肆 賢首菩薩
三人に交代で頼み込んで、ようやく納得できるだけの写生ができた。
さてと、これを描くにはどうしたものか。
岩絵の具は塗り重ねると混濁する。胡粉を混ぜると色自体が厚くなる。絵絹を湿らせ空刷毛でぼかしていくと、空気に柔らかさや湿度を持たせることはできる。
この場面は日本ではない。いつもの描き方では駄目だろう。空気は乾いているだろうし色はもっと
色、色か。
……欧州で見たな。違う色を並べて明るく見せていた西洋画があった。点描で色を置くのは日本画でもある。
繰り返し描いた
下絵を絵絹に写して詰めていた息を吐く。少し根を詰めて描いていたからか体が固まっているな。凝りをほぐそうと体を動かして大きく深呼吸をした。続きを始めようと絵に目を向ける。
……おかしいな。線が曲がっていないか? まっすぐ引けたはずなんだけれど。参ったな、これをそのままにするわけにはいかないぞ。
「木村君、これ曲がっていないか見てくれないか」
ちょうど隣で片付けをしていた木村君に声をかける。
「なんですか?」
「
「曲がってませんよ、真っ直ぐ描けてるじゃないですか」
そうなのか? もう一度見直してみると真っ直ぐな気もする。また見直すとどこか曲がっていそうに思えて首を傾げた。
「疲れるとそういうことありますよ。ちゃんと寝てます? 心配なら明日もう一度確認してみてくださいよ、絶対大丈夫ですから」
「……そうか? 本当に大丈夫かな」
「大丈夫です。ちゃんと真っ直ぐ引けてますから。休むのも仕事のうちでしょう。早く寝るんですよ」
「君は僕の母親かい」
睨む木村君と目が合う。その瞬間、僕らは吹き出してしまった。
確かにその通りだ。もう目が霞んでよく見えないから早く休もう。
翌日、見てみると木村君の言った通りなんともない。やはり疲れていたのか。
今日からは色を置いていくのだから体の調子にも気をつけよう。またこんなことがあったら、たまったものではない。
足元から少しずつ点描で描いていく。袈裟の色は青と橙、それから掛布の意匠は黄と紺、色を対比させることで鮮やかさを際立たせる。西洋顔料のほうが明るいだろうから少し使ってみたい。
顔や手は薄墨と色線で輪郭を取る。
文展が近づいてくる。
八月には日本画の審査委員が内閣によって任命された。美校の校長である
僕も審査委員に呼ばれたいとは思うけれど名前を見るだけでわかる。これだけ新派に偏っていたら僕が入る余地はない。旧派からも苦情が出そうだ。
端的に言うと新派は僕ら美術院、旧派はそれ以外の伝統的絵画を描く人達のことなのだけれど、あちらの分野はないがしろにできないと思うぞ。作風もよほど違うのだし半々の人数を割り振ればいいんじゃないか。
それで新派の入賞が多ければ、これからの時代は新派の作風だということがわかるだろう。
僕がそう聞くと実はと秀さんが言った。
「審査委員の件でちょっと揉めてな。
「旧派は文展に出さないってことですか」
これは初回から難しい展開になったなあ。
秀さんが両手を広げてやれやれと首を振る。
「そもそも流派や団体の枠を超えて、日本画、洋画、彫刻の三部構成ってことだったはずなんだがねえ。これじゃあ、片手落ちの感が拭えないよ」
観山さんの言う通りだ。それに新派に対する反発はあるにせよ普段は絵を見ない人にも見てもらえる絶好の機会なのだ。文展に出さないのは
「まあ、向こうがそれでやるってんなら仕方ねえ。文展は文展だ。俺達は余計に良いもんを出さねえとな。きっちり俺達の力を見せてやろうじゃねえか」
喧嘩じゃないと観山さんが頭を抱えた。
だけど秀さんの気持ちはわかるな。良い作品を出さないとまた批評家に何を言われるやらだ。
「ようし! やってやろうぜ」
「だから喧嘩じゃないって言っているじゃないか」
鼻息を荒くして拳を握る秀さんに観山さんは苦笑いだ。ただそれに返す口調は気迫が違う。まったく、ふたりとも負けず嫌いなんだから。
笑いながら筆をとる。
さて、今日も点描をのせていこう。時間は取られるけれど手間をかけるだけの価値がある。本当に色の見え方が面白い。別の技法を見つけるまではもう少しやってみたいと思う。
ただ色を置いていくと時折、目が霞むことだけが厄介だ。
あっという間に時間が過ぎていく。気づくと外は暗くなり始めていた。
「菱田さん」
「安田君? どうしたんだい」
片付けをしていたところに安田君の声がした。今村君に背を叩かれながら固い表情で僕の前に座る。
「……この部屋、やっぱり緊張しますね」
「うん?」
「初めて来た時も思いましたけど、ここって修練場みたいじゃないですか。なんか緊張するっていうか怖いっていうか」
「そうかなあ、広いし絵が描けるし別になんともないよ」
「菱田さんだけですよ、そんな風に気楽に言ってくださるのは」
「そうかい?」
安田君の表情はなかなか緩まない。絵は描けているかと聞いてみたけれど返事は上の空だ。
僕はそんなに怖い顔をしているのか、なんて言ったら余計に委縮してしまうかもしれない。困ったなあ。
「靫彦、お前が話さなきゃ駄目だろう」
今村君が小さな声で激励する。
その言葉に、うん、と頷いて意を決したように今村君が話し出した。
「正派同志会の話は聞かれたでしょう。文展のために旧派が会を作ったなら、私達も新派として会を作って対抗した方がいいんじゃないでしょうか。趣旨は古代の作画法の復興と、これからの絵画の発達を考えること。それを基本にしたいと思ってます。会の名前は『
言い切ってほっとした表情の安田君を見て今村君も口を開く。
「お願いします。岡倉先生に会長を受けてもらったけど、勢いで若手で会を作ったって俺らだけじゃ重みがない。少しは名前の通った人に参加してもらえるといいって……」
「言い方!」
安田君が小さな声で叱り、今村君の脇をつつく。
「いってえな!」
今村君はぶつぶつと文句を言いながら安田君をつつき返す。
ああ、このふたりは本当に仲がいい。互いに補い合っている感じがして微笑ましい。
「私、共進会に出されてた『水鏡』に感動して絵を描き始めたんです。『絵画について』も読みました」
安田君はあの絵を見てくれたのか。これは嬉しいことを言ってくれる。
「うん、参加させてもらうよ」
「……はい? あ、ありがとう、ございます」
「ずいぶん、あっさり言うんだな」
二人はそろって拍子抜けしたように詰めていた息を吐き出した。
「岡倉先生が会長なら、
僕が言うと、二人は目を見開いて固まった。
僕がすぐに参加する、って言うのは想定外だったのか? そりゃあ僕は人見知りだけど、若手に協力するのに
勢いよく礼を口にすると今村君が安田君を促して立ちあがる。この会で新派が一丸となるなら文展も盛り上がるだろう。彼らは興奮したようにバタバタと部屋へ戻っていった。
ごたごたは多少あったけれど、兎にも角にも文展は開催される。
残る時間も少なくなってきた。玉成会は全員、文展への出品が必須なのだ。僕も描き込んで仕上げをしなくては。
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