漆 いよいよ僕も卒業制作を考える時がきた

 いよいよ僕も卒業制作を考える時がきた。下村先生にもよく考えろと言われていたから、最後の学年の一年間をかけるつもりで題材を探していて、実はそのために奈良に行こうと考えている。

 為吉兄さんから仕送りをいただいているのに、これ以上甘えていいのだろうかとは思うのだけど。参拾五さんじゅうご円あれば行けるんだ。


 奈良や京都の寺を見ることができる。もちろん簡単に行けるとは思ってないけれど、見に行きたい。絵を描きたい。ああ、できたら飯田へも帰りたいなあ。あれから一度も帰ってないんだもの。


重衡しげひらの『南都焼討なんと やきうち』を描こうと思ってるんです」


 会う人、会う人に言っていた。


「卒業制作にしようと思っているので」


 だからもう、からくり人形のように口から出てくる。


「寺だけは見ないと描けないんです」


 これまで順調に絵を描けてきたのに、ここでつまづくのか。

 参拾伍円あればなあ……


「……参拾伍円」


 ぼうっと呟く僕の後ろで誰かの声がする。


「ありゃ、どうしたんだい?」

「さっきから、あれしか言っていないねえ」


 焼き討ちを仕掛けて僧兵そうへいの討伐をしようといていた重衡の思惑を越えて、火災は奈良の大部分を燃やし尽くす。権勢を誇る寺社も一瞬のうちに儚く消えていく。それは苛烈かれつに攻めていた重衡も呆然とするほどの火勢だった。荘厳な寺がいくつも焼け落ちる。


 頭の中にその場面が浮かんでは消える。寺の写生ができれば、朧気おぼろげに浮かんでいる構図も決まるはずなんだ。重衡の思いも、僕のこころもちもそこに詰め込める。


神来しんらいさん、なんで東京には東大寺とうだいじ興福寺こうふくじもないんでしょうね」

「返事に困ることを聞くな」

「はあぁぁぁ」


 結局、兄さんから借りられた分では、奈良で絵を描いて回るには到底足りなくて。申し訳なさと、卒業制作はなんとしても良いものを残さなくてはという思いで胸がきりきりと痛む。このまま何も描けなくて落第なんて、兄さんをがっかりさせるようなことできるもんか。


 他にも僕のこころもちを表せるものがないか探してみようかなあ。思考の煮こごりみたいなところから一度抜け出したほうがいいのかもしれない。

 そうだ、散歩の途中で描くものを見つけたり、想が湧いたりするのはよくあることじゃないか。

 ちょっと学校の外を見てみよう。


 美校を出て町を歩く。

 歩いて歩いて、歩き回った挙げ句、僕は木の根元に座り込んでしまった。


 ああ、駄目だあ……僕はどうかしてしまったんだろうか。いつもは「これだ」というのがポンと浮かんでくるのに、なんで今回はさっぱり出てこないんだろう。


 年中どこかで咲いてる撫子がここでも風に揺れている。呆れた顔でゆらゆらと揺れる。わかってるよ。焦ってるのはわかってるんだ。でもさ、なかなか題材になるものが見つからなくて落ち着かないんだよ。

 花ばかり見ていたものだから、いつの間にか写生をしていたのも手が伸びてくるまで気づかずにいた。


「あ」


 思わず出た声で手が引っ込む。すみません、と女の人の声がした。


「いえ、いいんです。こちらこそすみません」


 立ち上がってあたふたと謝罪を口にする。顔を上げると、困ったように笑う女の人がいた。


「すみません、描いていらっしゃるとは思わなくて」

「いえ、本当にいいんです。もう描くのが習い性になっていて僕自身も描いてるのに気づかなくて」

「まあ」


 その人は花が揺れるように笑う。なにかを掴めそうな気がした。

 それでは、と小腰を屈めた様子が風に揺れる野の花のようだ。今、帰ってしまったらこの人とは二度と会えないだろう。そんなのは駄目だ。この手からこぼれてしまっては二度と掴めない。


「待ってください」


 僕は思わずその人の手を掴んでいた。


「あの……もしよろしければ、あなたの絵を描かせてもらえませんか。僕は美術学校の菱田三男治といいます。卒業制作の絵を描きたいんですけど、予定していた題材では描けそうになくて。だけど、あなたを見ていたら描けそうな気がしてきたんです。よかったら……じゃなくて、ぜひ描かせていただけませんか」


 一気にそう言った僕に面食らったようで、その人は目をぱちぱちとさせた。

 僕だって驚いてる。初対面の人にはなかなか口をきけない僕が、こんなに言葉を尽くして引き止めてるなんて。


 自分の行動に呆然としながら、その女の人を見た。困ったように首を傾げる様子も、なんだか撫子のようだな。ん?

 うわあああ! 手! 握ったままだった!


「す、すみません、すみません! 失礼なことをしてしまって」


 慌てて謝る僕に、その人は笑いながら言った。


「あの、今日はあまり時間がなくて。明日でもかまいませんか」

「……え? 本当に?」

「はい」

「本当にいいんですか!?」

「はい」


 安心したら膝から力が抜けてしまった。細い細い糸だけれど、これを手繰たぐっていけば描けそうな気がする。


「本当にありがとうございます。助かります。明日、この時間にここでお待ちしてます」


 この人が僕の提案を受けてくれて本当によかった。涙があふれそうになって、勢いよく頭を下げた時にぐいっと袖で顔を拭った。

 女の人に手を振り返して、僕は学校へ向かって駆け出す。


 この手に掴んだのは細い糸だけれど、描きたいと思うものが形を成す時のこころもちに繋がっている。まだぼんやりとした感触だけど確かにそう思うんだ。


「おや、参拾伍円君。今日はだいぶ上機嫌だねえ。何かあったのかい」

「下村さん、じゃない、先生。聞いてくださいよ。絵を描いてもいいって言ってくれた女性がいるんです。人物を描いてみようと思って」

「ほう、焼き討ちは描かないのかい。ずいぶんと行き先が変わったねえ」


 焼き討ちの話を振られて、戦いの間、家で待つだけの人達へ思いが向かった。

 悲しみと不安と、うらみも持つかもしれない。今も昔も戦いの無情は変わらない。ふと雅邦先生の『三井寺みいでら狂女図きょうじょのず』の構図が浮かぶ。ああ、これは……


「どうしたね? 大丈夫かい」

「……できた気がします」


 それだけで下村先生は察してくれたようで、よかったねえ、と頷く。


「素敵な女性と出会ったようだねえ。名はなんという人なんだい?」


 続いたその言葉で僕は大変なことに気づいて青くなってしまった。


「どうしよう、名前聞くの忘れました」

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