参 美校騒動

 教室の中が騒がしい。


「おはようございます。皆さん、どうしたんですか」


 何でもありません、と慌てて紙を片付ける学生達を不思議に思ったけれど、とりあえず僕は授業を始めることにした。


「では始めます。今日は……」


 騒がしかった教室内も描き始めると静かになった。

 教室の中を巡り作品を見て歩く。この学年は皆、基本ができているからな。集中して描けているようだし邪魔な音は不要だろう。

 それなら僕も描いてみようかと筆をとる。次の共進会への参考になるかもしれない。


「……菱田先生」

「木村君? 描き方の質問かい」

「あの、授業終わりですけど、提出物は集めてここに置いていいんですよね」


 しまった! 時間を忘れてた。

 駄目だなあ、描き始めると夢中になってしまう。僕は並べられた絵を見て頭を掻いた。


「すまない、ありがとう」


 研究科も一緒に描いていたから木村君がいてくれてよかった。僕より二つ下なのによく気がつくし、よく助けてくれる。もしかして頼りなくて放っておけない、なんて思われているのだろうか。ここは慕ってくれてると思いたいところだ。


「先生、私、中尊寺ちゅうそんじ金色堂こんじきどうの修復で出掛けることになったんです。こういうのお手伝いできなくなるんで気をつけて下さいね」

「修復かあ、大変そうだけど頑張ってくれよ」


 はい! と、はりきって返事をする木村君が眩しい。卒業したての僕もこんなだったのかなあ。ほんの少しだけの昔を懐かしく思う。

 おっと、懐かしむよりもこれからのことだ。次の絵を考えておかないと。それに、さっきのことも気になる。


「ところでさ、あれ何だったの」

「皆が隠したやつですか。先生、もしかしてまだ知らないとか?」


 なんだか不安になる言い方だな。

 木村君は懐からくしゃくしゃになった紙を僕に出してみせた。


「何これ」

「怪文書ってやつですよ。出元は、多分ですけど福地ふくち復一またいち先生だと思います」


 なんだこれは。しわくちゃの文書を読み終わった僕は唖然として木村君を見た。


「これのどこまでが本当かわかりませんが、美校中にばら撒かれているらしくて皆も困惑しています」


 どうしたらいいんだろう。こんな文書を見て、岡倉先生はどう思っていらっしゃるだろう。


「ミオさん? どうした、顔色悪いぞ。大丈夫かい」


 ひょいと顔を覗かせた秀さんが驚いたように言う。

 そんなに酷いかな。ああ、僕は自分が思っているより動揺してるのかもしれない。


「秀さん、これ」


 紙切れを差し出す手が震える。秀さんは知ってるよと渋い顔をした。


「同じものが新聞社にも渡ってるらしい」


 美校の外へも? なんだってそんなことをするんだ。


「福地先生は九鬼くき隆一りゅういち男爵に取り入ってるって話も聞いたぜ」

「九鬼男爵って帝国博物館の? 岡倉先生の上司に当たる方じゃないですか。こんなのを書かれた上にそれじゃあ、理事の職もどうなるか」


 福地先生と岡倉先生の間に何があったのだろう。


「学科の件で二人の間に意見の対立があったのも確かだし、福地先生が美校から出されるって話もあったし……その辺りが元で遺恨が深くなったのかもしれんな」

「それで岡倉先生は」

「九鬼男爵のところへ話をしに行ってるそうだ。どうあれ、その結果待ちだな。今は静かに待つのがいいだろう」


 僕らは無力だな。先生のために何かできることがあればいいのだけれど、待つしかできないのが悔しい。

 ところが静観を決めた僕らを嘲笑うかのように、その日から新聞は連日大騒ぎだった。


 美術界波乱の真相だの、美校騒動だのと、あんな怪文書を真に受けているのか酷い書かれようだった。

 先生の教えを受けたこともないのだろう? 妄言もうげんもいい加減にしてくれ。そんなものと美術に対する考えを一緒に語ってほしくない。誹謗中傷ひぼうちゅうしょうばかりで腹に据えかねる。


 なんとかそれを心に沈めて授業に臨んだけれど、学校中がざわついてまともな授業にもなりはしなかった。

 そして騒ぎの挙句、九鬼男爵は岡倉先生を排斥する方向に動き出す。結局、先生は美校の校長、帝国博物館の理事などすべての職務を辞任された。


 それを聞いて急遽きゅうきょ、美校の教授陣が集まった。


「岡倉先生がお辞めになるんなら俺も辞める。これだけ美術界のことを考えている方が美校を追い出されるなんてあり得ん。こんなギスギスした雰囲気の学校にいたって、いい絵が描けるわけもねえ」


 興奮して思わず出たのだろう。秀さんは、どこか平坦で尻上がりな北関東訛りで叫ぶ。


「私も納得できないね」

「先生の辞任を取り消すことはできないんですか」


 それをきっかけに皆がざわざわと騒ぎ出す。

 秀さんは僕の前で、どうするんだと詰め寄ってくる。


「こう言っちゃなんだが、ある意味ミオさんも原因のひとつだぜ」

「どういうことですか」

「卒業制作だよ。岡倉先生の鶴の一声で決まったんだろ? それも因縁のうちらしいって聞いたぞ」


 あのやり取りだと確かにそうだったかもしれないな。あのことがなかったとしても、僕は福地先生とはそりが合わないし彼の元で絵を描く気もない。

 僕は岡倉先生の理想を描きたいんだ。だから先生が辞職されたと聞いて、もうすっかり自分も辞める気になっていた。


「ここで騒いでいるだけじゃどうにもなりません。いずれ岡倉先生からお話があるでしょうし、それまで自分の考えをまとめておくというのはどうでしょうか」


 観山さんが皆を見回して言う。


「事ここに至ってそんな悠長なことは言ってられんよ。俺は岡倉先生の辞任に抗議するために美校に辞表を出す!」


 慎重論を言う観山さんに反対する秀さんは、堪えきれないように立ち上がって声を上げた。


「ああ、確かにその点は主張しなくてはならん」

「私も辞表を出そう」

「そうだな。抗議すべきは抗議しないと、あちらの派閥の専横を許すだけだ」


 発言に賛同の声が上がった。


「ありがとうございます! 俺みたいな助教より、教授の皆さんのお名前があったほうが効果的だと思います。俺達の覚悟を美校に叩きつけてやりましょう!」


 顔を赤くした秀さんの声に、期せずして拍手が起こる。観山さんもひとつため息をついた後は、頷いて拍手を送っていた。

 この時、西洋画科以外の教授陣は、雅邦がほう先生を筆頭に三十四名全てが辞職願を提出し、抗議の意志を表明したのだった。


 これがまた次の騒動の元になってしまう。

 今度は学生達が、岡倉先生や雅邦先生の辞職撤回を求めて美校に抗議したのだ。こうなると文部省としても捨てておけない。なにせ官立の美術学校なのだ。存続のためにと慌てて慰留いりゅうに乗り出してきた。


「川端先生は残られるそうですよ。他に……十二名でしたっけ。辞職願を撤回したらしいですね」


 噂話を横で聞きながら、一矢くらいは報いたかと秀さんは腕を組んだ。

 僕も少し溜飲りゅういんは下がったけれど、まだ不安なことがある。


「美校はなんとかなりそうですね。あとは僕らに絵を描ける場所があったらいいんだけど」

「岡倉先生は新たに美術院を作るお考えだぜ」

「本当ですか!」


 秀さんはニッと笑う。


「こういう時、下っ端は走り回るもんさ。少しだが先生の使い走りをさせていただいた。俺達、辞職組は先生と一緒にやっていける。これからも大いにやろうじゃないか」


 僕らの辞職願が受理されて、やっと騒動に決着がついた。

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