参 五浦へ、行ってもいいかい

「行かないのですか」


 美術院が五浦へ移転することを聞いたらしく千代さんが言った。


「う……ん、絵はどこだって描けるし。小さい子がいるんだ。千代さんだって大変だろう?」

「それはそうなんですけど。ミオさんは本当にいいんですか」


 本当は、どっちだろう。

 わかってるくせにと僕の中の僕が言う。

 僕が描いてみたいのは岡倉先生の理想だ。確かに絵はどこでだって描けるけれど、未熟な僕がひとりで描くより先生のご指導やご意見をいただけるなら嬉しい。それなら五浦へ行きたいと思う。


「実は岡倉先生からもお誘いの手紙がきたんだ。五浦へ、行ってもいいかい。また苦労をかけてしまうけれど」

「絵を描いても楽しくないならそれはミオさんではないでしょう」


 思うところはたくさんあるのだろう。だけど何も言わずにそう言って笑ってくれた。本当に千代さんは僕の宝物だ。大変なことは覚悟を決めて僕ら一家は五浦へ行くことにした。

 駅を出て歩いていくと潮の香りが濃くなってくる。海沿いの道は波の音がざわざわと満ちていた。ごつごつした岩と切り立った崖に張りつく防風の松林の間に美術院への細い道が続いている。


 千代さんは駿しゅんを抱いていかなきゃならないから僕は春夫と秋成と手を繋ぐ。

 崖下の海が、おお、おおと声を上げる。三人でやっと通れるくらいの道を僕らは並んで歩いて行く。僕らの他に秀さんも観山さんも木村君も。皆、家族で五浦に移住するのだ。なにもないとは言うけれど皆と一緒だったら心細さも少しはまぎれるかな。

 海の音に呼ばれた気がして、ふと立ち止まる。

 じっと見ていると無性に絵を描きたくなってきて知らず口元が緩んだ。


「とうさま、うみすごいね」


 春夫が僕の手を振り回して言う。


「そうだね、とても絵が描きたくなる風景だと思わないかい」

「えをかくの? ついてからねって、かあさまがいってたよ」


 そんな真面目な顔で言われたらどっちが大人かわからない。


「違いない。春坊の言う通りだ」


 秀さんが大きな声で笑う。つられて大人たちが笑う。それを見た子どもたちも笑う。

 不安な心を吹き飛ばすような秀さんの笑い声。この明るさに僕はいつも助けられる。


 ここには大地と海の営みが息づいていて海中からごつごつと岩が沸き立つように見える。なるほど五浦は岡倉先生が気に入られて別荘をお建てになるだけの趣があった。

 その奇岩の様子を中国庭園に見立てておられるのだろう。岬に小さな雪見灯篭ゆきみどうろうが作られている。六角堂がその岬を見下ろしていた。この印象的な堂宇どううで絶え間なく変化する大波を見て瞑想にふける。それはいかにも先生らしいお考えだ。


 荷解にほどきもそこそこに紙と鉛筆を持って外へ出る。

 岩に砕ける波の面白さ。

 空と海が水平線で溶ける。

 風や潮に負けない松の力強さ。

 木の間からこぼれる月のさやけさ。

 絵画に表したい世界はそこかしこにある。

 風景をあちこち写生して家に帰ると濡れ縁ぬれえんに千代さんが座っていた。


「おかえりなさい、ミオさん」

「ああ、いいよ。少しそのままでいてくれないか」


 立ち上がろうとした千代さんを留める。

 疲れた顔だな、少し痩せた。やはり無理をさせてしまっているのだろう。

 それでも大丈夫かと聞けば笑って頷く。その笑顔が凜と綺麗で。僕は思わず、ほう、と吐息を漏らした。


「千代さんを写したいのだけど、かまわないかい」

「ええ。今なら子どもたちもお昼寝していますから」


 千代さんはちょっと目を見開いてそれから笑って言った。

 久しぶりに描いた姿の、写生そのままは描かず気持ちだけを絵に落とし込む。題は『今様美人いまようびじん』とした。今、買い手を探してもらっているけれどまだ売れたとの話が来ない。


 美術院を訪れる画商は、画室で絵を描く僕の前をすり抜けて観山さんの前に座る。それを見るたびに千代さんにはすまなく思う。残念ながらこの国の画商はまだ僕や秀さんの絵に寄ってこない。

 欧米での売上からの蓄えも底をついたから売れてほしいのだけどなあ。皆に聞こえないようにそっとため息をつく。


 いや、前を向いて画面に対峙しよう。それでも美術院の広い画室で描くのは悪くない気分なのだから。

 ここは僕ら四人が並んで描いてもだいぶ余裕がある。すぐ横で誰かが描いているところを見られるのは勉強になる。意見も聞けるから緊張感もあるけれど、それが心地よく思える。

 目を閉じ心を絵に寄せる。今は松の緑、波涛の轟きを表す時だ。下絵はさっくりと構図がわかればいい。波は勢いで描いていきたい。

 目を開けて絵筆を握る。画面に色をのせていく。

 絵を描く日々は変わらない。


 問題なのが絵を売るということなのだ。

 海がすぐそこだから、おかずがなくなった時は釣りに出て下手なりに少しは調達できる。微々たるものでも生活の足しにはできた。

 絵絹や絵の具についてはそうはいかない。あにさんは変わらず助けてくれる。今回は秀さんが地元の方に買っていただくと言って一緒に連れていってくれた。


 けれどそればかりを当てにしてはいけない。描く手を止めてはいけない。買っていただける方も探してお願いしなくては。

 五浦での戦い。そう、これはもはや理想と現実との戦いだ。それを続ける中、大きな展覧会の知らせが届いた。


「東京府の各新聞に審査の経過が載せられるそうだ。作品の紹介や批評も載るらしいし、これはますます注目が集まるぜ」


 相変わらず秀さんは耳が早い。

 政府による文化振興策として、文部省美術展覧会「文展ぶんてん」と通称される展覧会が開かれることになったのだ。

 これは美術団体を一堂いちどうかいする盛大なもので、しかも入場料が十銭と安い。映画を見るよりも安いのだから、普段は絵を見ない人達も気軽に来ることができるだろう。


「どうでも賞牌を取らなきゃならんなあ。そしたら一気に知名度が上がるぜ」


 文部省、つまりは国が開催する美術展なのだ。そこに並ぶ作品の価値は日本国が保証するということになる。そこで賞が取れたら絵の注文も入りやすくなるだろうな。

 この話を聞いた時から三しゃく幅で高さ六尺の大きな画面で挑戦しようと思っている。美術院ができた時に描いた『水鏡』と同じ大きさだ。あれから十年経ったのだなあ。僕の絵は少しは進歩しているだろうか。秀さんの言うとおりがんばらなくては。


「さあ、大いにやろうじゃないか」


 いつもの秀さんの声を合図に、僕らは並んで絵絹に向かう。

 右隣で木村君が炎の赤を画面に入れていく。左隣の秀さんが曙色あけぼのいろの海岸線を描く。その向こうに観山さんの秋の風景。

 今日は新聞社が写真を撮りに来ている。


 彼らが言うには、僕らの絵は欧米での高評価が伝わって見方が変わってきているらしい。文展の開催に合わせて写真を載せて紹介するのだそうだ。散々、朦朧もうろうだの化け物絵だの叩いてきて現金なものだ。 

 まあ、今度はこちらに風が吹いてきたかと思えば嬉しい。なんて僕も大概たいがい現金だな。

 部屋の入口に据えられた写真機の向こうから声がかかった。


「どうぞ、いつも通りに絵を描いてくださって結構です」


 そう言われたのだけれど、僕は写真師に顔を向けた。

 自然そのものが芸術という。僕も写実的な絵は描くけれど、自然をもっと芸術的に表現しようと考える。

 在るがままを写す写真師も芸術的に表現できれば僕らと同じではないのかな。光も空気も「こころもち」も写真に写せることができたら可能なことではないだろうか。


 それなら、もしかして写真のような絵を描いても日本画になるのかもしれない。少し不思議な思いつきが頭をよぎる。

 あの人達はどんな考えで写真を撮っているのか聞いてみたい。頭の中に渦を巻く考えを振り切れず、じっと写真師を見つめる。

 おかげで皆が絵に向かっている中、僕だけが顔を向けている写真になってしまった。

 もっとも今考えている構想を練り上げないと下絵にかかるのも難しいから、「いつも通り」絵筆を握った格好はできなかったのだ。


 この文展に向けては『賢首菩薩けんしゅぼさつ』という中国唐代の僧侶を描こうと思っている。傍らに置いた金獅子像を比喩たとえ華厳宗けごんしゅうの教えを説く図が知られていて、僕もその場面を表したい。

 少しかみ砕いた講話を聴かせていただいたけれど、やはり仏教の教義というものは難しい。歴史画として描くためにその教えも参考にしてみようと思ったのだけれど、世界にあるものはすべて自分の意識の反映であるというのはどう考えたらいいんだ。


 世界が自分の意識の反映なら例えば僕の表すこころもちも、引いた線も、描き込まれる色も、それは世界でもあるけれど僕自身のことでもある。そう言っていいのだろうか。

 それなら絵画は僕であり僕は絵画だ。こういう考え方なら面白くて好きだな。

 小さな考えも心に留めておこう。道具の類いも資料を探さなくては。袈裟けさは写生しないと模様がわからない。これは作るとして……


「痛っ」


 ぼうっと考えながら針を動かしていたら指に刺してしまった。ざっと作ればいいし、こんなものかな。後は模様を描き入れて、と。


「よし、できた」


 さて誰に着せよう。ああ、ちょうどいいところに。


「木村君、少し手伝ってもらえるかな」

「なんですか」

「これ着て座ってくれる?」


 座って手を広げてもらって着せた衣を直す。こんなものかな。


「これ、なんです?」

「袈裟」

「は?」

「袈裟だよ。どうしても袈裟を掛けた時の模様の出方がよくわからなくて作ったんだ。ちょっと写させてほしいんだよ」

「それ本当にちょっとですか? 菱田さん、描き出すと時間忘れてしまうんだから」


 大丈夫だと言いながらつい没頭ぼっとうしてしまう。


「まだ、ですか……」

「う、ん……もう少し。そこ右手もうちょっとあげてくれるかい」

「あ、安田君! ちょっといいかい」


 僕の頼みをそっちのけに、木村君は部屋の前を通りかかった安田君に手を伸ばす。

 ああもう! 動かないでくれるかな。衣の具合を見たいんだぞ。ため息混じりに鉛筆を置く。


 今、美術院の後輩が五浦に来ている。

 岡倉先生はこれと見込んだ人材をここに呼んでいて、安田やすだ靫彦ゆきひこ君と今村いまむら紫紅しこう君もそうなのだ。

 彼らも本当に仲がいい。今村君は弐拾六歳にじゅうろくだったか。安田君は弐拾参歳にじゅうさんだから僕とは十歳とおも違う。ふたりとも若い。


 僕が同じ年齢としの頃は美校の講師をして『水鏡』を描いていたっけ。

 あれから様々、技法を試したけれど、このふたりも試行錯誤の最中なのだろう。僕もまだまだ試したいことがある。互いにいい刺激を受けたいものだ。


「いやあ、菱田さんに頼まれたんだけど、手が疲れちゃってね。これ着てもらえる?」

「はあ」


 ああ、そういうことか。ならいいや。

 木村君は訝しそうに後退っていく安田君をがっしりと押さえ、手作りの袈裟をぐるりと巻きつけた。


「うん、似合う似合う」


 木村君はなんでそんなにすっきりした顔をしてるんだ。


「菱田さんが絵の参考にって協力頼むよ」

「ええ!? それ絶対時間かかるやつじゃないですか! ちょっと待っててください。今、紫紅も呼びますから」


 なんだか失礼なことを言われた気がするぞ。

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