伍 空っぽの僕は、なにを描きたいと思うだろう

 さっそくこの課題に取り組もうと、考えを整理するところから始めた。

 まずは今までの考えをなくしてみようと思う。頭を空っぽにして僕に何ができるかもう一度考えてみるんだ。


 写実に寄れば西洋画なんて考えも、日本画の輪郭線の有無も、なんなら画家の考えを表すことも忘れよう。習ってきたことも、狩野派の画風も、模写で覚えたことも頭から追い払って。色彩も頭の中から消そう。


 空っぽの僕は、なにを描きたいと思うだろう。

 子どもの頃、最初に絵を描いた時は墨だけで落書きみたいなものを描いたんだっけ。手習いの先生には叱られたけれど、楽しかったことだけは覚えている。

 またそこから始めてみようか。


 西洋画と日本画の違いは、光や空気、距離や空間の見せ方。輪郭線を描かないところ。

 今の日本画の描き方とは違う考えを、まっさらな僕に取り込む。

 まず試したいのは、線を使わず濃淡だけで描くこと。墨だけでどこまで光を表現できるかということ。これだけをやろう。


 林と、岩に猿。今までもよく描かれてきた題材だ。

 目線は下げて、雑木林の写生画を描くように構図を決める。ここは西洋画の風景の描き方を参考にして描いていこう。


 背景の奥だけに明るく光が集まるように、絵の中心に向かうごとに薄く墨をぼかす。猿は中心に置いた岩の上で遊ぶのだ。岩に乗る猿の向こう、林の先に光を見る。

 輪郭線を描かないという課題に『寒林かんりん』という僕なりの答えを描いてみた。


 ひと区切りついたところに、本を抱えた秀さんが通りかかる。


「秀さん、出かけるんですか」

「こないだ岡倉先生のところへ島村しまむら抱月ほうげつ先生が来られたろう。その時の屈原くつげんの話が面白くて俺も読んでみてるんだが」

「えっと『離騒りそう』でしたっけ。詩を論じておられましたよね」

「そう、それの中でよくわからんところがあってな。講釈こうしゃくしてもらおうと思ってるんだ」


 じゃあな、と手を振って大股に歩いていってしまった。

 秀さんは想を練っているところなのだろうな。僕も今はいろいろな描き方を試したい。そうだ、他にも写生した景色がいくつかあるし、あれも絵にしてみるか。


 いくつか違う風景の下絵を描いてみたけれど、これについては『武蔵野むさしの』という伝統的な題材を選んだ。

 基本的には富士とすすきを描くもので、これまでは余白を残した箱庭を楽しむような構図で描かれていたものだけれど、画面いっぱいに色をのせてやはり西洋の風景画のように描こうと思う。


 前景には芒に留まる百舌鳥もずを一羽。ここだけは輪郭線を描いてはっきりと見せたい。その周りの芒は風に吹かせて、これは秋らしく涼しさを含む。


 距離の見せ方は工夫が必要だな。線を使わないのはやはり難しい。遠くに見える富士は夕暮れの色に溶け込ませ、まだ少し暖かさが残っている大気の雰囲気が出るように描いてみる。これなら芒野原がもっと広がって見えないだろうか。


「よう、ミオさん。進捗はどうだい?」

「そろそろ次のを考えようと思ってるんですが、秀さんはどうですか」


 僕がそう言うと、相変わらず描くのが早いと苦笑で返された。けれど、見ていくかいと続けたその顔には良いものが描けたらしい想いが溢れている。

 もちろん二つ返事で見に行くことにした。


「これですか」

「おう、これが『屈原くつげん』だ」


 屈原はの政治家だ。能力があるがゆえに妬まれて姦計かんけいまり、国の将来を憂えて入水じゅすいしたという人物なのだけれど。これは……

 大きな画面の中、前を見据えた人物がいかめしい顔で立つ。


「これ岡倉先生でしょう」

「ミオさんにも、そう見えるかい?」


 少し参考にさせていただいたよ、と秀さんが笑う。


「岡倉先生は将来に絶望なんてしてないし、入水もしてないぜ。そういうのとは一番遠いかたじゃないか」

「そうでしょうけど。こんなに似てたら、皆、先生がはかりごとで追い出されて怒ってるって見るんじゃないですか。それなら歴史じゃなくて、秀さんの私的な気持ちを描いたってことになりませんか」


 それを否定はしないと秀さんは言った。


「ただなあ、俺は入水する前の屈原は国の将来に絶望する前に怒っていたと思うんだよ。なぜ自分の話を聞いてくれない、なぜ自分の策が受け入れられないんだ、ってな。その怒りがあってこその絶望だと思うんだ」


 驚いた。あの屈原の詩からそんな解釈をするのか。

 この画題は孤影蕭々こえいしょうしょうと死に向かうさまで表されることが多いけれど、恨みをぶつけるかにも見える厳しい表情は、あえて描かれたものなのか。


「多分、批評家連中もそこをつつくんだろうよ。こんな怒り狂った顔の屈原が入水なんかするか、ってな」


 秀さんはコホンとひとつ咳払いをする。


「俺は賞牌なんてどうでもいい。醜いとか原典理解が足りないとか言われてもいい。なんと言われても絶対にこの絵を出したいんだ」


 屈原の境涯が岡倉先生と似ている。そう思って島村先生のところで勉強していたのか。詩の解釈を練り直して先生に重ね合わせて描いたんだな。

 秀さんは本当に一途いちずな人だ。こんな人だから、ああいうやり方で先生を追い出した美校も、醜聞しゅうぶんを書き立てた新聞も、どうしても許せないんだろう。


「で、ミオさんは? 『寒林』出すんだろ」


 照れ隠しのように秀さんが言った。


「はい、それと『武蔵野』も出そうと思っています」

「二つ出すのか。『寒林』は評価が難しそうだな」


 確かにあれはかなり実験の色が強い。


「不思議な空間にいるみてえだ。だが、それが冬木立ってことだけでなく他の意味にも繋がってるようで、俺は面白い作品だと思うぜ」

「ああ、そういう見方もできるんですね」


 これは僕の描き方が未熟だからだろうな。どこかこの世のものではないような、浮き上がるような感じになってしまったのだ。

 寒林には墓所の意味もある。ただの冬枯れの林じゃなく、秀さんのように意味を深く読んで評してくれる人がいるのは嬉しいものだ。



 出品者した共進会では、やはり『屈原』が大きな話題になった。せっかくの銀牌なのに、秀さんが予想した通り良い評価だけではなかったのが残念だったけれど。

 もう一点の銀牌は観山さんの『闍維じゃい』という作品だ。ふたりが良い成績を残せたことで、美術院はなかなかいい出発ができたと思う。


「観山さんは仏画を描いてたんですね」


 西洋でも仏教思想に関心が高まってきたそうだから、岡倉先生も仏画を題材にした絵を募集されていた。この絵はそれに対する観山さんの答えでもあるんだ。


「これでも色々と怒っているんだが、私は小心者だからねえ」


 観山さんは少し困ったような表情で言った。


「美校を出て新たに出発した岡倉先生と重ねて見せても、横山さんのように直接的な描き方はしない。西洋絵画のやり方や濃淡の表現を使っても、君の『寒林』のようにそれだけでは描かない。そういうところがね」


 釈迦しゃか荼毘だびに付す場面。この時に母のために説法せっぽうをしようと光明こうみょうを放つ。その仏教における再生の考えに、岡倉先生への気持ちも重ね合わせたのだろうな。

 鮮やかな色彩の衣は質感も濃淡で表現されていて、これは特に参考になる描き方だ。


「西洋画の手法を盛り込んでいろいろ探ってみたが、さすがに消化不良気味といったところだねえ」


 観山さんは受け入れられやすいがそれまでだろうと続けた。

 そんなことあるもんか。こんな風に描けるのはすごい。受け手の感情まで考えて、これだけのものを作りこんできたんだろう。


 今まであまり描かれていなかった題材に、手法や考えを混ぜ込んでまとめて、ひとつの作品に仕上げているのはこの人の上手うまさだ。僕ももっと描き方を研究してみなくては。


「これで消化不良って、とんでもねえな」

「ま、今のところは私をすごい絵描きだと思ってくれたらいいさ」


 観山さんは秀さんに言い、僕を見てニッと笑った。


「ちぇっ、言うなあ……にしても西洋絵画の亜流、か」


 苦笑いの秀さんから、今度はため息と一緒にぼやきが出る。

 今回、批評家に突っ込まれたのはそれだった。僕らの絵は亜流でしかないのだそうだ。


「輪郭線をどうこう言うから描かなかったのに、やったらやったでしざまに言われるのではたまりませんね」


 僕が言うと観山さんの笑顔も苦笑いに変わった。


「まあ、そこは仕方がないさ。やっていることは西洋画の手法からきているし、始めたばかりだからまだ中途半端なのだろうねえ」


 観山さんの言葉を受けて秀さんが言う。


「それでも俺達が表現したいものは、きっとその先にあると思うんだ」


 そう、きっとそうだ。僕は秀さんの言葉に大きく頷いた。

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