伍 本当にまたとない機会だった
十月になり、いよいよ開かれる第一回文展の審査と出品で五浦は
「ねえ、かあさま。とうさまの絵は賞をとれるかなあ」
「どうかしら、皆様も素晴らしい絵を描いていらしたから」
春夫が心配してくれてるのに千代さんは。そこはきっと取れるって言ってほしいな。
部屋の奥から聞える声に口を尖らせる。
「私は父様の絵が好きだから、好きだって言ってくださる方がいると嬉しいな」
続いて聞こえた千代さんの言葉には玄関先で東京行きの準備をしていた手が思わず止まった。
「ぼくもね、とうさまのえ、すき」
「じゃ、行ってきます。あまり遅くならないようにするから」
照れ隠しに聞えなかった風を装って家を出た。
いってらっしゃい、の声を背に先を急ぐ。
さて今頃はそれこそ審査の真っ最中だろう。少しでも良い評価をもらいたいものだ。
──────────
「美校の卒業制作を思い出すねえ」
下村の呟きに横山は絶句した。当時、美校にいなかったため初めて菱田の問題作を評価する議論の場に立ち会ったのだ。
「これは、どういった描き方なんでしょうかね」
「これ程に点描で描き込むのは、どう捉えたらいいのか……」
「意味はあるでしょうがよくわかりませんね」
審査委員達は『
空刷毛でぼかす描き方から一転、色を濁らせず色同士を馴染ませる手法としてほぼ全面に点描が施された。その画法の扱いに戸惑ったのだ。
「こんな状況だったのか」
絶望したような顔の横山に対し下村は不思議なほど好戦的な顔をする。
「というか毎回そうじゃないか。彼の作品は出す度に議論を巻き起こす。美校の時に比べればこっちは断然真っ当だよ。説得の余地がある」
「彼の作品が議論を起こすなら日本画壇も捨てたもんじゃない」
岡倉の言葉に下村が頷く。
「そうですね、これを切り捨てるようなら終いかもしれませんが」
まずは岡倉が口火を切った。
「この描き方は色を表現するためのものでしょう。これは大層工夫されている。補色で置かれている色同士が馴染んで布の質感が上手く表現されている」
「使い方としては革新的かもしれませんが意図は評価できると思います。実際、効果的に使われていますし」
「そもそも点描も文人画などでは格段珍しい手法ではありませんから。他にも色線など古画の描き方を踏襲していますね」
それまでの技法から一歩踏み出した絵画。伝統的な日本画の美観を固守したい者に理解してもらう難しさを打破したい。この絵の面白さを伝えたい。下村も横山も、そして岡倉も何度も主張する。
──────────
だいぶ丁々発止があったと聞いたけれど、技法の扱いで落選しかけた『賢首菩薩』はどうにか審査員の理解を得られたという。
「あの審査は本当に大変だったんだからな!」
僕はそう言う秀さんから指を突きつけられた。ものすごいしかめっ面で。
「ミオさんは思案が独特過ぎる」
「いや、でも点描は昔からありますし。外遊の時に見たのも面白い手法だなと思っていたんです」
あの時の顔は忘れられない。
それでも五浦に戻ってきた秀さんは先に帰った僕を見ると顔中を笑顔にして走ってきた。
「おめでとう! やったな、ミオさん!」
最終的には二等三席という成績がついたのだ。
僕の手を取ってぶんぶんと振り回した秀さんは肩を叩いて祝幅してくれた。
「もう、何回目ですか。ありがとうございます!」
「何度だって言うさ。これでやっと、この国でもミオさんの絵が認められたんだ」
文展の会期中は、仕事帰りにちょっと寄ってみようかなんていう職人さんや、友達としゃべりながら笑う女学生達、子どもの手を引いた母親、近所の爺さん婆さん。ひと月余りの間に老若男女
いつもなら展覧会場にいるのは画家志望の人がほとんどだ。だから文展はいつもと全く違う客層に見てもらえる、本当にまたとない機会だったのだ。
素晴らしい作品も数多く出品された。
木村君の『
観山さんの『
本当に良い作品が多くて面白く見てまわれた。これだけ盛況ならきっと来年も開催されるだろうから今から楽しみだ。
文展で賞牌を得たことで画商の訪問が少し増えた。もっと来てくれるといいのだけれど愚痴ばかり言ってもいられない。僕は次の課題に挑戦するのだ。
ぼかしの手法はしっとりとした空気を表現するにはいい。逆に言えば立体感や存在を表現するには適していない。
例えば、岩肌のごつごつした質感や立体感を確かに
滝壷で砕け散る水滴や落水の空気はぼかしで表現できる。水面の様子も工夫してもっと揺れるように、滝水の重さを感じるように表現しよう。ここまではいい。
問題はこの岩肌。墨の濃淡と点描と……
少し目が
線が、
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