捌 手は止めない。描きたいものがあるのだから

「ミオさんは『菊慈童』といい、この『王昭君おうしょうくん』といい、これまでに描かれてきた構図や場面とだいぶ違うところを持ってくるんだな」


 でけえ画面だなあ、と秀さんは僕の絵を見ながら言った。

 この画題は掛け軸になっているものが多い。僕が縦六尺横一丈の大きな画面にしたのは衣の色などの工夫も見せたいからなんだ。今回は色彩の対比をやってみたい。そのためにたくさんの人物を描こうと選んだ場面でもある。


琵琶びわを抱えて旅立っている姿は多く描かれてきましたけど、別れの場面もいいと思うんです。ここが一番感傷的というか感情が多く出ている場面じゃないかな」


 匈奴きょうどとの和解のため後宮の官女を送ることになったげん帝は人選のため肖像画を描かせる。皆が絵師に賄賂わいろを使って美しく描かせたのに、それをせず醜く描かれ選ばれてしまうのが王昭君だ。

 その時、彼女の胸の内には悲しみや匈奴に対する恐れ、旅への不安、それから元帝や他の官女に対する気持ち。そういうごちゃまぜの感情が渦巻いたと思う。その中からでも見える王昭君の高潔さを描きたい。


「そうか、ミオさんの描きたいところはそこなのか」


 秀さんはそう言ってまた絵を眺め頷いていた。

 気持ちの整理もつかないまま出発した王昭君の旅は諦めの心が多くを占めたのではないかと思う。そこは僕の描きたい王昭君とは少し違うんだ。

 見送る官女達は皆、肖像画に描かれたはずの顔で見せる。綺麗なものを醜く、醜いものを綺麗に描いたなら結局同じような顔になるだろう。だから目鼻立ちは変えない。ひとりずつの表情を変える。悲哀、憐憫れんびん、嘲笑、安堵、それぞれ違う彼女たちの感情を描いた。


「人物の気持ちが描けている」

「顔が同じだから人が描けていない」


 人物についての評は正反対の批評が飛び交う。


「色は明るく派手なようで落ち着いている」


 色彩に関しては真逆というか、不思議な反応が返ってきて僕が戸惑ったくらいだ。

 色同士の均衡を保たなければならないのは難しかったけれど描くのは本当に面白かった。そもそも画面上に描ける色というのは人の目が見る色よりも全然少ないのだから、明暗、濃淡、さまざまに描きわけないと衣の質感もうまく出せなくなる。隣り合う色の見せ方でも印象が変わる。そこをいかに見せるかの工夫が楽しかった。

 この絵に関しては喧喧囂囂けんけんごうごうの絵画論が飛び交う。どういうわけか逆の反応が返ってくるのは人それぞれのものの見方、感じ方なのだろう。


 成績は銀牌一席と良いものをいただいたけれど、これにも朦朧もうろうと酷評がついて回るのが悔しい。

 もう僕の描きたかった王昭君の心をわかってくれる人がいたらそれだけでいいのに。

 次へ。

 振り切って次へ進もう。


 工夫を考え試行を重ねる。手は止めない。描きたいものがあるのだから。

 そんな試行と奮闘を続ける中、僕と秀さんへティペラ王宮の壁画装飾という依頼がきた。

 印度インド行きは魅力的なのだけれど、ひとつ心にかかることは千代さんのことだ。春夫はるおが生まれたばかりだから留守にするのが気がかりなんだ。


「でも行かれるのでしょう?」


 春夫を寝かしつけた千代さんは覚悟を決めたような顔で言った。少し声が震えている。


「お仕事では止められませんもの。ミオさんは存分に絵を描いてください。どうか無事にお帰りくださいね」

「ありがとう」


 千代さんの目が潤んで見えた。

 僕も千代さんをひとり置くのは心配だけれど八軒家なら誰かがいる。あにさんもお母上も近くにいるのだからと千代さんに言うと、そうではないと返ってきた。


「千代さん?」

「あの、もし、できたらでいいんですけど……お手紙を送ってくださいませんか」


 もちろん書くとも。手を取って必ずと誓う。

 印度で絵を描くのは心躍ることだ。だけど僕だって千代さんと離れるのは寂しいんだから。口に出しはしないけれど。いつだって千代さんを想うよ。


 それから僕らは慌ただしく旅の準備を始めた。

 他にも様々な話が美術院に舞い込んでくる。急に時間の流れが早くなったように感じた。


「美校の教員に戻るのは観山さんだけでしたっけ」

「いや、私の他にもいるよ。この件は岡倉先生の頼みだからねえ。君と横山さんだって印度へ渡るのだろう?」

「そうなんです。初めてのことなので楽しみです」


 どんな人が見るのか、どんな絵が好まれるのか、想像するだけでも楽しくなってくる。その楽しさは渡印したところまでは続いた。


「暑い……」


 ああ、ここまではよかったんだけどなあ。

 困ったことに密偵の疑いをかけられてしまったのだ。幸いにもこの件はすぐに解決したのだけれど。


「はあぁ」


 せっかく絵が描けると思っていたのに。


「ミオさん、やはり駄目だ」


 なんとかならないかと交渉していた秀さんは首を振りながら戻ってくる。残念なことに肝心の壁画装飾の話がなくなってしまった。


「踏んだり蹴ったりですね」

「まったくだ」

「岡倉先生も僕らみたいなことがあったのかなあ」


 ふと、その言葉が僕の口をついて出た。

 こういうことがあったとしても先生は世界を飛び回っておられるんだ。最初の一歩はどんなだったろう。こんな風に夢と不安を両手に抱えておられたのだろうか。


「そうかもしれんな」


 秀さんはそう応えて空を仰いだ。


「俺達より不運なことは、なかっただろうけどな」

「岡倉先生が不運だったら僕らはこんな風にのんびりかまえていられないでしょう。どちらかって言うと、先生は不運をねじ伏せて幸運にしてしまいそうな気がしますけどね」

「あっはは! 確かにそうだな。ともかく岡倉先生にご紹介いただいたタゴール氏のところへ行こう!」


 ラビンドラナート・タゴール氏は国際的にも著名な方で、先生の交友範囲の広さに驚く。訪ねた先では下へも置かず歓待してくださった。

 事情を知って甲谷陀カルカッタで作品展も開かせていただけたし、先日、彼から絵の依頼もいただいた。その分の収益で英国へ渡る心づもりを秀さんと話していたけれどあまり状況が思わしくない。もしかしたらこのまま帰国することになるかもしれないな。


「で、どうしましょうか」


 渡英の件を問いかけたのに秀さんはもう既に写生に夢中だった。生返事だけが返ってくる。

 この国の特に女性の着る衣装は仏教の考えに根差したもので、身に着ける装飾品のひとつをとっても意味があるそうだ。秀さんは絵の構想が浮かんでいるのか本当に熱心だ。ひとつずつの品に聞き取りもしている。

 この様子じゃひとまず相談も棚上げだな。

 僕らはこの暑い土地にもうしばらく滞在する。

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