弐 美術院に足を踏み入れた僕らは愕然とした
帰国した僕と秀さんは帰国展覧会を開く準備を始めている。準備中だからといって描く手は止められないし、絵画についてまとめることも、それを実践することも、やるべきことが山ほどある。
そうしているうちに観山さんも官費留学から帰ってきた。あれは期間も行き先も決められているものだから、僕らより少し遅れての帰国になった。
「いやあ、油絵の模写は難しいねえ。とても勉強になったよ」
帰国祝いの歓迎会で、ほろ酔いの観山さんは上気した顔だ。
「こっちは日本画の道具しか持ってなかったから大変だったんだよねえ」
「そんな風に言われたら、僕なんて未熟すぎて何も言えませんよ」
あの模写は本当にすごかった。『まひわの聖母』も『
「君はまだ私を追いかけているかい?」
そう言って観山さんは目を細める。それ、
「並ぶくらいにはなったんじゃないですか」
悔しいからそう言った。観山さんはニヤッと笑って僕の肩を叩く。
「がんばってくれたまえ。私はもっと先をいくから」
「むかつきますね。大丈夫ですよ、すぐ追い越します」
かなわないねえ、と観山さんは今度はからからと笑った。
本当にこんな人と一緒に絵を描けるのは悔しいけれど嬉しい。絶対いい絵を描いて追い越してみせよう。
年の暮れには『絵画について』を発表した。小さな冊子で部数も少ないけれど僕らの考えを詰め込んだものだ。
それに手応えを感じている暇もなく帰国展覧会が始まる。今は欧米で描いた作品を抱えてあちこち飛び回っていた。
なんだろう、絵の見方が変わってきているのか? やはり外国帰りという看板が大きいのだろうか。頑迷に否定する人はいるけれど、僕らの絵が少しだけ受け入れられたような気がした。これはいい傾向じゃないか。
あちこち飛び回る
千代さんには新しい家で子どもを産めるようにしてあげたいんだ。
あれもこれもと目が回る。僕は嬉しい忙しさを噛みしめていた。
その高揚した気分は長く続かなかった。
展覧会が終わり、久しぶりに美術院に足を踏み入れた僕らは愕然とした。
「なんだこれは! これが美術院か? 何があった!」
秀さんが叫ぶ。
声を聞きつけたらしく奥から木村君が出てきた。
「菱田さんも横山さんも展覧会お疲れ様でした」
「そんなこと聞いてんじゃねえ! ここは炭小屋か? 美術院じゃねえのか!?」
「……美術院の活動はだいぶ前に止まっています。そうですね、多分おふたりが欧州へ渡った辺りでしょう」
あえてなのか、淡々と話す木村君は事務仕事が残っているからと奥へ行こうとする。それを引き止めると悔しそうな顔で振り向いた。
「こうして少しでも金を稼がないと運営費を
「なんだよ。結局、美術院で必死にやってきたのは俺達だけってことか。先生方は? 観山はどうしたんだ」
「美校の教員や画塾を開いたりとそれぞれです。でも雅邦先生はもうお加減がよろしくなくて」
それでも教えてくださっていた、という木村君の話に呆然としていた。
「だからって!」
悔しかったんだろう。がらんとした美術院の中に秀さんの声が思ったより大きく響いた。それに驚いたのか、続くはずの言葉は口の中で消えていく。
「なんだよ絵を描くんじゃなかったのかよ」
ぽつりと呟いた秀さんは大きなため息をついた。
「はあ……こんなもんなのか? こんなもんが美術に打ち込んできたやつらの結果なのか。俺は自分の心の中にあるもんを表現してみてえと思ったから必死で絵を描いてきた。それが美術院の発展に繋がるならと
僕の心が秀さんの口から出てくる。同じ思いを乗せた言葉は美術院の炭の中に虚しく消えていった。
「絵描きは金のかかる仕事ですから」
ふらふらと座り込んだ秀さんを困ったように見ながら木村君は怒ることもない。
やはり経営の難しさが原因か。確かに絵絹も岩絵の具も高い。絵筆だって揃えようと思ったら結構な金額になる。そのための給金を毎月払うのも、絵が売れなければ難しくなるのだから。
さすがに僕らの送金程度では、お話にならなかったか。
「いえ、とても助かりましたよ」
木村君は僕に少しの笑顔を見せた。
「あの送金のおかげで息がつけたのですから」
「そうだったんだ」
それほどに大変だったのか。考えてみれば、そのやり繰りをする事務方が一番苦労しただろうに。その中で木君達村が頑張っていてくれたんだと気づいて頭が下がる。絵を描くだけではなく、ここまで運営を支えてくれていたのだ。
「ひとついい知らせがありますよ。絵を描ける場所は作られます」
あまりに気落ちした僕等に同情したのか、決まったことではないけれど、と前置きした後で木村君が言った。
「岡倉先生は美術院を整理するそうです。日本画科は日本美術院第一部として、多分、
「五浦って、大津のか?」
「はい」
それを聞いた秀さんは都落ちだっぺよと呟くと頭を抱えた。
秀さんは知ってるのか。どんな所だと聞いてみると「なあんもねえとこさ」と返ってきた。
「ああ、海はあるか」
海か……印度も米国も英国も、そこで見た海は色も空気も全然違っていた。それがつい、口をついて出る。
「五浦はどんな海なんでしょうね」
「ミオさん?」
「ほら、外国も海の色が全然違っていたでしょう」
秀さんはがしがしと頭をかくと、大袈裟に息を吐いた。
「はああぁぁぁ……本っ当に! ミオさんは絵のことばかりだな!」
失礼だぞ。これでも家族のこととか美術院のこととか、いろいろ考えているのに。まったく秀さんは、いつもそう言うんだから。
秀さんは僕の肩に手を回すと、うん、と頷いた。
「負けられねえな!」
「はい! そうですね」
笑顔の僕らの間で木村君はそっとため息をついていた。秀さんの剣幕が怖いのは毎度のことだからな。
「雅邦先生の言う通りだなあ」
ぽそりと木村君が呟いた。
「木村君? なんだい、それ」
「お二人は自分と
「ああ、芳崖先生は怖かったなあ」
秀さんはちょっと
「なんてえか、お人柄は優しいんだが、ご自分に厳しい方で初見はえらく
「いいえっ! おふたり仲良くていいなってことですよ」
「武山!」
木村君を掴まえて小突きながら、秀さんが唸るように言った。
「俺は倒れてもやるぞ」
「わかりましたから離してください!」
ああ、そうだな。これからも世情は厳しいだろうけれど、僕は絵を描くのだ。絵を描く楽しさを忘れちゃいけない。美校の時のように大きな声で笑って描いてやる。
笑って、それじゃあと別れて家へ向かう。足取りは少し重い。
あんな風には言ったけれど……移転か。
移転自体は仕方がないと思う。それが秀さんが言った「なあんもねえとこ」で大丈夫なのか。
絵を描くにはいいかもしれない。けれど暮らしていけるのか。それなら少しでも買い手に近いところが便利なのじゃないのか。日暮里に移ったばかりだし、子どもが小さいから千代さんだって大変だろう。
あれから秀さんは再三誘いを送ってくる。どうしたものかなあ。
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