陸 偕楽園の春の香りがする

 岡倉先生のご尽力じんりょくがあって、好文亭こうぶんていで五浦派作品展覧会が開かれることになった。

 外からの風に乗って偕楽園かいらくえんの春の香りがする。


 ここは徳川とくがわ斉昭なりあきら文人墨客ぶんじんぼっかくを集めて詩歌を楽しむ所だったそうで、この香りの中に立っていると、いかにもそういった気分になる。


 秀さんも木村君も、地元なだけあって招待客の輪の中から声が聞こえる。二人とも依頼を受けて絵を描いていたし、こういった会で自分達のことを知ってもらおうと力が入っていたのは言うまでもない。


 特に野口のぐち勝一かついち先生は、岡倉先生が文部省にいた頃からのお知り合いで、美術院のことでもお世話になった方だ。

 他にも議員の飯村いいむら先生や、郷土史、美術史を執筆している斎藤さいとう隆三りゅうぞう先生。いはらきいばらき新聞社の僕らへの歓迎ぶりは、ありがたくも面映おもはゆいほどだった。


 僕と観山さんは少し離れた所から人の輪に目を向けている。


「地元じゃないのは私達だけだねえ」

「木村君もでしたっけ」

「そうそう、笠間かさま


 観山さんが小さく笑う。


「いや、だんだん語尾が尻上がりになってくるのは面白い」

「そうですね」


 こういう中にいると国言葉に戻るものなのだろう。聞いていると僕も飯田に帰りたくなってくる。


「観山さんは紀州でしたっけ」

「そう。僕は小さい頃に東京に来たから言葉はほとんど忘れかけているんだが、やっぱり懐かしく思うものだねえ」


 その後、何人かは茶室へ移動したらしい。

 人が少なくなってほっとする。仲間内での話は気楽にできても、初めて会うかたにはやはり緊張する。


 出品した『林和靖りんなせい』を買ってくださった若い細川ほそかわ護立もりたつ氏や、他の方々にもひと通りご挨拶させていただいたことだし、僕も少し休ませてもらおう。確か、ここを出て右に部屋があった。


「菱田君、具合悪いのかい。さっきから少し様子が変だよ」

「そうですか。いつも通りですけど」

「君、いちいち戸にすがらないと立てないのかね」


 しまった。五浦ならどこに何があるかわかるのに、ここは慣れない上に薄暗くて勝手がわからない。

 観山さんはこんな時に目敏めざとい。


「初めての方が多かったでしょう。緊張して疲れてしまいましたよ」


 僕がそう言うと、ごそごそと動いた気配がした。

 観山さんが僕を呼ぶ。


「ほら、これ。忘れていたよ、これ試しに使ってみてくれないか。使い勝手がよければ君にあげよう」


 つい、顔を向けてしまった。

 なんでが射さないところから言うんだ。大きな動きはわかるけれど目の前が揺れて霞む。


 何を出されたんだろう。もっと近づけば少しはわかるのに踏み出す間合いがわからない。焦る僕の伸ばした手がくうを切る。


「君、まさか目が見えてないんじゃないか」

「見えてますよ、少し薄暗かったから間違えただけです。ちゃんと受け取れますよ」

「……いつからだね」

「なんのことですか」

「私はなにも持っていないし、そもそも見えてる人はそんな風に言わないよ。いつから見えていないんだい」


 観山さんは悲しそうに言う。


「菱田君」

「疲れると時々目が霞むだけです。大丈夫ですよ、すぐ治りますから」

「菱田君! そんなこと言ってないだろう。いつからだね!」

「……賢首菩薩」


 そんなに前から、と言ったきり後は沈黙しか返ってこない。


「よう、どうした。観山が大きな声出すなんて珍しい」

「横山さん、菱田君は……」

「観山さん!」


 観山さんを睨む僕。秀さんの大きな影が声をかけてくる。


「なんだい、ミオさんも。お前さん達なんだかおかしいぞ」


 心配そうな声が聞こえてきて僕は唇を噛んだ。


「菱田君、これは駄目だ。言った方がいい」


 嫌だ、と僕は首を振る。

 嫌だ、嫌だ、嫌だ。

 言ったら僕は、


「菱田君は多分、目が見えていない」


 絵が描けなくなる。


「は、はは……嘘だろ。今までそんな素振り全然……」

「騙されたねえ」

「皆さん、どうしました? 向こうで誰もいないって、言って、ましたよ」


 木村君の話す言葉にだんだん不審がこもっていく。


「木村君、菱田君は目がよく見えていないと思う」 

「えっ? 大丈夫だって言ってたじゃないですか!」


 ああ、君もだまされたくちか、と観山さんは力なく言った。


「武山、知ってたのか」


 秀さんが木村君に言う。声が、怖い。


「知っていたというか、賢首菩薩の曲録きょくろくの線が曲がってるから見てくれって言われて。その時は疲れてるんじゃないかって言って」

「そんな前からかよ」


 呆然とした秀さんの声は、悲しみを絞り出すようなものに変わっていった。


「なんで言ってくれなかったんだ。俺達はなんの支えにもなれねえのか。俺達は仲間じゃねえのか」

「言ったら描くのを止めろって言ったでしょう!」


 今は休めって。次の機会に出せばいいって。

 僕の「こころもち」は止まれないのに。


 僕の気持ちも工夫もあの時のものなんだ。経験は考えを変えていく。今、賢首菩薩を描いたら表情も構図も色も違うものになるだろう。その時以外に描いたものは別のものになる。

 今の僕はもっと別のものを描きたい。別の工夫を考えたい。


「だって、ちょっとぼんやりするだけなんですよ? 目を凝らせば見えるんですから。だから絵は描けるんです」


 縋るように言った僕の言葉に返ってくるものはない。

 写生もたくさんした。構想もある。試してみたいこともある。描きたい構図が目の前にあるのだ。僕は絵を描きたい。


 それに絵の描けない僕なんて岡倉先生は必要とされないだろう。だから描くのを止めてはいけないんだ。先生の理想を描きたい。その夢を取り上げられたら僕はどうすればいいのかわからなくなる。


「だから、言わないでください。他の、誰にも」


 息を切らして言った言葉に、皆は黙ってしまった。

 ……そうだな、こんなわがままを言うなんてまるで子どもだ。僕のような馬鹿は呆れられて当然だ。


「ばっか野郎っ!」

「秀……さ」

「ミオさんが絵画馬鹿なのは皆知ってる。けどな、本物の馬鹿は俺のほうが上だ! 俺にそんなこと言っても無駄だぞ。いいか、これから医者に診てもらって治すんだ。逃げるなよ!」

「秀さん、無茶苦茶だ。僕は言わないでくれって言ったのに」


 なんでだよ、僕の好きにさせてくれよ! 僕は絵を描きたいんだ!


「岡倉先生に相談して医者を紹介してもらおう。ここから医者に連れて行く。飯村先生に人力を呼んでもらうから。こいつ五浦に戻ったら多分、梃子てこでも動かねえぞ。武山、決まったら千代さんに知らせてくれ」


 秀さんは僕の言葉を聞かない。


「秀さん!」

「俺は馬鹿だからミオさんの言うことなんざ聞けねえよ!」


 行くぞと二人が動く。


「観山、そいつ逃がすなよ」


 秀さんの強い声だけが残った。


 無理だ。医者にかかるお金なんて今の僕に払えるわけもない。医者を紹介してもらえたところで、どうなるわけもないのに。


「菱田君、もう少し私達を頼ってくれていいんだよ」


 観山さんは、ため息と共に肩を叩く。


「治療費の心配をしてるんだろうが……いいかい、君もそうだが私や木村君も文展で結構名が売れたんだよ。頒布会を開けば少しは助けになれる。横山さんが今ここから行こうって言ったのは、あわよくば支援も取り付けたい腹なんじゃないか。なにしろ地元だしねえ」

「そんなご迷惑、かけられません」

「もちろん描けるようになったら君がやればいい。それまでの間ってことだよ」


 それでも皆にとっては多大な迷惑に決まっている。絵描きの生活の大変さは誰よりも僕が知っている。

 項垂れたままの僕に、いいから、と観山さんは背を押す。


「さ、行くよ」


 離れた方から伝わる人の話し声と床のきしむ音、ざわついた空気。僕がそろそろと歩いて行くと、それが水を打ったように静かになった。

 先生は、岡倉先生はどこだろう。


「君の絵に対する気持ちはわかっているつもりだったのだが認識不足だった。もっとこちらも気をつけてやればよかったね」


 温かい手が僕の冷たい指先を包む。


「先生……」

「帝国大学に河本こうもと重次郎じゅうじろう博士という眼科専門医がおられる。電報を打っておくから診てもらいたまえ」

「すみません、ありがとうございます」


 揺れる視界が潤んで余計にぼやける。


「河本博士は己に薄く他人に厚い、博愛主義で高潔な方だ。安心して任せなさい」

「あの、僕はまた絵を描いても……治ったら、また先生の元で絵を描いてもいいのでしょうか」


 もちろんだ、と先生は震える僕の手を強く握った。


「待っている。きちんと体を治して戻ってきたまえ。私は君の描く日本画の行く先を見たいのだ」

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