かそうとした僕の手を引っ張る。その手と声が低い場所に動く。

 もう一度、ほら、と声がして自分の肩に僕の手を乗せてくれた。おぶってくれるつもりなのか。


「子どもじゃないんですから」

「千代さんに無事に引き渡すまでは放っておけねえよ」

「……すみません、お願いします」


 僕をおぶった秀さんは軽いなと呟いた。

 霞む目でもなんとかしようと気を張っていた時はできていたのに。こんなにも動けなくなるなんて。


「ん? どうかしたのか」

「いえ、ちょっと昔を思い出して……」


 背に揺られているうちに、僕は記憶の中を子ども時代に戻っていった。


「結構きかん坊だったんですよ、弟や妹が怖がっていたくらいで。その時は、なんやかや冒険気分だったんでしょうね。遠くへ出てしまって、気づいたら知らない場所にいたんです」

「へえ、今からじゃ想像つかんな」

「普段のわがままっぷりはどこへやらで心細くて泣きそうで。兄さんが探しに来てくれて思わず飛びついてしまったんです。帰りは今みたいにおぶってもらったっけ……」


 こんなに心細くなるなんて自分が情けない。

 河本先生が言われるように、本当に可能性は少しでもあるのだろうか。ちゃんと治るんだろうか。治らないんじゃないかと思うと怖くて仕方がない。


「いい歳して恥ずかしいですね。参拾歳さんじゅう過ぎてこの体たらくですよ。こんなことで怖くなるなんて」

「いいんだよ、気持ちはわかる。画家にとって目は大事だからな」

「次に河本先生の診察を受ける時、内科もって言われたじゃないですか。きっと他の病気もあるんでしょうね」

「先生は念の為って言ってただろ。気に病むのは、それこそよくないってもんだぞ」


 ぽつぽつとこぼす僕の言葉を秀さんが拾う。

 返ってくる言葉が僕を安心させてくれる。


「僕、本当に治るんでしょうか」

「当たり前だ! 治るに決まってる。俺が保証する!」


 ああ、美校の入学試験を受けた時と同じだな。秀さんは待ってるぞって背中を叩いて、大きな口を開けて笑ったんだ。あれで不思議と受かるような気分になったんだよなあ。

 僕の中から少し波の音が離れて小さくなった。


「ありがとうございます。もう大丈夫そうです。歩けます」


 秀さんに手を引かれて歩く。

 その先に迎えに出ていた千代さんの声に向けて、どうにか笑ってみせることができた。



 病院から帰った翌日、あにさんに手紙を書こうと筆を握った。

 霞む目で書く文字がぎこちなく揺れる。体の具合も、東京へ戻ることも、伝えることはたくさんあるというのに。


 めがみえなくなりました。

 えがかけません。


 そこまで書いたその先は、伝えようと思うほどに筆が進まない。


「……千代さん、続きを書いてくれるかな」


 ため息をついて書くのを諦めた。

 目を閉じると波の音だけが大きくなる。寄せて返す波音に引きずられてとこに身を横たえる。

 渡米する時はあれだけ魅力的に見えたのに。ここに来たときはあれだけ雄々しく轟いていたのに。

 海はくら波濤はとうとなって砕け散る。ほの暗い波音が僕を誘う。


 絵の注文をと来た人は、僕の様子を見ると気の毒そうな声を残して去って行く。それは、仕方がないことなのだけれど。

 ……なんで僕なんだろう。

 描かない人ではなく、描きたい僕が見えなくなるのはどうしてなんだ。どうしようもなく虚無に囚われ落ちていく。


 虚しさをじわじわと潮騒が満たしていく。

 思考も呼吸もこのまま波にゆだねてしまおうか。人から離れて波になってしまえば楽になるかもしれない。


「とおたん?」


 拙い言葉と温かい小さな手が僕に触れる。その小さな刺激で思いの海から呼び戻された。


「大丈夫、行かないよ。おいで、駿」


 千代さんに抱かれて来たのに大きくなったな。一年半か……ここにはもっと長いこといたような気がする。

 抱き上げてあやしていると、ぱたぱたと軽い足音が近づいてきた。


「母様、駿、父様のとこにいたよ」

「とうさま、おきてる?」


 この子達の温かさを感じると人に戻ってこられる。


「うん、起きてるよ」


 三人ともどういうわけか、僕のところに来て遊ぶ。まるで不安定な僕の心がわかるみたいに傍に来る。

 何をするでもないけれど、こうして子ども達に囲まれているのが一番落ち着くように思う。


 僕らは、もうすぐ五浦を出る。

 秀さんのおかげで思ったより早く家を借りる算段がついた。これからは代々木に住まうことになる。


 荷物も送って空になった部屋を出る。

 見送ってくれる皆の声に足が止まる。

 ああ、心がちりちりと焼けるその答えはわかってるだろう。動けよ、僕の足。

 ぼんやりと霞む視界の中、僕はわかりきった答えを心に抱えながら皆に背を向けて歩き出した。

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