漆 いつまでも悩みは尽きない

 いつまでも悩みは尽きない。けれどここで止まってしまったら今までの僕もこれからの僕もすべてが終わってしまう。答えはきっと歩き続ける先にあるんだ。それを信じてしばらくは心に沈めておくことにする。

 とにかく次の課題を考えなくてはならない。僕らは描き続けなければならないんだ。


 空気を描くこと。答えを求めて僕は窓の外に目を向ける。

 篠つく雨が大地を叩く。鬱陶うっとうしいくらいの湿気で体が濡れる。この冷たい空気を描くにはどうすればいいんだろう。

 例えば浮世絵なら版木を掘るために一本一本が大事な線になる。落ちてくる水の束が見えるならそれを描いてもいいはずだ。だけどまとわりつく湿った空気、しっとりとした雰囲気の情景に線はいらない。


 もう少しでなにか掴めそうな気がするんだけどなあ。この行き詰まっている考えをなんとか打ち破りたい。ほんの少しでいいんだ。きっかけがほしい。

 線を使わないで雨を描くなら波紋で描くか落ちた水滴の跡か。ああ違うな、そうじゃない。一滴ずつの雨そのものを描きたいわけじゃないんだから。雨の雰囲気にどっぷりとひたってその空気を……


「……そうだ、それならいっそ全部覆ってしまえばいいかもしれない」

「どうした?」


 秀さんがわずらわしそうに、もじゃもじゃした髪を掻きあげる。


「秀さん、雨です!」

「雨なら降ってるぜ、朝から嫌になるな」

「それじゃないです! 雨を線で描かないなら全部を雨で、絵を雨で覆ってしまえばいい」


 思いついたままが伝わらなくてもどかしい。言葉足らずに顔をしかめ筆をとる。とにかく試してみれば使える手法かわかる。

 描いた絵にたっぷりの水を含ませ、のせた色を乾いた刷毛でぼかしていく。


「ああ、そうか! なるほど。全体的にぼかしをかけていくんだな」

「そうなんです。こう、しゃがかかったように見えないかなと。これなら雨を描かなくとも雨の空気になると思うんですが」

「確かに今日みたいな雨なら線で描いてもいいかもしれんが、このぼかし方ならもっと湿気のある空気感を出せそうだ。霧や霞の風情ふぜいある景色が描けそうじゃないか」


 試し描きの束が重なっていく。あれからだいぶ色々試してみた。

 このぼかしの技法も少しはさまになってきたような気がする。

秋景しゅうけい』の下絵を絵絹に写す。紅葉する山川をこの技法で描いてみるつもりだ。


 この秋深い日はもう少しで冬に取って代わられる。流れ落ちる水の音。陽だまりはまだ少し暖かくても吹く風はもう冷たい。その空気をそのまま絵絹に乗せる。

 くれないあかね臙脂えんじ蘇芳すおう。山並みの奥まで続く紅葉が濃く淡く赤く溶ける。色づく深山の木々は川面かわもにも色が揺れる。立ち上る水の気配を秋霧にぼかしていく。

 輪郭をなくす、意匠をこらす、色の線で描く、空気を描く。


 あちらに寄りこちらに寄り、様々な手法で描いては出品する日々が過ぎていく。

 それでも僕はまた共進会に出した絵の前でため息をついていた。


「はあああぁぁ」

「こらこら、ため息が大きい」


 観山さんはそう言うけれど、ここまで手酷く言われたらこれくらいいだろう。いくら僕の絵が実験的でもこの評価はないんじゃないか。


「俺はこの『菊慈童きくじどう』好きだぜ。これは永遠の孤独だ」

「そうだねえ。確かに怖いくらいの幽玄だよ」

「秀さんや観山さんはわかってくださるからいいんですよう」


 そう言って僕はもう一度ため息をついた。

 今回、出品したのは『菊慈童』という周の時代の話から描いたものだ。罪を得て辺境の深山に流された少年が、菊の霊力によって不老不死を得たという伝承がある。

 その逸話から長寿の吉祥画題として取り上げられるもので、これまでは人物だけが大きく描かれていた。だけどそれじゃあ子どもが菊を持ってるだけじゃないか。僕は伝承の背景があって初めて画中の人物は菊慈童たり得ると思う。だからこそこの構図になったんだ。


 六尺ある画面の半分以上は奥深い山の景色。

 その山中の紅葉した森林全ての色に胡粉ごふんを混ぜる。この白い絵の具を混ぜると光が浮き出るように見えてくる。木漏れ日の森を線を描かずに色だけで描く。


 手前には静かな湖面と、水際に菊を手にして独り佇む少年。この人物は仙郷のような雰囲気の周りの様子とは対象的に胡粉の白と金泥きんでいの線で細緻に描いた。

 白い衣の少年は今ここで初めて寂しさや心細さを噛みしめている。


「明るく描かれた人物には必ず目がいくはずです。それなら深い山での孤立が際立つし、誰とも分かち合えない永遠の孤独に途方に暮れたようにも見えると思うんです」


 そんな僕の考えは一蹴いっしゅうされた。やはり吉祥画題として描かれていない菊慈童は受け入れられないのか。


「ぼかしで誤魔化したとか、対象の人物が小さいとか、批評自体がそんなだからねえ」


 観山さんも苦笑混じりに首を振る。

 そうなんだ。例えばこの表現はどういう意図か、この考えは、そんな風に聞かれたら賛同も解説も反論もなんだってするけれど、こうなるとため息しか出ない。子どもが菊を持ってるだけっていうのも言ったまんまを言い返されてしまったしなあ。


「腐る気持ちはわかるよ。俺も『菜之葉なのは』は結構な言われようだからな」

朦朧もうろうっていうのはいただけませんよ。嫌な言い方ですよね」


 さすがに「朦朧とした画」というのは心に刺さった。秀さんは慰めてくれるけれど、また美校騒動の時のように今度はその朦朧で僕らを攻撃してくるかもしれない。そう思うと心がささくれ立ってしまう。


「まあ、批評する側の気持ちもわからないわけではないよ。この方法だとどうしても色がにごるから伝統的な日本画の美観にそぐわないんだよねえ」


 ああ、観山さんは痛いところをついてくる。


「確かにそこは問題だと思ってますけど」

「まあ、俺達は研究の過程でこういう描き方になってるだけ、っていうのがわからん奴には言わせておけばいいさ」

「そこは秀さんの言う通りですね。うん、次の課題は没線で描いて全面ぼかしても色が濁らないように表現することにします」


 わかってくれる人がいるとは思うけれど、色を重ねると濁るのは絵の具の特徴だからなあ。どうすればいい? 水気を含んだ表現にはよく合う。それは間違いない。

 たとえば明け方に帰ってくる釣り舟。ほのかな曙色の光が広がる中、川岸で魚籠を上げる漁師達。こういった川霧に霞む様子を情感たっぷりに表現するためにはとてもいいと思うんだ。


 その考えで『釣帰ちょうき』という作品を描いた時、岡倉先生からお褒めの言葉をいただけた。

 実験的な手法に関して手放しに褒めてはくださらないけれど、それはまだやれるだろうという激励なんだ。それでも試してみた手法はわかってくださって、こうして良い評価をくださる。それが本当に嬉しくて「詩情豊か」と評が書かれた新聞を何度も読み返していた。


 その時ようやく僕は思い出したんだ。

 試行錯誤を重ねて時には自分でも不思議な絵だと思うものもあったけれど、その時の僕には必要な研究だったこと。それがなければ次の絵も描けなかったこと。描くのをやめなかったこと。

 忘れかけていたことを思い出した。簡単なことなのに僕は何を悩んでいたんだろう。一番大切なことは心の奥にあった。これは十五歳じゅうごで上京した時に結城先生にも言われたじゃないか。


「絵を描くのが好きなのは一番いいことさ」


 くさされて評価ももらえなくて嫌いになりかけていたけれど僕は絵を描くことを捨てられない。最初は兄さんのためと思っていた。それは今もそうだけれど自分のためでもあるんだ。

 もう忘れない。

 僕は絵を描くのが好きだ。

 課題は尽きないけれどそれがまた僕に火を点す。また前を向いて進んでいける。

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