陸 弱い自分が顔を出した

 出品してひと息ついたけれど、画家として描くのは学生時分とは違う緊張感がある。絵を描くことは生活の手段でもあるのだ。

 だから手は止められないし、出品した絵も駄目だと思われたら全く売れなくなる。絵が売れなければ美術院の運営も難しくなってしまう。

 展覧会は全国で開かれたけれど、厳しい現実を目の前に突きつけられることも多かった。僕の描きたいものはどちらかといえば研究所としての美術院のあり方に寄っていて、実験的な絵を描くことが多かったから。


 ああ、自分に言いわけをしても仕方ないな。つまり僕の絵はあんまり売れなかったのだ。最初からこれでは千代さんにも呆れられてしまう。

 だからと言って売れる絵だけを描くのは違うだろう。芸術を描くことが僕らのやるべきたったひとつのことなのだから。

 研究すべきことはいくらでもある。配色も、水墨画の手法も、狩野派の技術も、写実と装飾の活かし方、西洋画の遠近や光の表し方、ぼかしの方法だってひとつとは限らない。今はとにかくなんでも試してみたい。


「まだ描くのかい」

「えっ? 秀さんはもう描かないんですか」


 描きかけの下絵から顔を上げると秀さんは困ったように笑っていた。


「せっかく出展する機会が増えたし試したいこともあるし、どちらにしろ描かないわけにはいかないでしょう」

「ミオさんは本当に絵ばかりだな……だが描かなきゃ始まらねえし、ミオさんに負けるのはちょっとなあ」


 独りごちて秀さんも筆をとる。

 なんだい、結局自分も描くんじゃないか。僕のことばかり言って、ちょっとってなんなんだよ。心の中で文句を言いながら気持ちを絵に戻す。


 今はこれを仕上げたいのだけれど、まだこの絵について考えがまとまっていない。

 昨今は歴史画が流行りだそうだ。だから僕もそれを考えて、今回は『六歌仙ろっかせん』というやまと絵の伝統的な画題にしたんだ。西洋画の手法を取り入れるなら、尾形おがた光琳こうりんの絵のように装飾的な表現が合うのではないかと思っている。


 ちょうど美校で三十六歌仙の模写をしたことがあったし、そこから構図を考えてみた。

 扇や太刀も細かいところまで写実的に描きたい。確か、僧の法衣ほういくらいがあったな。それに衣の意匠も品良く飾りたいから装束の資料も探してこなくては。確か光琳は呉服屋の人だったな、意匠もじかにたくさん見られたんだろうなあ。


「下絵まだ描くのかい。もうだいぶ描いてるじゃないか」


 秀さんは迷ってるとか、上手くいかないとか、そういう気持ちを見透かすように声をかけてくれる時がある。そう、実は迷っている部分があるんだ。僕の頭の中が見えるのか?


「少し納得できないところがあるんですよね。それで時間がかかってるんですけど」

「ふうん、必要なところは煮詰まってきてるように見えるし、一旦、整理するといいかもしれんぞ」


 そうか、手元にあるものをこねくり回すより、整理した中から取り出すほうが上手くいくのかもしれないな。

 ぼんやり考えていたら秀さんの言葉に頭を殴られた。


「この小町は千代さんに似てるな」

「なっ、なんですか! 似てませんよ。千代さんはもっとこう、はっきりした可愛……」


 おっと、のせられるところだった。きちんと口を閉じておこう。


「うん、もっと明るくてはきはきした感じだったか。千代さんは春の野花の雰囲気があるよな。そうだ、ミオさんの画号みたいじゃないか……って、どうした?」


 それ掘り下げてくるのか! 頭に血が上ってがんがんと殴られているようだ。顔が熱いのに冷や汗が流れる。思わず襟元を握りしめた手が震えた。


「おい、どっか悪いのか。大丈夫か!」


 なんでわかったんだろう。兄さん以外、千代さんにだって言ったことないのに。


「だい、じょぶ、です」

「んなわけあるか! 寝食忘れてってのは俺にもわかるし大丈夫だろうと思ってたから言わんかったが本当に顔色がよくないぜ」


 違うんだ、これは驚いただけなんだ。


「もう切り上げて今日は休みますから。一晩寝れば平気ですよ」

「疲れて具合悪くなったんじゃねえのか。千代さんが心配してたぞ。自分が言っても聞かないってな。ミオさんはやり過ぎる時がある。千代さんはそういうところをよく知らんのだろう? それなら余計に心配かけるのはよくないぜ」

「わかってます。ほら、ちゃんと動けるでしょう。大丈夫ですから」


 立ち上がって動いてみせて、秀さんの心配を強引に押し切った。

 六歌仙の人物を描くにも個性が出るように、顔や体つきを考えようって思っていた。似せたつもりはなかったのに、こんなところから千代さんのことを言い当てられてしまうなんて。

 あんな面と向かって言われたら恥ずかしいじゃないか!


 ああ、びっくりした。まだ顔が熱いや。

 千代さんにも心配かけてたんだな。本当に今日こそはちゃんと休もう。

 もう一度、六歌仙ひとりひとりに向き合うんだ。一晩ゆっくり寝て新たな気持ちで取りかかろう。


 どんな人物か、ようやくひとりひとりの顔が見えてきた。文屋康秀ぶんやのやすひで官人かんじんであり、大伴黒主おおとものくろぬしは地方豪族だった。貴族から世捨て人のような喜撰きせんまで和歌をたしなむ者は大勢いたのだ。

 彼らが集まって詩想を練っている空間は静かで、句を呟く声が微かに聞こえてくる。


 金地背景に鮮やかな色彩をのせても煩くなってはいけない。車座になる彼らの装束からさらさらと柔らかな衣擦れの音が聞こえてくる。ああ、これなら互いに和歌を詠み合うのも楽しいだろう。この雰囲気を伝えたい。

 僕は二曲一双の屏風を前に筆をとった。


 いろいろ苦労はあったけれど『六歌仙』を仕上げられたら次の画題に手をつけられる。

 美術院では研究することがたくさんあるのだから。最近は特に音曲おんぎょく画題とか歴史画題といった、抽象的な題材にどう応ずるかを試されていた。

 描いた絵を互いに批評し合うのも勉強になる。


「おっ、どうした。今度の音曲画題か。詩吟しぎんでもうなってんのか?」


 茶化すように言ってきた秀さんは、頷いた僕を見てすぐに真面目な顔になった。


「あれは難しいよなあ。だが画題に対する集中力だとか発想力だとか、そういう力はついてきたと思うぜ」


 確かに秀さんの言うとおり、画題に対応する力はついてきたと思う。何度も描いているうちに特になにを考えることなく描けたものもある。


「どうしたい、ミオさん。なんだか元気がねえな」


 本当に親身になってくれる。傍にいてくれると頼もしい。


「そんなことないですよ。今回の画題に対する考えがまとまらなくて」


 同じ画題に対する他の人の考えや技法に触れたら僕もやれることが増えるはずだ。そう思ってこの一年がむしゃらにやってきた。


「秀さん。僕、いくら描いても岡倉先生の理想を描ける気がしないんです。描いても描いても大して評価も上がらない。そんな絵、要りますか?」


 口をついて出たのは課題とは別のことだった。

 ぼそぼそと呟いた僕に、秀さんは呆れたような声で返してくる。


「ミオさんは何をそんなに急いでるんだ? 慌てなくても絵は逃げやしねえだろう。もっとじっくり取り組むべきだぜ。俺にはそんな大きな目標が一年二年で達成できるとは思えねえんだがな」


 秀さんは落ち着いてもっといろんなところに目を向けろと言うけれど、何者でもない自分が歯がゆくて仕方がない。

 表現の研究もしたい。描き方の工夫はいつだって必要だ。そうやって毎回描いている。

 だけど何をやっても足りない、満たされない。自分の中では納得して絵を描きあげているのだけれど、終わってみると何かが足りない気がしてくる。もっとできることがあったと思えば気に入らない絵を破り捨てたくなる。


「俺だって絵を描き始めてからは迷ってばかりだぜ? せっかく描いた絵を批評家に叩かれたら悔しいし、ミオさんや観山が賞を取ったりしたら羨ましいと思う。それでも俺は絵を描くしかねえし、そのためにはどんなものが描けるか考えるよ」


 ここまで秀さんに言わせて、ようやく弱い自分が顔を出した。

 僕はちっとも評価されないことに対して落ち込んでいるってことか。実験的な絵ばかりを描いていて、くさされることには慣れたつもりだった。

 だけど本当はがんばったなと言ってほしかった。よくやったと褒めてほしかった。このもやもやした気持ちはそういうことなのだろうか。


「なあ、ミオさんが今描きてえものはなんだい? それがすぐに出てこねえのなら、まだ考えきれてねえんだよ。俺は絵描きは心で描くんだと思ってる。描きてえ絵で自分の心がいっぱいになるまで練り上げるんだ」


 鼻の奥がつんとした。

 負けん気ばかりが頭にあって落ち込んだのは確かにその通りだ。それだけじゃない。僕はまっすぐに絵と向き合っているだろうか。今の日本画に飽き足らないのはそうだけれど描きたいものはなんだろう。そもそも今の僕は絵を描きたくて描いていると言えるだろうか。

 秀さんの手が俯きっぱなしの僕の頭に乗せられた。いつもなら振り払ってしまうのに、なぜかこの時はされるままになっていた。

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